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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/05/07

麦積山石窟121・123窟 北魏末期から西魏へ


麦積山石窟西崖区、西の端上部に121窟や123窟といった小さいが珠玉の像が残る窟がある。
121窟は北魏末期(534年滅亡)、123窟は西魏(535-556)と、時代は異なるが、近い時期に開鑿され、造像されたのではないだろうか。
麦積山石窟西崖区北魏窟・西魏窟 『中国麦積山石窟展図録』より

121窟 北魏末期
小さな窟で数段の階段を上がったところに扉口があった。
『中国石窟芸術』は、平面方形で伏斗式天井になっている。窟高2.55m、幅2.37m、奥行2m。地面は亜字形に基壇が巡る。
正壁、左右壁にそれぞれアーチ形の深い龕があり、その尖った龕楣には浮彫がある。各龕には一仏が安置されているので、三世仏の構成と考えられるが、左右の龕内は改変を受けている。
正壁の如来は宋代に重修された。正龕内の左右壁には0.8mの小さな台があり、塑造が数体。頂部には蓮華と飛天が描かれている。
正壁龕両外側には各脇侍-螺髻像と弟子像、左右壁奥の脇侍菩薩像が残るという。
一人ずつしか入れないくらい小さな窟で、麦積山石窟ガイドの説明を聞きながら、西魏かと思うような小さな像を短時間で見学した。
121窟如来坐像及び諸像 北魏末期 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁龕内右
如来の肩付近の両側に長い腰掛けのようなものがあって、如来が腰掛けている。
121窟正壁龕内如来倚像群 北魏末期 『中国石窟芸術 麦積山』より

螺髻梵王及び扇形高髻菩薩像 像高1.25m
『中国石窟芸術』は、梵王螺髻はゆったりした大衣を着けて、手を合わせている。菩薩は扇形の高い髻を結い、高い襟の内着、交差する天衣、長い裙は脚を覆う。典型的な秀骨清像の特徴を示すという。
秀骨清像
121窟正壁東側及び東壁北側の螺髪 北魏末期 『中国石窟芸術』より

微笑みは見る角度によって変わってしまう。見上げるとこぼれるような微笑み、頭部と同じ高さでは控えめな笑み。
121窟正壁東側及び東壁北側の螺髪 北魏末期 『中国石窟芸術』より

扇形髻の菩薩及び弟子 像高1.22m
『中国石窟芸術』は、塑像は前かがみで、ひそひそ話をしていると言われている。弟子は双領下垂式の僧衣で、裙は脚を覆う。胸前で手を合わせている。菩薩は、肩を覆う端が翅のようになった布帛が脚部でX字形に交差しているという。
弟子としか記されていないが、十大弟子で一番年少の阿難像だろう。
121窟正壁西側及び西壁北側の菩薩と弟子 北魏末期 『中国石窟芸術』より

弟子は頭部を右に傾け、菩薩は扇形髻を結うという。
133窟の弟子像(北魏後期)によく似ている。同じ工人が制作したのではないかと思うくらい顔の作りはそっくりだが、微笑み度がやや少ない。
121窟正壁西側及び西壁北側の菩薩と弟子 北魏末期 『中国石窟芸術』より

121窟は北魏末期(534年滅亡)の開鑿だが、123窟は西魏(581-618)に開かれた窟である。

123窟 西魏
『中国石窟芸術』は、123窟は西魏を代表する窟の一つ。平面は方形で天井は平たく、三壁三龕の形式である。全部で9体の像がある。
正壁龕内には釈迦の説法を表す塑像があるという。
釈迦は下向き過ぎて眠っているようにも見える静かな像。
123窟正壁一仏二菩薩像と両側壁の弟子たち 西魏 『中国石窟芸術』より

如来坐像 像高1.18m 正壁浅龕内
『中国石窟芸術』は、高い肉髻、うつむき、小さな耳、双領下垂式の僧衣を着け、内側に僧祇支を着る。施無畏与願の印相で、半跏趺坐する。衣端は八の字形に、龕の下まで垂下する。その特徴は44窟の造像様式に属するという。 
確かに高い肉髻、うつむき加減の頭部や台座を覆う分厚い着衣など、44窟の如来坐像に似てはいるが、うつむき方が極端なので、44窟よりも後に造像されたのかも。
44窟の仏像についてはこちら
麦積山123窟正壁如来坐像 西魏 『中国石窟芸術』より

