地上階北側廊天井の異様なモザイク群はイコノクラスム期のものか、イコノクラスム以降のものかよくわからないものがあった。
その中で赤いテッセラで表されたのが十字架を元にしたような幾何学文で、その上あるいは下にも独特の文様のモザイクがあるのだった。
その一つを拡大してみると、赤い文様の上に多色による幾何学文があるのがわかったので、勝手に赤い十字架はイコノクラスム期、その上の文様はイコノクラスム以降のものとした。
赤い線をほとんど壊さずに上の文様の色ガラステッセラを嵌め込んでいくのは、かなり難しい作業ではないかと思ったりもするが、同時期にこのような二重の文様をつくるようなこともしないだろうと判断した。
この円い文様には細かい文様がちりばめられていて、その中に円に四弁花文と正方形に卍文という組み合わせが交互に並んだ黒っぽい文様帯がある。このモティーフは、モザイク壁の縁や隅の部分の文様帯と同じだが、創建時の文様帯とは異なっている。
ここに一つの図版がある。
階上廊附属小部屋の壁面モザイクで、8世紀後半に造られたらしい。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、8世紀初めには、小アジアを中心に画像崇拝に反対する勢力が強まった。皇帝レオン3世(在位716-740)は726年、コンスタンティノポリスの大宮殿のハルキ(カルケー、青銅)門に掲げられていたキリスト像のイコンを撤去したのを皮切りに、イコン崇拝の禁止に乗り出した。イコンは集めて焼かれ、聖堂の壁画は壊されたり、漆喰で塗り込められたりした。これが聖像論争(イコノクラスム)の始まりである。聖像論争時代には宗教的な人物像を描くことは禁じられ、聖堂の壁画にはもっぱら十字架などの装飾が行われた。アギア・ソフィア大聖堂内の一室を飾るいくつもの十字架のモザイクはこの時代のものである。非宗教的な題材の美術については禁止の対象にならなかったという。
色は不明だがグラデーションのある円の中に十字架が表されていて、北側廊の十字架とはだいぶ異なるものだ。
文様帯はどうだろう。斜めに置かれた正方形の各辺に短い線のあるものと、正方形の対角に広がる四弁花文が交互に描かれていて、北側廊の文様帯とは異なる。
ということは、北側廊のモザイクは、イコノクラスム期のものではないということになる。
植物の文様はかなり大きく、密集して描かれたようで、リュネットの外側にはチューリップの株のような大きな葉から小さな花が出るというモティーフが、両側から上方向にぎっしりと描かれている。
文様帯を一つ挟んで、アカンサスの力強い株から、上へ上へと葉が伸びるという生命力溢れるものとなっている。宗教的なもの以外は構わないとはいえ、こんな賑やかなものだとは。
植物文や幾何学文、縁の文様帯などがわずかに残されて、主要部分に十字架だけを表す、イコノクラスム期とはそのような時代だと思っていた。
また、『イスタンブールの大聖堂』は、創建時の聖ソフィア大聖堂にはモザイクがなかったらしい。
イコン崇敬が一般民衆に浸透している反面、聖像禁止論者も、特に聖職者の間で一定の勢力を持っていた。皇帝としては、国民統合のシンボルを作ろうとする以上、それにも配慮する必要があった。このような理由で、建設当初の聖ソフィア大聖堂には、聖像は描かれなかったと考えられているのである。
聖像反対派は、聖人の人物像を否定し、十字架だけを聖なる印として認めていた。聖ソフィア大聖堂と総主教宮殿をつなぐ部屋には十字架をいくつも描いたモザイクがある。この十字架のモザイクは聖像論争時代のものであろうという。
このアギア・ソフィア大聖堂と総主教宮殿をつなぐ部屋というのが、階上廊附属小部屋にあたるのだろう。
ということは、創建時になかった聖人を描いたモザイクが、総主教が行き来する部屋に、創建からイコノクラスム期の間に作られた時代がある、ということになる。
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)