ツアーでヴェネツィアに行くと、ガラス制作の実演を見てその後ムラーノガラスのお買い物という風になっているものらしい。我々もその例に漏れず、小さな花瓶や馬の置物などを元ムラーノ島の工房で作っていたという職人が作るのを拝見した。
しかし、その場で一番興味を惹かれたのは職人の作る作品ではなく、建物の窓ガラスだった。
じつは田上惠美子氏の個展に、作家在廊の日を選んで出かけたのは、この面白い窓ガラスを見てもらうためだった。
人のいないのを見計らって田上氏に見せると、これはロンデル窓で、窓にガラスという素材をはめ込む一番古典的な方法だと思いますわ。
円形一枚一枚をロンデルと呼び、吹きガラスで容器を作る要領で作った後、更に熱をかけて広げていきながら勢いよく廻すと器が遠心力でお皿になり、最後に真ん中を支えているポンテを切り落として徐冷します。
ですから真ん中にポンテ痕が付いていて、その外側に同心円状の輪が幾つもできるので、光も揺らぎながら入ってきて、とても趣がありますなあ
何となく吹きガラスを幾つか並べてあるなあとは思っていた。
『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
しかしそれは、吹きガラスを大きく長く作っておいて、切り開いて平たくするか、丸く吹いて先を切ってクリクリ回すと遠心力で平たく広がって丸い板ガラスができるというように理解していたので、こんな小さな円形のものが並んでいるのが窓ガラスだとは思わなかった。
こんな窓を見て、鉛の輪っかにガラスを吹いて作るのかと思ったくらいだ。
最初の頃は小さなものしか作れなくて、せいぜい10数㎝くらいで、技術が進んでくると40㎝くらいのものも作れるようになったらしいです
この窓ガラスに並ぶロンデルは、多分10数㎝くらいのものだろう。
もう1枚の写真を見せた。それはヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の大窓で見つけた丸いガラスだった。
このロンデルの直径はどれくらいですか?
高いところにあったので、大きさまでは・・・40㎝もなかったと思いますわ。
ところで円が2つずつ上下に並んだら、4つの円が囲む湾曲した菱形状の空間が生まれます。この菱形状のガラスはどのように作るのですか?
お店のロンデル窓は現代のものですからフロートガラス、つまり板ガラスでしょう。サンマルコ大聖堂の窓はいつ頃のものですか?
ロンデル窓がいつ頃から作られるようになったのかわかりませんが、そんなに古くはないと思います
そこまで話をしたところで、お客さんが途切れなくなり、話は途切れてしまった。
ロンデル窓は他の建物にもあった。これはサンマルコ広場からボート乗り場までの間にあったレトロな雰囲気のホテル。
そしてその窓。
なんといってもヴェネツィアはガラス製作の本場。このホテルの窓は何時の頃にかサンマルコ大聖堂の窓ガラスを真似たのだろうし、ガラス工房のものは更に時代が下がってから真似て作られたのだろう。
何気なく面白いと思って撮った窓ガラスの写真だが、思わぬ発見があった。さすがに古代のガラス技術でガラスを作る人だけのことはあるなあ。八木洋子さんにも聞いてみたかった。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2011/06/24
2011/06/17
モザイクガラスではなくパート・ド・ヴェール
『ガラス工芸-歴史と現在展図録』は、この時期のメソポタミアのコアガラスの出土分布は、当時のフルリ人の領域の標識となっているいわゆるヌジ式土器(ミタンニ式土器とも呼ばれ、独特の器形・文様を持つ)の分布域とかなり一致しており、両者の器形も似ていることから、これらのガラスの担い手は、フルリ=ミタンニ人と考えられている。因に、一般に製鉄技術はヒッタイトに始まったとされているが、鋼鉄精錬技術は、前15世紀頃のミタンニのキズヴァトナ地方に最古の遺例が確認されている。出土遺物から見て、鋼鉄製品のみに限らず、ガラス・釉といった当時の最先端の科学技術が、ミタンニにおいて完成され、実用化されたと考えられる。こういったミタンニの科学技術は、これを政治的・軍事的に滅ぼしたヒッタイトやアッシリアに引き継がれ、やがてオリエントへと浸透していくのであるという。
ガラスを溶かして細工をするにはかなりの高温を保つことが必要なため、常に金属の製造と同じ場所で行われていたというのは以前に聞いたことがある。そしてガラスの製作はミタンニで始まったというのも何かで読んだ記憶がある。しかし、製鉄といえばヒッタイト帝国で始まった。しかも、製鉄技術は印欧語族のヒッタイトがアナトリアにやってきて支配下においた、先住のハティ人だったと何かで読んでずっとそう思っていた。それがガラスを最初に作ったといわれているミタンニとどういう関係にあるのかわからなかったが、ようやくこの文で結びついた。
メソポタミアのモザイクガラスは、色ガラス片を1つずつ貼り付けていくだけではなかった。
モザイクガラス坏片と実測図 北イラン、ハサンル出土 前12-9世紀 フィラデルフィア、ペンシルヴァニア大学博物館蔵
