822年、ローマ教皇パスカリス1世が完成させた聖堂の中に、母のために造ったサン・ゼノーネ礼拝堂のドームの四隅のペンデンティフから4天使が支えているのはパントクラトール型のキリスト(そう呼ばれるのは13世紀最後の20年間に制作が最初、と益田朋幸氏の『キリスト・パントクラトールのコンテクスト』より。PDFで出てくるのでアドレス不明)だが、ローマのパンテオンやネロの黄金宮殿の八角形の間のように頂部に明かり取りのために開けられた円形の穴からキリストが姿を現わしたように感じる。
当時ローマはローマ教皇領内だったため聖像破壊運動の嵐は及ばなかったので残ったのだが、コンスタンティノープルの制作技量から比べると、かなり劣っているというしかない。
『天使が描いた』は、843年に聖像画肯定で決着するが、その際の根拠は、まさにこの神であるキリストの受肉であった。
すなわち神であるキリストがこの世に生まれ、卑しい肉体を身につけたゆえに、肉体および物質は聖化された。物質は聖なるものを表現できる。
つまり物質である聖像画ひいては芸術一般がこれで可能になったのであるという。
その最初がコンスタンティノープル、アギア・ソフィア大聖堂の後陣に浮かぶ聖母子像だったとされている。9世紀前半というか中葉の制作。
つまり物質である聖像画ひいては芸術一般がこれで可能になったのであるという。
その最初がコンスタンティノープル、アギア・ソフィア大聖堂の後陣に浮かぶ聖母子像だったとされている。9世紀前半というか中葉の制作。
聖母や幼子キリストの着衣も立体感を出して描かれている。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、9世紀、10世紀の聖堂壁画は、それほど残っていない。しかしイコノクラスムという美術制作の中断を経ても、ビザンティンのモザイク技術が衰えることのなかったのは、アギア・ソフィア大聖堂のアプシスを飾る「聖母子」を見ればわかるという。
古代ローマのグラデーション(暈繝)による立体感の出し方とはまた違い、顎の下の暗い色の数本のラインが次第に短くして陰影をつけるなど、その技術派高い。
『建築と都市の美学 イタリアⅡ』は、西ローマ帝国滅亡(476年)前後のローマは、異民族の侵入で混乱・荒廃し、人口は最盛期の100万人から数万人とも数千人ともいわれるほどに減少した。8-9世紀にはロンゴバルド族に対抗してフランク王国と手を結ぶことで教皇領を回復、ローマ教皇は世俗権力を握り返す。しかし、11世紀には教皇とドイツ神聖ローマ帝国皇帝との対立が激化していき、教皇派と皇帝派との争いはイタリア内の都市・諸侯をまきこんで続いていった。
こうした政治的に不安な時代にあって、ローマの建築はこれまでと比べるとじつに寂しいかぎりではある。そんななかで、初期キリスト教建築を改装して、ビザンティンの影響を受けたモザイクで聖堂内を飾ることが流行した。この傾向は、13世紀頃まで続く。
また、教皇領に組み込まれた地域(ローマからラヴェンナーの一帯)の都市は、他のイタリア諸都市よりもローマの影響が強く、建築様式はロマネスクに移行しているものの、随所にビザンティン風の装飾が見られるという。
玉座の聖母子 820年頃 ローマ、サンタ・マリア・イン・ドムニカ聖堂アプシスモザイク
『世界美術大全集7』は、中央ではモニュメンタルな聖母子像が、蝟集した天使の軍団の祝福を受けている。濃いブルーの衣とマフォリオン(被布)を身に着けた聖母は、聖体を扱うようにマニプル(司祭がミサの時、手に掛ける布帛)で覆った手で幼児キリストを支えて、玉座に坐っている。そして聖母の足下には教皇パスカリスがひざまずき、聖母の右の爪先に恭しく手を添えている。頭に着いた四角いニンブス(頭光)は、彼が存命中であることを示しているという。
制作当時に生きていた人物が四角いニンブスを着けるというのは、ビザンティン世界では見かけない。ローマ教皇領独特のものだろう。
母子ともに同じ顔をしている。教皇パスカリスは存命中のため、丸い頭光(ニンブス)ではなく四角い頭光なのだが、まるで肖像画のように平面的だ。
契約の櫃 800年頃 テオドゥルフの礼拝堂アプシス フランス、ジェルミニ・デ・プレ
サン・ゼノーネ礼拝堂の櫃に納められた聖母子像とプデンツィアーナとプラッセーデのモザイク画では、明らかに金地や頭光(ニンブス)のテッセラよりも、顔面や手のテッセラの方が小さいので、頬の僅かな赤みも黒と赤だけでなく、青い線も加わって、上図と比べると人物をよく表現していると言える。
