西魏時代に開鑿された窟は西崖区の上の方に多い。
135窟 長方形平面平天井の大きな窟 高さ4.65m幅8.84m、奥行4.71m
『中国石窟芸術』は、隋代に正壁龕の左右に一龕が開かれた。年代については、北魏末期という説と、西魏という説があるという。
正壁龕内一仏二菩薩像 主尊高さ1.65m 菩薩高さ1.39m
『中国石窟芸術』は、主尊は高い肉髻、弓なりの眉、細い目、白毫、面長で笑みを浮かべる。細い首で撫で肩。僧祇支を中に着て帯を結ぶ。双領下垂式の大衣は端を左腕に掛ける。
施無畏与願印で方形台座の上に結跏趺坐する。着衣は台座の前に垂らし、折り畳んだ衣は厚く重そうで、装飾性が強いという。
この方向からは如来の微笑みは分からない。
西壁龕内一仏二菩薩像 主尊高さ1.35m
『中国石窟芸術』は、アーチ形の浅い龕内。主尊は高い肉髻、白毫がり、面長で俊秀な顔は笑みを帯びる。少し前かがみ。内着は僧祇支、外には双領下垂式の袈裟を着け、左腕にその端をかける。施無畏与願印で方形台座に結跏趺坐する。裳裾は台座前部を覆う。韻律感に富んだ襞であるという。
『中国石窟芸術』は、アーチ形の浅い龕内。主尊は高い肉髻、白毫がり、面長で俊秀な顔は笑みを帯びる。少し前かがみ。内着は僧祇支、外には双領下垂式の袈裟を着け、左腕にその端をかける。施無畏与願印で方形台座に結跏趺坐する。裳裾は台座前部を覆う。韻律感に富んだ襞であるという。
台座の下まで垂れた衣端は北魏時代ほど規則的ではなくなるが、内着の衣端には裾に細かい縦線のある別布を付けたところまで表現しているのに、大衣はおおまかに線刻し、中央に垂れる箇所などにはヘラで斜めにえぐっている。
麦積山135窟西壁一仏二菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
左脇侍菩薩像 高さ1.38m
『中国石窟芸術』は、髪は中央で分けて扇形に高くまとめ、顎の尖った顔は額が広く、目を少しだけ開き、口角を上げる。会心の笑みを浮かべる。
蕨手と宝繒は両肩まで垂らし、三重の衣を着る。腰には束帯、外着には帔帛、飄帯があり、足には頭の出た履きもの、左手は如意を提げるという。
右脇侍菩薩よりも微笑み度が高い。
麦積山135窟西壁左脇侍菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
135窟が北魏説と西魏説があるというならば、西魏時代に入ってすぐの大統初年(535)に正壁の一仏二菩薩像が献納されたことが確かなのが127窟である。
127窟 平面は横長方形、寄棟造の天井、3壁3龕 窟高3.94m幅6.56m、奥行4.65m
『中国石窟芸術』は、正壁、東西壁はそれぞれ龕内に一仏二菩薩像。窟頂及び四壁に壁画。正・左右披に捨身飼虎図。前披に本生図が描かれるという。
披とは天井の斜面のこと。
麦積山127窟窟内図 西魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
正壁 一仏二菩薩像 535年
『天水麦積山』は、西魏大統年間(535-551)に開鑿された典型的な様式を示す。息子の武都王が秦州で活動している頃、大統初年に乙弗皇后はこの窟の正壁に石彫の一仏二菩薩像を献納した。優れた石刻の説法図であるという。
しかし、熱心な仏教徒の乙弗皇后が自らの発心から石彫の一仏二菩薩像を献納したのではなかった。
『仏のきた道』は、西魏窟で想起されるのは『北史』に伝えられている西魏文帝(在位535-551)の皇后乙弗氏の悲話である。文帝は東魏と対立中に柔然王に攻められ、懐柔策としてその娘を皇后に迎え、皇后であった乙弗氏を廃位して出家させ、尼として麦積山に幽居し、ついに自害させてしまった。遺骸は「麦積崖を鑿ち龕を為って葬る」と記載されているという。
『中国石窟芸術』は、龕内の一仏二菩薩像は石彫、如来坐像の像高は1.03mで西魏時代の代表作の一つ。44窟と102窟と同じ形式で制作されたという。
如来頭光