『ガラスの考古学』は、前12-前9世紀頃の、マルリクやハサンルといった北イランの遺跡からも、人物と聖獣の連続文の杯などが出土している。こういった特異の作品が、やはりシリア・メソポタミア方面からの流入品か現地製かについては、類例に乏しく結論はでていないという。
こちらは下に聖獣とパルメット文、上に人物立像を1組として4組で器を一巡している。モザイクガラスのモティーフとして主文の3点、そしてそれらを隔てる装飾帯の1点がそれぞれモザイク単位として作られ、内型に貼り付けられたのだろう。
同じ遺跡から、十字文の衣装を着た人物文のガラス坏も出土している。
人物行列文坏断片 イラン、ハッサンル出土 前9世紀 高3.3㎝(右) フィラデルフィア大学蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、ハッサンル出土のガラス坏の特殊性は、赤褐色のガラス素地に、青、トルコブルー、白等の不透明色のガラスで、人物、樹木、アイベックス(野生ヤギ)等が、ほとんどその意匠を、ガラスの熔融、流動によって歪みを発生させることもなく、整然と象嵌文様として表現されていることである。
この坏の製法は、いわゆるパート・ド・ヴェール技法という、ガラス粉を使用して、細部の色文様を作り出しながら、ガラス器物を製作する特殊な技法を応用したものである。これを作るためには、パート・ド・ヴェールの技法をさらに複合化した特殊技法が使われていたことが推察される。おそらく、最初は平板な板状に作り、それを軟化させて、円筒状に作り、合わせ目を十分に修正して仕上げ、底部は素地の赤褐色ガラス等を熔着させて丸く仕上げて完成させたのではないだろうか。コスチュームの意匠の整然とした表現等は、内型外型の二つの型を使ったモザイク・グラス技法ではなく、こうしたパート・ド・ヴェールの複合技法によってこそ、はじめて可能であるという。
ヌジやエジプトのトトメス三世の王妃墓から出土した瑪瑙文のガラス容器も内型と外型に挟まずに作られたようだが、モザイクガラスの技法で作った断片を熔着していったと書かれていたように思う。ハッサンル出土の容器も同じようにモザイクガラスの技法で作ることはできなかったのだろうか。
フォン・ザルデルンは、各文様のパーツをあらかじめ作っておいて、それを内型の外側に配置して、外型をつけて焼成するという、一種のモザイク・グラスの技法によってつくったものであろうと推定している。しかし、モザイク・グラスの技法によってこれを製作する場合には、各パーツを内型及び外型に合わせて湾曲させておく必要があり、間隙ができた場合には、当然に熔解後に文様には変形が生ずる。しかし、この坏の意匠には、そうした文様の変形がほとんどみられないうえに、モザイク・グラスの技法では、雄雌両型で、こうした複雑な意匠を、完璧な状態で熔解成形することは不可能であるという。
この文を著した由水常雄氏はガラス作家でもある。
頭の中であれこれと想像しても、実際にやってみると、全く不可能だったりすると、実験考古学的に陶磁器を作ってきたある爺さんから聞いたことがある。実際にものを作った上での意見は貴重だ。
よく似たガラス板は以前くから作られていた。
モザイク・グラス板 アッシュール出土 前13世紀 断片幅約3.0㎝ ベルリン国立博物館蔵
ティクルティ・ニヌルタⅠ世(前1243-前1207)のイシュタル神殿址出土の動植物文の象嵌用モザイク・ガラス板という。
図版には後ろを振り返ったヤギのような動物がそれぞれ表されている。後ろか上部にはハッサンル出土の坏のように、王か神が登場するのだろう。
いったい何に象嵌されていたのだろう。ガラス坏になる前の段階のガラス板だったのでは。
台付鉢 アッシュール出土 前13世紀 口径13.2㎝ ベルリン国立博物館蔵
赤、白、青、黄、緑の連続六角文の台付鉢という。
これが内型と外型にガラス片を敷きつめて熔着する、モザイクガラスで作られた容器だ。それぞれのモザイク片の中心は同じ色のガラスらしい。
輪郭に5色使って、六角形、つまり亀甲を作った、亀甲繋文の容器ともいえる。
ところどころ亀甲が変形しているが、ほぼ隙間なく作られている。テル・アル・リマー出土のモザイクガラス容器断片(前15世紀頃)やテペ・マルリク出土のモザイクガラス坏(前12-11世紀頃)に匹敵する作品だ。
モザイク・グラス板 メソポタミア、アカル・クーフ出土 前14世紀 バグダード国立博物館蔵
アカル・クーフの前14世紀層から出土した、青、赤、白の色ガラスを使った、六射星文や菱形文の象嵌用モザイク・ガラス板という。
宮殿址とも、ガラス工房址とも記されていないのが残念だ。ガラス工房址となると、ハッサンル出土の坏のようなものを作るためのガラス板だと特定できるのに。
六射星文は深見奈緒子氏のいう6点星だ。三角形を上下反対にして重ねるとできる文様だが、こんなに古くからあったとは。
由水氏のいうように、アッシュール出土のモザイクガラス板やアカル・クーフ出土のガラス板がモザイクガラスの技法で作ることは不可能で、パート・ド・ヴェールという技法で作られたにしても、それらを幾つか寄せ合って熔着してハッサンル出土の坏のような容器にするという意味で、モザイクガラス片といって良いのではないのだろうか。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
