石窟庵の如来坐像はマトゥラー式の偏袒右肩だった。

毘廬殿の毘廬遮那仏もマトゥラー式の偏袒右肩である。衣文、特に左半身の着衣が煩雑な感じがするのは、石窟庵のものが石仏、しかも花崗岩という彫刻しにくい素材であることと、金属の鋳造との違いだろう。


しかし、改めて首のない仏坐像群を見ると、偏袒右肩ではない。双領下垂式という北魏後半以来の中国式服制だったことは意外だった。服制と衣文が様式化していることを除けば、石窟庵の如来坐像とよく似た体型である。脚がころんとした塊のような感じがするのは、石窟庵のものよりも時代が下がるからだろう。

顔が大きく、石窟庵の仏のように胸を張ってはおらず、偏袒右肩の着衣もすっきりとはしなくなっている。
石仏の多くが石窟庵のものをモデルとしたため、しだいにパターン化するようになり、8世紀末になると身体の感じが固く、動きがなくなりはじめたという。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)