『中国石窟芸術』は、龕外両側に菩薩が一体ずつ、東壁龕内には維摩詰、龕外には一弟子一童女。西龕内には文殊菩薩、龕外には一弟子一童子像。塑像で維摩詰経・文殊問疾品を表現するのは、麦積山石窟の特徴であるという。
法隆寺五重塔初層東面にも維摩経変を塑像で表されている。
麦積山123窟東壁及び西壁  『中国石窟 天水麦積山』より

東壁 維摩・阿難・童子像
『中国石窟芸術』は、両側壁は「維摩詰経・文殊門疾品」を表す。その内容のように、維摩と文殊が向かい合って坐す。その脇侍に世俗の童女・童子を表すという。
麦積山123窟東壁維摩・阿難・童子像 西魏 『中国石窟芸術』より

維摩詰像 像高0.87m 東壁龕内
『中国石窟芸術』は、ゆったりした大衣を双領下垂式に着て、衣文線は少ない。左手は大腿部に置き、右手は胸前に挙げる。文殊菩薩と向かい合っているという。
維摩と言えば、顎鬚のある老人というイメージがあるので、こんなに若いと維摩には思えない😮 病気見舞いに来た文殊と問答になり、維摩が勝った後、究極の境地を沈黙によって示したという、その場面を表しているのだろう。
双領下垂式の大衣から左手が出て、壇の下に衣端が少しだけ掛かっているという造形は他には見られない。
123窟東壁龕内維摩像 西魏 『中国石窟芸術』より

文殊菩薩像 像高0.87m 西壁龕内
『中国石窟芸術』は、宝冠を被り、うつむいている。宝繒(宝冠を留めるリボン)と蕨手は両肩に沿ってさがる。襟を合わせ、束帯で締め、長衣は自然に下部を覆う。腹前で右手を挙げ、左手は大腿部に乗せるが、広い袖で見えない。
同心円状の頭光が龕内に描かれ、肌は胡粉で白く、長衣は藍色や緑色などで彩色されたという。
問答に負け、維摩と共に沈黙した、その様子を表すためにうつむき加減に制作されたのかな。
123窟東龕内文殊菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

北魏末期の菩薩は、両肩を覆う帔帛が外にピンと突き出していたが、西魏になるとその張り出しはなくなった。両肩の丸いものは、天衣の留め具だろうか。 
123窟東龕内文殊菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁左脇侍菩薩と東壁阿難像 菩薩総高1.16m 阿難総高0.96m
『中国石窟芸術』は、菩薩は花冠を被り、襟を合わせて広い袖口の長衣を着けるという。
121窟の阿難像に比べると微笑度が減じている。
123窟正壁左脇侍菩薩像・東壁阿難像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁右脇侍菩薩と西壁迦葉像 脇侍菩薩総高1.2m 迦葉総高0.96m
『中国石窟芸術』は、深目高鼻で苦しそうな表情は迦葉。内着は僧祇支で、双領下垂に大衣を着るという。
迦葉は十大弟子では最年長なので、老人らしい造形である。迦葉の表情は年代が下がるに伴って厳しくなっていくような・・・、というのが、9窟4龕の迦葉像を見た感想です。
123窟正壁右脇侍菩薩像・西壁迦葉像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

東壁前脇侍童子と西壁前童女 童子高さ0.95m 童女高さ0.96m
『中国石窟芸術』は、維摩の脇に立つ。童子は丸い瓜皮帽を被り、切れ長の目、鼻が高く、笑みを帯びている。丸首の胡服を着て、手を袖の中に入れている。先の尖った靴を履く。世俗の少年像である。
童女は文殊菩薩の脇に立つ。2つの髷を結い、ハイウエストの裙は脚を隠す。世俗の少女像であるという。
この窟を奉献した人物の子供だろうか。
123窟東壁前脇侍童子と西壁前童女像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

ほかにも北魏末期と西魏時代の仏像に共通点は多い。


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社