ガラスを溶かして細工をするにはかなりの高温を保つことが必要なため、常に金属の製造と同じ場所で行われていたというのは以前に聞いたことがある。そしてガラスの製作はミタンニで始まったというのも何かで読んだ記憶がある。しかし、製鉄といえばヒッタイト帝国で始まった。しかも、製鉄技術は印欧語族のヒッタイトがアナトリアにやってきて支配下においた、先住のハティ人だったと何かで読んでずっとそう思っていた。それがガラスを最初に作ったといわれているミタンニとどういう関係にあるのかわからなかったが、ようやくこの文で結びついた。
メソポタミアのモザイクガラスは、色ガラス片を1つずつ貼り付けていくだけではなかった。
モザイクガラス坏片と実測図 北イラン、ハサンル出土 前12-9世紀 フィラデルフィア、ペンシルヴァニア大学博物館蔵
『ガラスの考古学』は、前12-前9世紀頃の、マルリクやハサンルといった北イランの遺跡からも、人物と聖獣の連続文の杯などが出土している。こういった特異の作品が、やはりシリア・メソポタミア方面からの流入品か現地製かについては、類例に乏しく結論はでていないという。
こちらは下に聖獣とパルメット文、上に人物立像を1組として4組で器を一巡している。モザイクガラスのモティーフとして主文の3点、そしてそれらを隔てる装飾帯の1点がそれぞれモザイク単位として作られ、内型に貼り付けられたのだろう。
同じ遺跡から、十字文の衣装を着た人物文のガラス坏も出土している。
人物行列文坏断片 イラン、ハッサンル出土 前9世紀 高3.3㎝(右) フィラデルフィア大学蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、ハッサンル出土のガラス坏の特殊性は、赤褐色のガラス素地に、青、トルコブルー、白等の不透明色のガラスで、人物、樹木、アイベックス(野生ヤギ)等が、ほとんどその意匠を、ガラスの熔融、流動によって歪みを発生させることもなく、整然と象嵌文様として表現されていることである。
この坏の製法は、いわゆるパート・ド・ヴェール技法という、ガラス粉を使用して、細部の色文様を作り出しながら、ガラス器物を製作する特殊な技法を応用したものである。これを作るためには、パート・ド・ヴェールの技法をさらに複合化した特殊技法が使われていたことが推察される。おそらく、最初は平板な板状に作り、それを軟化させて、円筒状に作り、合わせ目を十分に修正して仕上げ、底部は素地の赤褐色ガラス等を熔着させて丸く仕上げて完成させたのではないだろうか。コスチュームの意匠の整然とした表現等は、内型外型の二つの型を使ったモザイク・グラス技法ではなく、こうしたパート・ド・ヴェールの複合技法によってこそ、はじめて可能であるという。
ヌジやエジプトのトトメス三世の王妃墓から出土した瑪瑙文のガラス容器も内型と外型に挟まずに作られたようだが、モザイクガラスの技法で作った断片を熔着していったと書かれていたように思う。ハッサンル出土の容器も同じようにモザイクガラスの技法で作ることはできなかったのだろうか。
フォン・ザルデルンは、各文様のパーツをあらかじめ作っておいて、それを内型の外側に配置して、外型をつけて焼成するという、一種のモザイク・グラスの技法によってつくったものであろうと推定している。しかし、モザイク・グラスの技法によってこれを製作する場合には、各パーツを内型及び外型に合わせて湾曲させておく必要があり、間隙ができた場合には、当然に熔解後に文様には変形が生ずる。しかし、この坏の意匠には、そうした文様の変形がほとんどみられないうえに、モザイク・グラスの技法では、雄雌両型で、こうした複雑な意匠を、完璧な状態で熔解成形することは不可能であるという。
この文を著した由水常雄氏はガラス作家でもある。
頭の中であれこれと想像しても、実際にやってみると、全く不可能だったりすると、実験考古学的に陶磁器を作ってきたある爺さんから聞いたことがある。実際にものを作った上での意見は貴重だ。
よく似たガラス板は以前くから作られていた。
モザイク・グラス板 アッシュール出土 前13世紀 断片幅約3.0㎝ ベルリン国立博物館蔵
ティクルティ・ニヌルタⅠ世(前1243-前1207)のイシュタル神殿址出土の動植物文の象嵌用モザイク・ガラス板という。
図版には後ろを振り返ったヤギのような動物がそれぞれ表されている。後ろか上部にはハッサンル出土の坏のように、王か神が登場するのだろう。
いったい何に象嵌されていたのだろう。ガラス坏になる前の段階のガラス板だったのでは。
台付鉢 アッシュール出土 前13世紀 口径13.2㎝ ベルリン国立博物館蔵
赤、白、青、黄、緑の連続六角文の台付鉢という。
これが内型と外型にガラス片を敷きつめて熔着する、モザイクガラスで作られた容器だ。それぞれのモザイク片の中心は同じ色のガラスらしい。
輪郭に5色使って、六角形、つまり亀甲を作った、亀甲繋文の容器ともいえる。
