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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/12/25

日本の瓦に連珠文


 
日本の瓦にも連珠文がある。

軒丸瓦 久米寺 飛鳥時代末(7世紀前半) 橿原考古学研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、文献によれば推古天皇の勅願により来目王子が建立したとされる。江戸時代の絵図には薬師寺式の伽藍配置風に描かれていることから、薬師寺式伽藍配置で、現在の西側に中心伽藍が存在したと考えられている。
瓦は飛鳥時代末の塔創建時のものと考えられた
という。
粒の大きな円文が密に並び、その中に6つの複弁の蓮華が並ぶ。かなり風化しているが、蓮弁の間には覗花弁がはっきりと表現されているのがわかる。
蓮子も数多く、配置が乱雑に見えるが、中心の1つを5個の蓮子が囲み、そのまわりを9個の蓮子が囲んでいるのだろう。
知る範囲では日本最古の連珠円文のある瓦だ。 本薬師寺 7世紀末 飛鳥資料館蔵
文献には、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気の治癒を願い建立されたことが記載されており、天武天皇崩御の後は、仏事が行われている。平城京遷都の際、718年に遷ったのちは、城殿町に所在するほうを「本薬師寺」と呼んだ。
複弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒丸瓦、忍冬唐草文軒平瓦などが出土している
という。
軒丸瓦は8枚の複弁、円文は間隔をおいて並ぶ。
軒平瓦は三方が鋸歯文で、上辺にはもっとまばらに連珠文が並んでいる。  連珠円文軒丸瓦および連珠軒平瓦 藤原宮跡出土 7世紀末 飛鳥資料館蔵
『飛鳥の宮殿』は、崇峻5年(592)、推古天皇は豊浦宮(豊浦寺下層遺跡)で即位し、飛鳥時代が幕く開ける。
推古11年(603)に小墾田宮(雷丘東方遺跡)、舒明2年(630)に飛鳥岡本宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅰ期)、皇極元年(642)に飛鳥板葺宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅱ期)、白雉3年(652)に難波長柄豊碕宮(前期難波宮跡)、斉明2年(656)に後飛鳥岡本宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅲ-A期)、天智6年(667)に近江大津宮(錦織遺跡)と遷る(一時的なものは省略)。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は嶋宮(島庄遺跡)に立ち寄り、飛鳥浄御原宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅲ-B期)で天武天皇として即位する。
しかし天武天皇が崩御、その意思を次いだ持統天皇は持統8年(694)に藤原宮(藤原宮跡)へ遷都した。そして16年後の和銅3年(710)には平城京へと遷都する
という。
宮殿の瓦も寺院と同じ文様だ。八弁の複弁を持ち、本薬師寺の軒丸瓦に似ているが、彫りが浅い。
同書をみる限り、飛鳥時代の宮殿跡から瓦は出土していない。それまでの宮殿は板葺きで、藤原宮になって初めて瓦葺きの宮殿が建立されたのか。
「古代の瓦」は、外区に連珠文を飾る複弁蓮花文鐙瓦の確実な時代を推し得る遺例は、持統・文武・元明の3代、16年間にわたる皇都、藤原宮使用瓦である。『扶桑略記』は本来寺に用いられた瓦葺きが宮殿にも用いられた最初であると伝えるが、その瓦は鐙瓦で23形式、宇瓦で15形式に細別され、なかでも朝堂出土の1組は最もすぐれ、創建瓦としてふさわしいものである。鐙瓦は複弁蓮花文のまわりに連珠文と外向鋸歯文を二重に飾り、宇瓦は雲文系の偏行唐草文を内区主文とし、外区には、上帯に連珠文、側帯と下帯には鋸歯文帯を飾っているいう。
下の写真は、軒丸瓦は朝堂出土のものとくらべて連珠文が密で、軒平瓦は連珠文の数が1つ多いので、共に朝堂出土の瓦ではなさそうだ。 百済から派遣された寺工や瓦博士が建立した飛鳥寺(法興寺、588年)の瓦に連珠文はない。しかもその後主流となる複弁の蓮華ではなく、単弁である。641年に金堂が完成した山田寺の瓦にも連珠文がない。
前者は蘇我氏、後者も蘇我一族の山田石川麻呂が建てた。連珠文の軒丸瓦は、私寺と天皇の建てた建物との違いだろうか。それとも、百済とは別の系統なのだろうか。

明日香村平吉(ひきち)遺跡出土の蓮華紋鬼瓦には大きな円文がめぐっている。7世紀中頃と、久米寺と本薬師寺や藤原宮の瓦の間に製作されたものだ。しかし、寺院とも宮殿ともわからない。当時それ以外に瓦葺きの建物があったとすると、どのような遺跡なのだろう。

尚、飛鳥資料館では館蔵品は撮影可です。

※参考文献
「飛鳥の寺院」(2007年 財団法人明日香村観光開発公社)
「飛鳥の宮殿」(2005年 財団法人明日香村観光開発公社)
「日本の美術66古代の瓦」(稲垣晋也編 1971年 至文堂)