ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/04/13
ゆらぎとバラツキのあるモザイク
ウルクのエアンナ神域に残っていたモザイク柱を見てINAXミュージアム学芸員の後藤泰男氏は、形状と大きさ、そしてモザイクとしての仕上がりにバラツキを感じ、それを世界のタイル博物館に再現したという。それについてはこちら
そのバラツキという言葉や、クレイペグ装飾壁の一見つるんとしているように見えながら、細部を見ると凹凸のある壁面になっていることから頭に浮かんだのは、ビザンティンの聖堂の壁面を飾ったガラスモザイクだった。金箔ガラスが多用され、きらきらと輝くのを見ていると、当時の信者は教会の中に天国を体感したのではないかと思うほどだ。
聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝 モザイク壁画 10世紀末 イスタンブール、アヤ・ソフィア南玄関上のリュネット
『天使が描いた』は、ビザンティン帝国では726年以来100年以上にわたって、聖像画是か非かの論争が政治レヴェルで闘われていた。いわゆるイコノクラスム(「イコン」すなわち「聖像画」の破壊運動)の時代である。その論争は787年から815年の間の聖像肯定の中間期を挟んで、再度の聖像画破壊の後、最終的に843年に聖像肯定で決着するという。
このような歴史のため、558年にユスティニアヌス帝によって再建されたアヤ・ソフィアにはイコノクラスム以前のモザイク壁画は残っていない。
首都コンスタンティノープルの技術の水準は確かに低下したのである。10世紀末のモザイクは9世紀のモザイクとのデッサン力の差はあきらかであり、しかも洗練された人物の表情はさまざまな感情移入を可能にするという。
モザイク壁画の制作が再開されて150年ほど経過すると技術も確立されたのだろう。金色のガラステッセラがはがれた箇所もあるだろうが、のっぺりと均一な金色の背景ではない。きらきらと輝くところと輝いていないところの「バラツキ」が感じられる。 もう何時どこで聞いた話か、それとも読んだ本か思い出せないが、テッセラを壁に埋め込むときにわざと凸凹にして乱反射の効果を狙ったということだった。しかし、「貼り付けていくと凸凹に仕上がるものなんです」という声も聞き、いったいどちらなのだろうと疑問だった。
不器用な私は後者ではないかと想像していたが、後藤氏の文から熟練した工人がつくると形状も壁面もそろってしまい、バラツキを意図的に施工しなければならなかったことを知り、やっとガラステッセラも乱反射を狙って貼り付けられたのだと確信できた。
『ゆらぎ モザイク考』には<輝きの変遷-素材から見た「モザイク史」>という浅野和生氏の章がある。壁面やアプスのモザイクのテッセラには、ガラスも使われた。特に注目すべきは、金のテッセラの使用である。これは、ガラスが熱くて柔らかいうちに金箔を張り付けて作られた。金のテッセラは、ガラスが外側に向くようにして、しっくいに埋め込む。金は美しいだけでなく、キリスト教の教えが内包している現世からの超越や神秘性を表現し、聖堂の内部をこの世とも思えぬ空間に演出したという。
のっぺりとした金色の背景ではなく、少し目を移動させただけで、バラツキによってキラキラと光って見えると、さらに神々しさが増しただろう。
モザイクのテッセラ 東地中海岸域 9-12世紀頃? 1辺0.9㎝厚さ0.6㎝ 薄緑色の透明ガラス、金 岡山市立オリエント美術館蔵
『ガラス工芸-歴史から未来へ展図録』は、ビザンティン時代に壁画や天井の装飾に用いられた金地モザイクのテッセラ(モザイクの素材の石片やガラス片)のひとつ。これを作るには、吹きガラスで膨らんだガラスを割いて開くと板ガラスができるが、これへ薄くのばした金とガラス膜を熔着させて、冷却後にガラス切りで1㎝角ほどの大きさに切断する。裏面に壁面へ取り付けたモルタルが付着しているという。
ガラス切りで切断すると多少のゆがみや大きさの違いは出るだろう。 金のモザイクは光を反射する。モザイクは表面に凹凸があるため、画面にちらちらとした細かな動きが生まれる。モザイク職人はこれを意図していたらしく、テッセラはわざと微妙に角度を変えてしっくいに埋め込まれているという。
浅野氏もわざと角度を変えたと見ている。こんなに小さくしかも薄いガラステッセラをで壁画を作り上げるのも大変だが、わざと平坦に埋め込まないというのは、熟練工にとってもっと大変だったのた。
※参考文献
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」(2009年 INAX出版)
「ガラス工芸-歴史から未来へ-展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)
「NHK名画美術館名画への旅3中世Ⅱ 天使が描いた」(1993年 講談社)