ところどころ亀甲が変形しているが、ほぼ隙間なく作られている。テル・アル・リマー出土のモザイクガラス容器断片(前15世紀頃)やテペ・マルリク出土のモザイクガラス坏(前12-11世紀頃)に匹敵する作品だ。
モザイク・グラス板 メソポタミア、アカル・クーフ出土 前14世紀 バグダード国立博物館蔵
アカル・クーフの前14世紀層から出土した、青、赤、白の色ガラスを使った、六射星文や菱形文の象嵌用モザイク・ガラス板という。
宮殿址とも、ガラス工房址とも記されていないのが残念だ。ガラス工房址となると、ハッサンル出土の坏のようなものを作るためのガラス板だと特定できるのに。
六射星文は深見奈緒子氏のいう6点星だ。三角形を上下反対にして重ねるとできる文様だが、こんなに古くからあったとは。
由水氏のいうように、アッシュール出土のモザイクガラス板やアカル・クーフ出土のガラス板がモザイクガラスの技法で作ることは不可能で、パート・ド・ヴェールという技法で作られたにしても、それらを幾つか寄せ合って熔着してハッサンル出土の坏のような容器にするという意味で、モザイクガラス片といって良いのではないのだろうか。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
2011/06/10
トトメス三世の王妃墓出土のガラスはモザイクガラス
エジプトのモザイクガラスは、アメンホテプⅡの時代が最初ではなかった。
縞瑪瑙文壺 ワジ・クバネト・エル・ギルドのトトメス三世妃墓出土 前1490-1437年頃 高10.2㎝ メトロポリタン美術館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、淡緑色の素地に赤、緑、白、黄、茶の色ガラス細片を熔かし合わせて断片に作ったものを、モザイク状に熔着して、よく加熱して全体を整らし、縞瑪瑙状の美しいパターンを作って壺に成形。内外を研磨して滑らかな肌に仕上げているという。
モザイクガラスの技法で瑪瑙の文様を作るという、これまで見てきたジグザグ文あるいはそこから派生した波状文・羽状文・垂綱文などとは全く異なったものを表現しようとしたものだ。
この図版は容器の内側が写っているので、「素地」あるいは「胎」となるガラスの上にモザイク片を貼り付けたのではないことがわかる。
ひょっとして、コアに断片を貼り付けていったのではなく、断片どうしを型なしで熔着していったのだろうか。
幾色かの色ガラスを作って、それを熔着して縞目文様のガラスを作ること、半熔解素地にそれらの断片を熔着して複雑な縞瑪瑙文様を作り出していること、こうした複合プロセスは、ガラス工芸が高度に発達して、ガラス素材のもつ性質や特徴を十分に把握しきった段階で作られるものであるから、これによっても、第18王朝のガラス工芸の水準の高さを推知することができる。なお、壺には金製のスタンド(台)がつけられているという。
トトメスⅢ時代といえば、やっとエジプトでガラスの製作が開始した時期ではないかと言われている頃なのに、こんなに手の込んだ仕事ができたのだろうか。
トトメス三世の3人のシリア人の王妃墓から出土したという記述もある。シリア人の王妃たちがシリアから持ってきたのではないだろうか。
ヌジの宮殿からも似たようなモザイク容器が出土している。
有脚壺断片 メソポタミア、ヌジ第Ⅱ層宮殿址中庭M100出土 前15世紀 現高10.0㎝径8.5㎝厚0.35-0.55㎝ ハーバード大学セム博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、球形胴部、幅広頸部、やや外側に開いた口縁部をもち、エジプト出土例と同様の有脚壺と考えられるが、底部は欠損。頸基部に同一素材による一条の水平畝状文があるが、胴部文様とつながっているので貼付によるものではなく、削り出しによるものと考えられる。赤茶、黄、濃青、トルコ青、白のモザイク。なお、同一技法による断片がG91、A33地点でも出土しているという。
トトメス三世の王妃墓出土の容器よりもいびつなため、一見上手な作りではないように見えるが、湾曲した縞文様を見ると、こちらの方が連続性があって、より瑪瑙に近い。また胴部の帯状のものを削り出すというのも高度な技術だろう。
断片にしても同じ技法で製作したものが出土しているなら、メソポタミアで作られたと見る方が自然だろう。
同書は、頸基部の水平畝状文の有無や、用いられたガラスの発色の微妙な違いを除くと、器形から細部の技法に至るまで両者は酷似している。同一地域での製作が想定されるが、仮にそうであるとすれば、同種同器形のガラス容器がエジプトでは1点も出土していない現状からみて,トトメス三世のシリア人の王妃がエジプトに将来した可能性が強いと考えられるという。
エジプトでガラスト製作が開始されたとされるトトメスⅢ期では、こんなに高度な技術を要する作品は作ることができなかっただろう。
また、『ガラスの考古学』でトトメスⅢは、治世第31年(前1459?)の第7回(遠征)からは、いよいよ最終目的地のミタンニで、この年フェニキアの海港を獲得し、治世第33年(前1457?)の第8回遠征で、アレッポ、カルケミシュ、カデシュ=ニヤなどの戦に勝利を収め、当時ガラス製作の中心地であったミタンニ王国に侵入した。