『天水麦積山』は、中央に大きな複弁の蓮華、周囲に蔓草が円弧状に伸び、枝を分けて蓮華唐草となる。上部には蓮華化生仏、左右に伎楽天各6天が飛んで、外周を装飾するという。
伎楽天たちは飄帯を後方に翻し、個々の楽器を奏でている。
西壁如来坐像及び右脇侍菩薩像
右脇侍菩薩 高さ1.22m
『天水麦積山』は、髻を高く結い、僧祇支、天衣、帔帛、長い裙、瓔珞を身に着けるという。
『天水麦積山』は、東西壁の如来坐像は後世に重修された塑像であるが、それぞれの両脇侍菩薩は西魏の優れた塑像である。秀骨清像に属し、高い髻に宝冠、服装は華麗で笑みを浮かべるという。
西壁 龕内右脇侍菩薩像 像高1.45m
同書は、大統年間(535-551)に制作され、瀟洒で芸術的な風格がある。それは南朝の文化の影響である。右脇侍菩薩は静かな佇まいという。
左脇侍菩薩像 像高1.40m
仏師は大胆に上半身を斜めに向けている。写実的であり、また、誇張した表現もみられるという。
仏師は大胆に上半身を斜めに向けている。写実的であり、また、誇張した表現もみられるという。
右手には蓮華を持ち、如来に捧げているのだろう。こんなに動きのある仏像は珍しい。
東壁
龕内左脇侍菩薩像 像高1.58m
西壁の脇侍菩薩像ほどには動きはにいが、微笑みというよりも満面の笑みをその細い眉や目、口元に浮かべている。
壁画が残っている。
東壁上部 西方浄土変 幅4.55m 高さ1.63m
『中国石窟芸術』は、中国の石窟の中で最も早い時期の大型西方浄土変壁画である。阿弥陀如来は殿堂の中に背を正して坐っている。殿堂両側に弟子たちや伎楽天などが立つ。その両外側には大樹と闕が描かれているという。
敦煌莫高窟では初唐期(618-712)の220窟南壁に阿弥陀経変図があるのが、浄土図として形式の整った最初期のものだと思う。
阿弥陀浄土図 北斉(550-577) 南響堂山第2洞将来 アメリカ、フリーア美術館蔵
『日本の美術272浄土図』は、浄土三部経-「無量寿経」(大経)、「阿弥陀経」(小経)、「観無量寿経」(観経)を代表とする阿弥陀経典の訳出以来阿弥陀仏に対する関心が漸次高まって来たことはいうまでもないが、なかでも、阿弥陀が主催する西方浄土は往生者の死後の世界観を目のあたりにみせてくれる点で、一番の花形であり、この阿弥陀浄土に願生往生できると説く上記の阿弥陀経典は、浄土教の根本経典となった。 ・・略・・ 北魏・六朝時代には阿弥陀の浄土荘厳の相を中心に説く大経や小経に対する信仰であるという。 蓮華に座す阿弥陀仏の前には宝珠形の香炉があり、その周りには、開敷蓮華に座した往生者、蓮華が開いて頭が出ている往生者そしてまだ未開敷蓮華の中にいる往生者がいる。
麦積山石窟の方が洗練された図と見受けられる。
捨身飼虎本生図 西披
『中国石窟芸術』は、左部分に集中して描かれている。虎は16頭と多いのは、当時の画家の創意である。虎の母子は2組に分かれ、上の組は太子の遺体を囲んでいる。衰弱のあまり遺体を食べることができないでいた。下の組は微塵になった遺体を囓っている。
麦積山石窟の北朝期には珍しく大型の本生図であるという。
敦煌莫高窟では、連なる山を境に場面が横に展開する捨身飼虎図が見られるが、この図には崖から身を落とす太子は描かれない。
西魏期に開鑿された窟で有名なのが、すでに記事にした44窟である。西魏窟としては例外的に東崖区に開鑿された。
『仏のきた道』は、第44窟の坐仏は、高い渦巻型の肉髻と優美な姿態、心なしか淋しげな謎の微笑を含んだ口許などに、西魏仏の最も完成した美しさを示すといわれている。この仏像は文帝皇后乙弗氏の面影を写した供養仏ともいわれているという。
102窟 平面方形方錐形天井 『中国石窟芸術 麦積山』は、窟内西壁主尊、両側壁文殊菩薩及び維摩詰像で、『維摩詰経』をもとに造像されたという。
麦積山石窟では、北魏時代の窟は左右側壁に過去仏と未来仏の弥勒の像を安置して三世仏を表していたが、西魏時代になると、左右側壁は維摩と文殊となった。北魏末期の121窟とよく似ているが西魏時代に開鑿された123窟も、側壁は維摩と文殊の像になっているので、麦積山では西魏窟で始まったと言えるだろう。
