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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/03/12

麦積山石窟43・44窟 乙弗氏の残影


『仏のきた道』は、西魏窟で想起されるのは『北史』に伝えられている西魏文帝(在位535-551)の皇后乙弗氏の悲話である。文帝は東魏と対立中に柔然王に攻められ、懐柔策としてその娘を皇后に迎え、皇后であった乙弗氏を廃位して出家させ、尼として麦積山に幽居し、ついに自害させてしまった。遺骸は「麦積崖を鑿ち龕を為って葬る」と記載されている。
その墓窟の「寂陵」が43窟の後室であるといわれ、窟前には殿堂式の扉がつくられているという。
44窟は右下端。同じ高さで階段の右にある屋根を浮彫にした大きな窟が43窟。
麦積山石窟東崖43・44窟の位置 『麦積山風景名勝』より

43窟 北魏 宋(960-1127)重修
『仏のきた道』は、三間幅の入口上部に鴟尾のついた瓦屋根のレリーフが残っている。
内部の像はすべて宋代に作り直されたという。
通りすがりに内部を覗くと、扉の網越しでやや見づらいが、左右に力士、中央に三尊のなかなか出来のよさそうな像が並んでいるのがみえるという。

その前に、43窟の窟外装飾を眺める。

『天水麦積山』は、外観は幅三間で幅6.65m、高さ2.7mの八角の柱が四本。柱の上方に蔓が巻き枝に蓮華や宝珠のモティーフが浮彫されている。頂部には鴟尾や筒瓦などが彫り出されているという。

『中国石窟芸術』は、木造建築を模倣している。3間4柱で庇が付く。庇と柱の下にはひさしの間があり、6.65m、柱は高さ2.20mで八角形、柱頭には摩尼宝珠と蓮華の浮彫がある。屋根には丸瓦の列が残り、鴟尾の間には木の枝状の飾りがあるという。
実際の寺院建築の屋根を塑造で真似たのは理解できるが、鴟尾の間に木の枝を表すというのが興味深い。当時の寺院は大きな樹木が生い茂るところに造られていたのだろうか。それとも、乙弗氏の寂陵であることが崖下からでも分かるような目印だったとか🤔
麦積山石窟東崖43窟外観 『中国石窟芸術 麦積山』より

立面図
『中国石窟芸術』は、内部には高さ2.96m、幅3.40m  奥行1.90mのアーチ形大龕、左右に円形の浅い龕があるという。
柱頭装飾には後補の箇所があるが、装飾モティーフとしては北周時代のもの。
麦積山石窟東崖43窟立面図 『中国石窟芸術 麦積山』より

金剛力士しか写らなかった。

平面図
『中国石窟芸術』は、大画後壁一つの台形平面の頂部の後室があるという。
この平面図を見ると、乙弗氏の墓室として開鑿されたことが想像できる。
麦積山石窟東崖43窟平面図 『中国石窟芸術 麦積山』より

断面図
『中国石窟芸術』は、正壁下方に通路があり、高さ1.73m、前面の幅2.50m、後部の幅2.15m、奥行3.20mの頂部が台形の後室があるという。
wikipediaの乙弗皇后によると、廃帝(551-554)のとき、永陵に合葬されたという。
麦積山石窟東崖43窟断面図 『中国石窟芸術 麦積山』より

『中国石窟芸術』は、龕内に現存するのは一仏二供養菩薩、二力士で宋代のものであるというが、中尊は図版にも載っていない。 

中尊の両脇侍 宋代造像明重修
『天水麦積山』は、衣褶表現は装飾性に富む。彩色は明代の重修という。
両脇侍の着衣がそれぞれ異なることは多い。どちらも宋代に流行したファッションを採り入れたものなのだろう。
麦積山石窟東崖43窟龕内両脇侍菩薩像 宋代 『中国石窟芸術 麦積山』より

大龕の中尊左肩奥に浮彫された供養菩薩は左手に何かをのせている。龍は中尊の坐る椅子の背もたれの装飾だろう。
麦積山石窟43窟龕左供養菩薩 宋代 『中国石窟 天水麦積山』より

力士像 宋代 高さ2.54m
『中国石窟芸術』は、頭頂に小さな花冠をいただき、左手に金剛杵を持つ。剛健威猛高であるという。
表情は鋭いが、日本の仁王像のような誇張した筋肉表現はない。それが宋代の仏教美術である。
麦積山石窟43窟力士像 宋代 『中国石窟 天水麦積山』より

44窟 特別窟
『中国石窟芸術』は、奥行1.2mの前廊があり、その正壁中央に壁龕がある。平面は半円形、龕頂はアーチ形、龕両側上部それぞれ小龕がある。小龕には西魏期の彩画が痕跡があるという。
研究員に鍵を開けてもらい、実物を鑑賞することはできたが、撮影はできなかった。

如来三尊像
『天水麦積山』は、20窟の下に位置する。石窟は崩壊し、後部の像のみが残る。正壁の龕内には如来坐像一体のみ。龕の外左右には菩薩が一体ずつある。如来は1.6mあるという。
中国の文献では如来だけで名称を特定していないが、ガイドの丁さんは釈迦如来という。
麦積山石窟44窟正壁 一仏二菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

『仏のきた道』は、第43窟の脇につくられた第44窟の坐仏は、高い渦巻型の肉髻と優美な姿態、心なしか淋しげな謎の微笑を含んだ口許などに、西魏仏の最も完成した美しさを示すといわれている。この仏像は文帝皇后乙弗氏の面影を写した供養仏ともいわれているという。
長安を都とした西魏に対し、鄴に都を置いた東魏も笑みを浮かべる仏像をつくったが、やはり東西ではに違いがある。
特にこの像は「乙弗氏を写して淋しげ」と表現されるように、目を伏せているので、生気溢れる東魏の仏像とは雰囲気さえも異なっている。
麦積山石窟44窟正壁 如来坐像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

そして着衣。双領下垂式で肩や胸あたりまでは感じられない重厚感が、左腕の折り重なる襞の多さから始まって、台座も覆う裳裾の品字形衣端まで、何層にも重なって重そうだ。
麦積山石窟44窟正壁 如来坐像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

3枚の衣を着けていて、最も内側の衣には衣端に襞がなく、その外側の衣が襞が多い。一番外側の大衣は少しだけ襞がある。それぞれの衣には衣端に別の布が縫い付けられていることまでが表現されている。

如来の顔は、こんな風に斜め前から見ると、淋しげということもなく、満ち足りた表情をしている。
また、額から段をつけて髪を表すのも特徴の一つかも。その髪も三つ巴状の渦巻が並んでいる。
麦積山石窟44窟正壁 一仏二菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

脇侍菩薩像
左菩薩の肩に丸い装飾は、麦積山石窟133窟1号龕内右壁の菩薩立像(北魏)にすでに見られる。133窟の菩薩立像と比べると、この脇侍菩薩たちに笑みがないのは、43窟に葬られた乙弗氏と関係があるのではと想像させる。
右脇侍は左手に水瓶を持ち、煩雑にくねる天衣を着けている。左脇侍は天衣を輪っかを通してX字状に交差させている。
麦積山石窟44窟正壁 二菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』他より

龕内の菩薩立像
蓮台に立つ菩薩は胸前で両手を合わせているのだろうか。
麦積山石窟44窟正壁龕内壁画 菩薩立像 西魏 『中国石窟 天水麦積山』より 

               →麦積山石窟4・5窟 前廊装飾

関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「魏晋南北朝」 川勝義雄 2003年 講談社学術文庫1595