『世界美術大全集7』は、オルレアンの西、ロワール河畔の小村ジェルミニ・デ・プレには、800年頃シャルルマーニュの宮廷で活躍したオルレアン司教テオドゥルフ(750頃-821)の個人礼拝堂が造営され、現在アプシスのモザイクが残されている。この作品は、アルプス以北に現存する最古の壁面モザイクである。しかも描かれているのは、神の啓示に従ってモーセが律法の板を納めるために造らせた「契約の櫃」である(「出エジプト記」25章)。
この作例は史伝的な旧約場面ではなく、テオドゥルフ独自の神学理念を反映している。
残されたスケッチから、アプシス下部の小アーチ列にはパルメット文が、ヴォールトには2体のケルビムが確認されている。イスラム風の散逸部分とローマのモザイクを意識したカロリング朝絵画に顕著な折衷性を明らかにしているという。
地は金色、空は藍色出表されている。ただ藍色のガラス・テッセラが剥落しただけかも知れないが、藍色の中に金箔ガラス・テッセラをぽつぽつと埋め込んで、満天の星を表しているのかも。
金色の櫃の上には小さなケルビム(智天使)の像が2体、その両側に灰色の衣を着た大きなケルビムが翼を交差させながら向かい合い、ニンブスの間から神の手が櫃を祝福している。という。
金色の櫃の上には小さなケルビム(智天使)の像が2体、その両側に灰色の衣を着た大きなケルビムが翼を交差させながら向かい合い、ニンブスの間から神の手が櫃を祝福している。という。
金色の地と星空の境目に表されたものは山並み?
ローマに残るサンタ・プラッセーデ聖堂より以前のモザイク画として、
キリストとペテロ、パウロ、コスマス、ダミアノス 520-30年頃 ローマ、サンティ・コズマ・イ・ダミアーノ聖堂アプシス
『ローマ古寺巡礼』は、アプシスのモザイクは、やはり後代の修復が著しいが、当時のローマの聖堂内装飾を知るうえで貴重な遺例である。まず上部中央の紺碧の空には、多彩な雲間に立つ荘厳なキリストの姿が描かれ、その頭上には花環を握る神の手がある。キリストの下方にはヨルダン川が銘と共に表され、その下に広がる緑野では、ローマで殉教した使徒ペトロとパウロに導かれて、聖コズマスと聖ダミアノス、そして聖テオドルスが殉教者の冠を捧げる。彼らに続き、教皇フェリックス4世は当時の聖堂の模型を献呈している。両端には棕櫚の木(ナツメヤシの間違い、葉が違う)が置かれ、左の枝には不死鳥が輝く。ここでは栄光のキリストを中心に、彼に捧げものをする殉教者と奉献者が楽園へと迎えられる様子が堂々たる画風で描かれている。
この場面の下、帯状壁面では天国の4本の河(「創世記」2章)が流れる丘に、神の子羊が立ち、これに向かい両端の都市エルサレムとベツレヘムからは計12頭の羊たちが歩を進める。このアプシス図は、その後、中世を通じてローマの伝統的な表現として12-13世紀まで受け継がれてゆくことになるというが、このような写し方をすると、羊たちの中央に何が描かれているのかが分からない。
6世紀では、この聖堂を献納した教皇は四角いニンブスを着けていない。そう言えばキリスト以外はニンブス(頭光)を着けていないのだった。
天上のエルサレムで使徒に教えを授けるキリスト 400年頃 ローマ、サンタ・プデンツィアーナ聖堂アプシス
『ローマ古寺巡礼』は、ローマ時代の浴場を改修して、4世紀末から5世紀初めに建てられた。
内陣のアプシスには創建当時のモザイク装飾が残り、それは聖堂アプシスを飾る現存最古の作例として有名である。後代に補修されたものの、装飾の全体構図はよく保存されている。
まず前景中央には、左手に聖書を持ち、右手で祝福を与える玉座のキリストが描かれる。その左右では向かって右にペトロ、左にパウロを先頭に使徒たちがひかえ、崇敬の仕草で右手を差し出す。ローマの皇帝美術に想を得た古典的な特徴を示しているという。
この聖堂はプラッセーデの姉妹のプデンツィアーナに奉献されたらしい。しかもサンタ・プラッセーデ聖堂のすぐ近くにあるという。次回ローマに行くときには必ず拝観しよう←いつのことや😄
人物の顔は自然な表現で、その着衣や背景のゴルゴダの丘の石も立体的に表されている。
人物たちの背後には、城壁のようなアーケイドが見られ、その奥にはゴルゴダの丘の大十字架を中心にエルサレムの町が描かれる。黙示録21章が語る天上の都エルサレムであろうという。
人物たちの背後には、城壁のようなアーケイドが見られ、その奥にはゴルゴダの丘の大十字架を中心にエルサレムの町が描かれる。黙示録21章が語る天上の都エルサレムであろうという。
関連項目
参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」 1997年 小学館
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社