西壁 主尊高さ1.52m
同書は、高い肉髻に渦文を陰刻する。方円形の顔で清秀、表情は温和である。
双領下垂式の袈裟を着て、施無畏与願印で工字形台座に結跏趺坐する。着衣は2つに分かれて八字形に垂下する。厚く重い様子が立体感をもって表されている。
44窟によく似ているので、同じ工房の手掛けたものとされ、西魏造像の最高水準の代表であるという。
『中国石窟芸術』は、正壁と西壁の角に安置されていたが、正壁の如来の脇侍菩薩だろう。
三葉宝冠を戴き、髪を中央で分ける。顔はふくよかで、ふくみのある表情。袂もとがV字形で、帔帛は腹部の輪っかで交差して下に垂れるという。
西壁
文殊菩薩倚像 高さ1.15m
『中国石窟芸術』は、高く丸く結った髻に三葉宝冠を被る。かすかに笑みを浮かべる。造像は高貴であるという。
脇侍菩薩と同じような着衣で文殊菩薩が表されている。それは123窟の文殊菩薩と同じだが、輪っかに帔帛を通し、左手で持つ如意がその上に続いて、維摩と論争する文殊というよりも、脇侍菩薩に近くなっている。
麦積山石窟102窟西壁文殊菩薩像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
東壁
維摩詰像 高さ0.93m
『中国石窟芸術』は、高巻荷帽を被る。広い額、長い眉。膝に下ろした左腕は袖を巻き上げているという。
結跏趺坐した姿勢に腕まくりは似合わない。当時の人は論争に夢中になると腕まくりしていたのだろうか。
阿難像 像高1.12m 麦積山石窟芸術研究所文物庫蔵
麦積山石窟102窟東壁維摩詰像 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
阿難像 像高1.12m 麦積山石窟芸術研究所文物庫蔵
『中国石窟芸術』は、内着は僧祇支で胸前に帯を結ぶ。袈裟から右肩を出し、左手で鉢を持つという。
まるで托鉢をしているよう。
麦積山石窟では、阿難は微笑んだ少年のように表されることが多いが、123窟ではあまり可愛くない阿難になっていて寂しかったが、この阿難には微笑みが戻ってきた😊 でも、ちょっと大人びている🤨
麦積山石窟では、阿難は微笑んだ少年のように表されることが多いが、123窟ではあまり可愛くない阿難になっていて寂しかったが、この阿難には微笑みが戻ってきた😊 でも、ちょっと大人びている🤨
麦積山石窟102窟 西魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
147窟
前部は崩壊。窟高1.07m 残幅1.86m 残奥行0.64m。西壁の龕はアーチ形で、高さ1.07m 幅0.876m 奥行0.38m
前部は崩壊。窟高1.07m 残幅1.86m 残奥行0.64m。西壁の龕はアーチ形で、高さ1.07m 幅0.876m 奥行0.38m
西壁如来坐像 像高1.17m
『中国石窟芸術』は、双領下垂式の袈裟を着け、衣文は線刻されている。右手は施無畏印で左手は降魔印。衣端は広く、衣褶の曲線は素晴らしいという。
大きな白毫のある如来は西魏窟でみられるが、螺髻の如来はこれまでには登場していなかったはず。
『中国石窟芸術』でも麦積山では他になく、北朝の造像中で唯一のものであるという。
敦煌莫高窟には螺髻の仏像はあったかな?
北魏末期に現れた微笑みは、西魏で満開となった。
麦積山石窟121・123窟 北魏末期から西魏へ← →麦積山石窟 北周は廃仏以前と以後で様式が変わる
麦積山147窟西壁如来坐像 西魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
北魏末期に現れた微笑みは、西魏で満開となった。
麦積山石窟121・123窟 北魏末期から西魏へ← →麦積山石窟 北周は廃仏以前と以後で様式が変わる
関連項目
参考文献
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