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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/08/23

トルファンのウイグル族の家



『中国大陸建築紀行』の著者たちは交河故城付近の維吾爾(ウイグル)族の民家にも足を運んでいる。
維吾爾族の住居は  ・・略・・  オアシス地帯に限ってみれば、日乾しれんがの中庭型が一般的で、夏・冬住まい分けるためか部屋数が多く、比較的大きな家となることが多い。その中にあって気温の寒暖が特に激しい吐魯蕃では、ほとんどの家に地下室や半地下の部屋があり、オンドル式のベッドを備えた冬の寝室や、夏の台所など、季節に応じた使い方がなされている
という。
下の写真が添付されているが、このヴォールト(トンネル型)天井についての記述がないのが残念だ。
上の写真を見ると、トルファン郊外の火焔山の中にあるトユク村を思い出さずにはいられない。小さな村の中心には、ドームとそれを取り囲む鉛筆のようなミナレットのモスクがあった。少し上流のダムから見たものだが、隠れ里のように思っていたこの村から、遙か向こうに広がるトルファン盆地のオアシスが見渡せる。そのダムのために、トユク村を縦断するのはこのような小さな流れでしかない。渓谷の奥にあるトユク石窟を見学するには、この村を通り抜けることになる。 小川に沿った道を歩いていると、何故か道路の上にヴォールト天井があったのだった。日乾しレンガでつくられていて、その先はまるで誰かの家の中の通路のような道だった。突き当たり(京都ではどんつきと言う)はオート三輪車の車庫となっていて、その前を右に曲がり、さらに右折したように記憶している。その道に面した民家の扉が開いていたので写させてもらった写真には、天井が写っていないのが残念だ。町の中には、ドイツ人シルクロード学者勒柯克(ルコック)が住んだ家というのもあった。ウイグル人の村なのに、木の枝を使って漢字でそれを表しているのが面白くて撮った。扉の上部には、北京の四合院の玄関で見かけた一対の木の突起と同じものがあった。ここだけ漢族が作ったのだろうか。 ウイグル族は遙か昔からトユクやトルファンで暮らしてきた民族ではない。『中國新疆壁畫全集6』では、同じく火焔山中の渓谷に開かれたベゼクリク石窟は9世紀中葉より回鶻(ウイグル)期となっている。そしてここトユク石窟は、五胡十六国時代の前涼が高昌郡を置いた327年から麹氏高昌国が唐に滅ぼされる640年までの間としているので、おそらく石窟を造営したのは漢族だったのだろう。

ウイグル族はトルコ(テュルク)系の遊牧民族なので、元来は平面が円形の穹廬(きゅうろ、パオ・ゲル)または平面が方形のフェルト製テントに住んでいただろうと勝手に想像するのだが、ウイグル族は何時頃からこのような日乾しレンガで作った家に住むようになったのか。
『シルクロード建築考』 に面白い記述がある。
『大唐西域記』によると、玄奘三蔵一行が高昌城を訪ねたときは、初唐の太宗貞観2年、紀元628年の春のころである。
玄奘が広大な外城を通って内城に入ってみると、各種の建築は殆どペルシャ的で、壁面には美しい壁画が色鮮やかに飾られていたという。だが、残念ながら、中国的な建築遺跡は一向に見当たらなかったらしい
という。

そのペルシア風建築がウイグル族に受け継がれてきたのだろうか。 

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「中國新疆壁畫全集6」 1995年 新疆美術攝影出版社
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術