エジプトのガラス容器製作は、現在残されている遺品でみるかぎり、この王の時代と次王アメノフィスⅡ世期(前1438-1412?)のどちらかの時期に開始された可能性が高い。
トトメスⅢ世期の開始の場合は、たとえば王が外征でガラス職人を連れ帰る、あるいは王の3人のシリア(ミタンニ)人の妻が職人を連れてくるといったことも考えられ、一方アメノフィスⅡ世期の開始の場合は、トトメスⅢ世期の遺品は、ミタンニ宮廷でエジプト王のために王銘入りで特別に製作され、エジプトに将来されたといったことも想定できるという。
トトメスⅢのシリア人の王妃たちの出身はミタンニだった。トトメス3世銘入り坏も、エジプトではなくミタンニで製作された可能性もあるという。
また下のガラス容器が出土したヌジ遺跡の第Ⅱ層宮殿址というのが、ミタンニの都ではないだろうか。
※参考文献
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
縞瑪瑙文壺 ワジ・クバネト・エル・ギルドのトトメス三世妃墓出土 前1490-1437年頃 高10.2㎝ メトロポリタン美術館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、淡緑色の素地に赤、緑、白、黄、茶の色ガラス細片を熔かし合わせて断片に作ったものを、モザイク状に熔着して、よく加熱して全体を整らし、縞瑪瑙状の美しいパターンを作って壺に成形。内外を研磨して滑らかな肌に仕上げているという。
モザイクガラスの技法で瑪瑙の文様を作るという、これまで見てきたジグザグ文あるいはそこから派生した波状文・羽状文・垂綱文などとは全く異なったものを表現しようとしたものだ。
この図版は容器の内側が写っているので、「素地」あるいは「胎」となるガラスの上にモザイク片を貼り付けたのではないことがわかる。
ひょっとして、コアに断片を貼り付けていったのではなく、断片どうしを型なしで熔着していったのだろうか。
幾色かの色ガラスを作って、それを熔着して縞目文様のガラスを作ること、半熔解素地にそれらの断片を熔着して複雑な縞瑪瑙文様を作り出していること、こうした複合プロセスは、ガラス工芸が高度に発達して、ガラス素材のもつ性質や特徴を十分に把握しきった段階で作られるものであるから、これによっても、第18王朝のガラス工芸の水準の高さを推知することができる。なお、壺には金製のスタンド(台)がつけられているという。
トトメスⅢ時代といえば、やっとエジプトでガラスの製作が開始した時期ではないかと言われている頃なのに、こんなに手の込んだ仕事ができたのだろうか。
トトメス三世の3人のシリア人の王妃墓から出土したという記述もある。シリア人の王妃たちがシリアから持ってきたのではないだろうか。
ヌジの宮殿からも似たようなモザイク容器が出土している。
有脚壺断片 メソポタミア、ヌジ第Ⅱ層宮殿址中庭M100出土 前15世紀 現高10.0㎝径8.5㎝厚0.35-0.55㎝ ハーバード大学セム博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、球形胴部、幅広頸部、やや外側に開いた口縁部をもち、エジプト出土例と同様の有脚壺と考えられるが、底部は欠損。頸基部に同一素材による一条の水平畝状文があるが、胴部文様とつながっているので貼付によるものではなく、削り出しによるものと考えられる。赤茶、黄、濃青、トルコ青、白のモザイク。なお、同一技法による断片がG91、A33地点でも出土しているという。
トトメス三世の王妃墓出土の容器よりもいびつなため、一見上手な作りではないように見えるが、湾曲した縞文様を見ると、こちらの方が連続性があって、より瑪瑙に近い。また胴部の帯状のものを削り出すというのも高度な技術だろう。
断片にしても同じ技法で製作したものが出土しているなら、メソポタミアで作られたと見る方が自然だろう。
同書は、頸基部の水平畝状文の有無や、用いられたガラスの発色の微妙な違いを除くと、器形から細部の技法に至るまで両者は酷似している。同一地域での製作が想定されるが、仮にそうであるとすれば、同種同器形のガラス容器がエジプトでは1点も出土していない現状からみて,トトメス三世のシリア人の王妃がエジプトに将来した可能性が強いと考えられるという。
エジプトでガラスト製作が開始されたとされるトトメスⅢ期では、こんなに高度な技術を要する作品は作ることができなかっただろう。
また、『ガラスの考古学』でトトメスⅢは、治世第31年(前1459?)の第7回(遠征)からは、いよいよ最終目的地のミタンニで、この年フェニキアの海港を獲得し、治世第33年(前1457?)の第8回遠征で、アレッポ、カルケミシュ、カデシュ=ニヤなどの戦に勝利を収め、当時ガラス製作の中心地であったミタンニ王国に侵入した。
エジプトのガラス容器製作は、現在残されている遺品でみるかぎり、この王の時代と次王アメノフィスⅡ世期(前1438-1412?)のどちらかの時期に開始された可能性が高い。
