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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/04/02

有年原・田中遺跡の墳丘墓は前方後円墳の祖形らしい


兵庫県西部、JR相生駅から山陽線を吉備(岡山)方面に向かうと、1つ目の駅が有年(うね)。駅から北西の方角に有年原・田中遺跡はある。その古墳が前方後円墳の祖形らしいことを遺跡を紹介していた朝日新聞の記事で知りでかけた。国道2号線から同373号線へと右折すると、同じようにカーブして北に向かう山陽線の踏切を越えて、いつものように迷いながら、「有年原・田中遺跡」というプレートを見つけて辿り着いた。
遺跡は整備されて公園になっていた。前に見えるのが1号墳、右向こうが2号墳。『有年原・田中遺跡公園』という冊子によると、弥生時代後期(約1900年前)の大きな墓が2基見つかり、このうち1号墳丘墓には、陸橋部と突出部があるという。説明看板は、直径19mを測る円形の墳丘墓という。古墳時代でも周溝のない墳丘があった(新沢千塚古墳群)が、弥生時代に周溝のある古墳もあったのだ。
しかし、周溝が墳丘の結界となりきらずに、こちらの世界と繋がっているのは、埋葬だけではなく、たびたび祭祀が行われていたからだろうか。 墳丘の上には木棺を埋葬した盛土の周りに土器が並んでいる。幅5m、深さ1mの周溝内からは大型の器台・壺・高杯(たかつき)が出土し、木棺の痕跡も確認されているという。墳丘墓では木棺は見つかりませんでした。すでに破壊されてしまったのでしょうということだが、かつて墳丘の上に木棺があったものだったと考えられているようだ。 従来までの墓の祭祀方法と異なって、最終的に埴輪の先祖となる吉備地域独特の土器「特殊器台」の祖形と考えられているという。古墳時代に巨大な権力が生まれたことを示す前方後円墳は、弥生時代の墳丘墓の突出部が祭祀の場として発達した結果の形であることから、この墓はその祖形であると考えられるという。排水溝まで備えていたようだ。墳丘斜面には千種(ちぐさ)川から持ち込まれた河原石が貼り付けられていたという。確か新聞にはホタテ貝形というように表現されていたと思うが、この突出部は墳丘と比べても非常に狭い。祭祀を独りで執り行っていたくらいの場所である。この形から前方後円墳になっていったとは。ものごとは何がきっかけになるかわかりまへんなあ。2号墳は墳丘径15m、周溝幅2m、深さ1mと一回り小さいが、周溝に切れ目がなく、突出部もない点から1号墳よりも古い形と考えてよいのだろうか。
有年原・田中遺跡には墳丘墓だけではない。
木棺墓群と墳丘墓とを区画する溝があります。この溝は長さ20m、幅3m、深さ1mで、中からは100個を越える完全な形の土器が出土していることから、何らかのお祭りが行われていたと考えており、「祭祀土坑」と呼んでいるという。
墳丘墓と木棺墓を区画する溝があることから、古墳時代につながる権力が生み出されつつあったことがわかるという。木棺は板を組み立てたもののようだが、その板をどんな道具で作ったのだろうか?ノコギリが何時から使われるようになったのか知りたい私には興味をそそられる遺跡である。

※参考文献
「有年原・田中遺跡公園」(赤穂市教育委員会)