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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/01/25

新沢千塚古墳群を巡る2


126号墳の前の道を進んでいくと新沢千塚古墳群のある丘を降りることになる。正面に見えてくるのは畝傍山。 振り返ると畑の向こうに古墳群の別の尾根がある。 元々あった丘の形に合わせて古墳群が築かれている。やがて道なりに上り坂となり古墳群に戻る。こちらにも139号の方墳(中期)や前方後円墳があったりする。間を通って戻る。前方後円墳がどれだろうと回り込んだりした。多分写真の中央から右に続いているのが前方後円墳だったと思う。126号墳の前を通り過ぎ、分岐から109号墳を見に行く。これもどこにあるのかわかりにくい。ぐるりと回り込んで、ひょっとしてこの低い墳丘と高い墳丘で前方後方墳を構成しているのかなと気づいてやっと、さっき通った通路に沿ってあったことが理解できた。 109号墳も中期(5世紀中葉~後半)で、『海を越えたはるかな交流展図録』によると、墳丘長28mの前方後方墳で、後方部は盗掘にあっていたが、前方部で刳抜式木棺直葬の施設が検出された。中央の棺内小口部に、三環鈴を伴った挂甲と珠文鏡、遺体に添えた位置からは、画文帯神獣鏡と垂飾付耳飾り、刀剣、ガラス小玉が出土した。さらに棺の両側に、短甲と多数の刀剣、鉄鏃と鏡が置かれていて、中央の棺に沿って複数の埋葬があったとみるとこもできるということだ。
副葬されていた耳飾りは金製で、鎖が付いて長いが126号墳の耳飾りとも異なる。鏡は京博蔵青銅画文帯仏獣鏡(3世紀後半から4世紀前半) に似ている。鈕(ちゅう、中央のつまみ)の周りには龍のような動物の中に、正座した人物が数体登場している。 109号墳から北に歩いていく。先ほど見えた尾根筋の墳丘群を見下ろしながら、落ち葉の山をガサガサ踏んで下りていく。この中にも前方後円墳や前方後方墳があるはずだが、どこをどう歩けばよいのかわからないくらい落ち葉がたまっていた。
先ほどの墳丘に至る道もあるのだが、めんどうくさくなってきたなあ。
48号墳の案内があるので、左へ折れる。48号墳は方墳で、中期古墳(5世紀中葉~後半)とされている。説明板によると、一辺約16mの新沢千塚古墳群では比較的規模の大きな方墳で、墳上に3基の埋葬施設がある。北槨は4.5mという長大な割竹形木棺、南槨は箱形木棺で、共に粘土で棺を被覆した粘土槨。2基は近い時期につくられたとみられるが、3つめは棺を礫で覆った礫槨で、副葬品から2基より100年以上後に、それらを壊さずに作られたことがわかった。100年以上を隔てて同じ古墳に埋葬された被葬者とは、北・南槨の被葬者とどういう関係にあるのだろうか、非常に興味深い。少なくとも古墳そのものの素性を100年以上も記憶していたことになり、当時の人々の、築造後の古墳に対する思い入れの強さを示す1例といえるようである(平成元年3月橿原市教育委員会作成の説明文を部分的に編集)ということだ。 複数の鏡の他に、勾玉・管玉・小玉が3基の棺から出土したというが、どれが100年以上新しいのかわからない。
あの紅葉した木が見えてきたが、右に進んでクリーンセンターに沿っている通路を通り、入口の方へ戻った。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)