トトメスⅢ世期の開始の場合は、たとえば王が外征でガラス職人を連れ帰る、あるいは王の3人のシリア(ミタンニ)人の妻が職人を連れてくるといったことも考えられ、一方アメノフィスⅡ世期の開始の場合は、トトメスⅢ世期の遺品は、ミタンニ宮廷でエジプト王のために王銘入りで特別に製作され、エジプトに将来されたといったことも想定できるという。
トトメスⅢのシリア人の王妃たちの出身はミタンニだった。トトメス3世銘入り坏も、エジプトではなくミタンニで製作された可能性もあるという。
また下のガラス容器が出土したヌジ遺跡の第Ⅱ層宮殿址というのが、ミタンニの都ではないだろうか。
※参考文献
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
2011/06/07
ポンペイ16 第4様式は幻想様式
『完全復元ポンペイ』は、第4様式は「幻想様式」ともよばれる。25年から50年にはすでにポンペイで用いられてきたが、広く普及したのは、62年の震災後、住宅の改修と装飾がいっせいに進められた時期であった。第4様式は、第2様式の遠近法と第3様式の過剰なまでの装飾性を、さらに強調した様式である。
腰羽目や円柱ではなく多層式のポルティコによる壁面分割、しばしば奇抜なまでの建築装飾がほどこされた最上部など、第2、第3様式の流れをくむ特徴もみられるが、えがかれる建築物は非現実的で、装飾はきわめて大胆であるという。
ウェッティの家 食堂壁画 ポンペイ
『完全復元ポンペイ』は列柱廊の北東角にある客間というが、『ポンペイの遺産』は、饗宴の場となるのはトリクリニウム(食堂)といい、「3つの横臥用寝台のある場所」を意味する。客も主人やその家族も、コの字形に配列された寝台に横たわりながら、中央に置かれたテーブルにある料理を味わうのである。
ここはいわば社交の部屋、持ち主の知性も問われるので、こうした主題を腕のよい職人に頼み、装飾させた。
窓越しに外の風景が望めるようなだまし絵風の壁画や、神話を主題にした絵画に囲まれていたという。
遠近法による建物の遠望や、部屋の柱や軒?の表現が見られるが、第2様式との違いは、その柱の華奢で装飾的な造りである。
絵画の上の軒は部屋の中に、外の建物が見える窓の軒は外にあるかのように描かれていて、刳りのある格天井に見せかけている。当時こんなに大きな窓があったのだろうか?
第2様式はこちら
ヴェッティの家、広間の東側の壁
『完全復元ポンペイ』は、オムバロス(アポロン神殿にある半球状の石。世界の中心とされていた)に巻きつくヘビ、左にはいけにえとして連れてこられた雄牛がいる。上の画面には、太鼓にあわせて踊るバッコス神の巫女がえがかれているという。
壁面に棚があるように壁面が小さく分割されている。
巫女の両側の細い柱は上部が人間となり、ウサギや道具を手にしている。巫女の背後の赤いリボンは立体的に表されているが、角柱の左の柱(第3様式では床から天井まで達していた)は花や葉がついて、人工的な植物のようだ。
小泉水の家 北西の待合室壁画 ポンペイ
小泉水の家は泉水堂が色ガラスを用いたモザイクで構成されていた。
それについてはこちら
『完全復元ポンペイ』は、アトリウム北西角の待合室をかざる優雅なフレスコ画。おもな壁面は白地で、幻想的な建築物のモチーフがえがかれている。腰羽目のほとんどは黄色に塗られ、真ん中のパネルや、そのほかの囲い部分、建築物のモチーフには、聖具などを手にした祭司や寄進者があしらわれているという。
ウェッティの家とは全く異なる壁画だが、これも第4様式。極彩色の絵を好む人もいれば、このように白い空間の多い絵を好む人もいたということか。
壁面装飾 ローマ、ドムス・アウレア、アキレウスの間 後64-68年頃 第4様式
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、部屋の周壁と天井はストゥッコ(漆喰)浮彫りによって厳密な枠取りがなされている。プリニウスが荘重かつ厳格であると述べている通りである。しかし、ストゥッコ枠取りの周囲に描かれた連続文にはさまざまな植物モティーフや多彩な鱗文が描かれており、往時の輝きを伝えている。また、枠取り内の矩形パネルを埋める神話画や神像、人物像は流麗なタッチで柔らかな表現となっている。広範な装飾モティーフを駆使して、幻想的ともいえる装飾壁面で覆われたこの部屋は、第四様式の壁面装飾の基本的な要素をすべてそろえているという。
宮殿のほとんどの部屋は金箔を貼り巡らし、宝石と貝の真珠がちりばめられていたという宮殿とは思えない地味な壁面だ。
79年の噴火でポンペイやヴェスヴィオス山の麓の町は灰に埋もれ、ポンペイの壁画様式は第4様式で終わる。しかし、今まで見てきたようにこのような壁画はポンペイだけでなく、他のローマの街や別荘にも描かれた。埋もれなかった街の壁画はどのようになっていったのだろう。
これ以降、ローマの壁画はほとんど文献には登場しなくなる。小噴水の家やドムス・アウレアの壁画を見ていると、壁面を派手な色彩による壁画で飾ることに飽きてきたのではないかとも思える。
