ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/06/11
掘仏寺(クルプルサ)の四面石仏、西側の二菩薩は
国立慶州博物館の野外展示で四方仏を見た後で堀仏寺の四面石仏を見ると、これが四方仏ではないことがはっきりした。
そうなると、西側の三尊像が阿弥陀三尊と言えなくなった。それにずんぐりした中尊と、三曲する細身の身体の両脇侍は、当初の組み合わせではないように思う。 左脇侍は肩幅が狭く細身のように見えるが、角度を変えて写した写真を見ると、体の厚みだけがかなりある。三曲法という様式が唐から将来したが、まだこなれていないのか、形骸化してしまったのか、両足をそろえて不自然な感じだ。同じく典型的な三曲法の白鳳時代を代表する薬師寺の日光・月光像とかなり異なった作風となっている。後ろ側も衣文など表されているが前面と比べると簡略化されている。
そして頭部が大きいと感じるのは首が短いのとべったりした顔の作り、そして三面頭飾が縦に長いこからだろう。左手に持っているものが何かわからないが、宝冠には立像の化仏がついているので、観音像だろう。 頭部を失った右脇侍も三曲法だが、左右の足をバランスを変えて表している点で、左脇侍よりも唐の新様式を消化した作風となっている。こちらも体の幅に比べて厚みがあるが、そう不自然ではない。複雑な衣裳だが、薄手の衣がよく表現されている。阿弥陀三尊の右脇侍は勢至菩薩で、冠に宝瓶があることで見分けられるのだが、頭部がない。右手に持っているものが壺なら薬王菩薩かも知れない。
左右の菩薩の衣裳が違いすぎるし、様式も異なるので、当初の組み合わせではないと思う。後世に壊れたりして別のところから持ってこられたものだろう。 この二菩薩に似ているのではないかと思われるのが、国立慶州博物館の野外展示石仏群に1体だけあった菩薩立像で、左手に壺を持っているので観音菩薩と特定されている。
統一新羅時代(8世紀)のもので、胸飾りはそんなに派手ではないものの、両太ももあたりは紐を結んだものだろうか、非常に装飾的な菩薩だが、着衣は薄く身に沿い、天衣も翻ることなく、腹部と膝に広がり、それが背中に回ったのか、両肩から腕へと垂れて、膝のところにも延びている。どこが端なのかわからない。
頭部は左脇侍に似ていて、足の開き方は右脇侍に似ているようにも思える。 慶州博物館の狼山にあった観音像は、二菩薩に似てはいるものの、全体的には肩幅があって上半身に塊量感がある。どちらが制作年代が古いのか、もっと勉強しなくては!