現在ではパラティーノの丘のネロの地下通路と呼ばれている通路のヴォールト天井には、ストゥッコで枠取りだけでなく、装飾帯やモティーフなどもストゥッコにによる浮彫で残っている。
壁画ではなく、このような彩色のないストゥッコ装飾になっていったのだろうか。
そしてその後華やかになるのは、舗床モザイクだったのかも。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
腰羽目や円柱ではなく多層式のポルティコによる壁面分割、しばしば奇抜なまでの建築装飾がほどこされた最上部など、第2、第3様式の流れをくむ特徴もみられるが、えがかれる建築物は非現実的で、装飾はきわめて大胆であるという。
ウェッティの家 食堂壁画 ポンペイ
『完全復元ポンペイ』は列柱廊の北東角にある客間というが、『ポンペイの遺産』は、饗宴の場となるのはトリクリニウム(食堂)といい、「3つの横臥用寝台のある場所」を意味する。客も主人やその家族も、コの字形に配列された寝台に横たわりながら、中央に置かれたテーブルにある料理を味わうのである。
ここはいわば社交の部屋、持ち主の知性も問われるので、こうした主題を腕のよい職人に頼み、装飾させた。
窓越しに外の風景が望めるようなだまし絵風の壁画や、神話を主題にした絵画に囲まれていたという。
遠近法による建物の遠望や、部屋の柱や軒?の表現が見られるが、第2様式との違いは、その柱の華奢で装飾的な造りである。
絵画の上の軒は部屋の中に、外の建物が見える窓の軒は外にあるかのように描かれていて、刳りのある格天井に見せかけている。当時こんなに大きな窓があったのだろうか?
第2様式はこちら
ヴェッティの家、広間の東側の壁
『完全復元ポンペイ』は、オムバロス(アポロン神殿にある半球状の石。世界の中心とされていた)に巻きつくヘビ、左にはいけにえとして連れてこられた雄牛がいる。上の画面には、太鼓にあわせて踊るバッコス神の巫女がえがかれているという。
壁面に棚があるように壁面が小さく分割されている。
巫女の両側の細い柱は上部が人間となり、ウサギや道具を手にしている。巫女の背後の赤いリボンは立体的に表されているが、角柱の左の柱(第3様式では床から天井まで達していた)は花や葉がついて、人工的な植物のようだ。
小泉水の家 北西の待合室壁画 ポンペイ
小泉水の家は泉水堂が色ガラスを用いたモザイクで構成されていた。
それについてはこちら
『完全復元ポンペイ』は、アトリウム北西角の待合室をかざる優雅なフレスコ画。おもな壁面は白地で、幻想的な建築物のモチーフがえがかれている。腰羽目のほとんどは黄色に塗られ、真ん中のパネルや、そのほかの囲い部分、建築物のモチーフには、聖具などを手にした祭司や寄進者があしらわれているという。
ウェッティの家とは全く異なる壁画だが、これも第4様式。極彩色の絵を好む人もいれば、このように白い空間の多い絵を好む人もいたということか。
壁面装飾 ローマ、ドムス・アウレア、アキレウスの間 後64-68年頃 第4様式
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、部屋の周壁と天井はストゥッコ(漆喰)浮彫りによって厳密な枠取りがなされている。プリニウスが荘重かつ厳格であると述べている通りである。しかし、ストゥッコ枠取りの周囲に描かれた連続文にはさまざまな植物モティーフや多彩な鱗文が描かれており、往時の輝きを伝えている。また、枠取り内の矩形パネルを埋める神話画や神像、人物像は流麗なタッチで柔らかな表現となっている。広範な装飾モティーフを駆使して、幻想的ともいえる装飾壁面で覆われたこの部屋は、第四様式の壁面装飾の基本的な要素をすべてそろえているという。
宮殿のほとんどの部屋は金箔を貼り巡らし、宝石と貝の真珠がちりばめられていたという宮殿とは思えない地味な壁面だ。
79年の噴火でポンペイやヴェスヴィオス山の麓の町は灰に埋もれ、ポンペイの壁画様式は第4様式で終わる。しかし、今まで見てきたようにこのような壁画はポンペイだけでなく、他のローマの街や別荘にも描かれた。埋もれなかった街の壁画はどのようになっていったのだろう。
これ以降、ローマの壁画はほとんど文献には登場しなくなる。小噴水の家やドムス・アウレアの壁画を見ていると、壁面を派手な色彩による壁画で飾ることに飽きてきたのではないかとも思える。
現在ではパラティーノの丘のネロの地下通路と呼ばれている通路のヴォールト天井には、ストゥッコで枠取りだけでなく、装飾帯やモティーフなどもストゥッコにによる浮彫で残っている。
壁画ではなく、このような彩色のないストゥッコ装飾になっていったのだろうか。
そしてその後華やかになるのは、舗床モザイクだったのかも。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
2011/06/03
透明ガラスはいつから
アメンホテプⅡ墓出土のアンフォラ型脚支持台付(前15世紀)に透明ガラスが使われていた。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、脚支持台は、淡青、透明茶、透明緑の大理石文。王銘入という。
透明なガラスの色は茶と緑の2色。この図版では透明かどうかわからない。
何故容器そのものに透明ガラスが使われなかったのだろう。
今までみてきたメソポタミアのガラスで、透明なものはなかったが、もう少し時代が下がるが、透明ガラスの作品は確かにエジプトにあった。
魚形容器 サッカラ出土 前14世紀 コア技法、アップリケ 高5.3㎝長10.7㎝ アメリカ、ブルックリン美術館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、魚(Tilapia nilotica)形に作られた容器で、口の部分に黄色い口巻き装飾をつけたほかは、淡黄色無地のガラスで作られている。胴部には半透明の淡青色ガラスで、鱗状の斑文が施されているという。
素地は淡黄色の透明ガラスだろう。透明にしても半透明にしても、実物が残っているので疑問の余地がない。
貝形容器 サッカラ出土 前14世紀 鋳造、切断研磨 長11.7㎝ ブルックリン美術館蔵
同書は、淡青色透明ガラスによる貝形容器で、鋳造後に削り出して貝形に作り上げたもの。表面の風化によって褐色に見えるが、淡青色透明素地である。化粧用の道具の一つという。
風化によって透明感が失われているが、別の製法でも透明ガラスで容器が作られたということは、当時ある程度の量の透明ガラスが作られたのだろう。しかし、これ以降エジプトで透明ガラスは出土しなくなる。
透明ガラスというと、サルゴンⅡ銘入りガラス壺などが作られた前8世紀頃が最初ではなかったことになる。
透明ガラスについての以前の記事はこちら
一体透明ガラスというのはどんなものだろう。
『ガラスの考古学』にローマ時代の宙吹きガラスについての説明の中で、ガラスの色も、器壁が薄くなったことや、高温処理によりガラス内のガス気泡や不純物が減少したことによって、かつての有色不透明のものから、単色透明のものへと変化したという。
ということは、高温が維持できれば、ローマ時代よりもずっと前の時代でも透明ガラスができても不思議ではなかったということになる。
また、当時透明ガラスは希少価値があるのではと思ってしまうが、ラピスラズリの代替品として作られたりするくらいなので、貴石に近い色の方が価値が高かったために、透明ガラスが引き続いて作られるということがなかったのでは。
※参考文献
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、脚支持台は、淡青、透明茶、透明緑の大理石文。王銘入という。
透明なガラスの色は茶と緑の2色。この図版では透明かどうかわからない。
何故容器そのものに透明ガラスが使われなかったのだろう。
今までみてきたメソポタミアのガラスで、透明なものはなかったが、もう少し時代が下がるが、透明ガラスの作品は確かにエジプトにあった。
魚形容器 サッカラ出土 前14世紀 コア技法、アップリケ 高5.3㎝長10.7㎝ アメリカ、ブルックリン美術館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、魚(Tilapia nilotica)形に作られた容器で、口の部分に黄色い口巻き装飾をつけたほかは、淡黄色無地のガラスで作られている。胴部には半透明の淡青色ガラスで、鱗状の斑文が施されているという。
素地は淡黄色の透明ガラスだろう。透明にしても半透明にしても、実物が残っているので疑問の余地がない。
貝形容器 サッカラ出土 前14世紀 鋳造、切断研磨 長11.7㎝ ブルックリン美術館蔵
同書は、淡青色透明ガラスによる貝形容器で、鋳造後に削り出して貝形に作り上げたもの。表面の風化によって褐色に見えるが、淡青色透明素地である。化粧用の道具の一つという。
風化によって透明感が失われているが、別の製法でも透明ガラスで容器が作られたということは、当時ある程度の量の透明ガラスが作られたのだろう。しかし、これ以降エジプトで透明ガラスは出土しなくなる。
透明ガラスというと、サルゴンⅡ銘入りガラス壺などが作られた前8世紀頃が最初ではなかったことになる。
透明ガラスについての以前の記事はこちら
一体透明ガラスというのはどんなものだろう。
『ガラスの考古学』にローマ時代の宙吹きガラスについての説明の中で、ガラスの色も、器壁が薄くなったことや、高温処理によりガラス内のガス気泡や不純物が減少したことによって、かつての有色不透明のものから、単色透明のものへと変化したという。
ということは、高温が維持できれば、ローマ時代よりもずっと前の時代でも透明ガラスができても不思議ではなかったということになる。
また、当時透明ガラスは希少価値があるのではと思ってしまうが、ラピスラズリの代替品として作られたりするくらいなので、貴石に近い色の方が価値が高かったために、透明ガラスが引き続いて作られるということがなかったのでは。
※参考文献
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
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