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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/05/21

麦積山石窟 北周は廃仏以前と以後で様式が変わる


北魏を建国したのは鮮卑族の拓跋氏である。平城(現大同)に都を置いていたが、孝文帝は漢化政策を行い、中原の洛陽に遷都した。服制や言語も中国風に変え、元氏を名乗った。そのために、仏像の着衣も中国風になったのだった。
西魏(535-556)という時代は、宇文泰という武将の傀儡にせよ、元氏の末裔を天王に立てたので、仏像も貴族風の華やかな様式を受け継いだ。菩薩像の服装などは貴族に使えた女性のもののようで、如来の着衣も厚く襞を重ねるものであった。
『魏晋南北朝』は、556年、宇文泰は死ぬ。孝武帝-文帝-廃帝-恭帝とつづいてきた西魏朝廷は、宇文泰のあとをついで実権を握ったその兄の子宇文護によって禅譲を迫られた。そして宇文護は、宇文泰の世継ぎの宇文覚に禅譲を受けさせて、「天王」の位につけ、ここに北周王国が成立したという。
国名は全て後世の人が首都の位置から名付けたもので、北魏時代には「魏」または「大魏」と称したように、北周も当時は「周」という国名だった。

菩薩及び弟子像 2009年山頂舎利塔塔礎出土 菩薩像高0.93、0.81m
『中国石窟芸術』は、菩薩は頭部に摩尼宝珠をのせ、髪と冠帯を両肩に垂らす。瓔珞は腹部で交差し垂下する。
菩薩の表情は温和で、体型は円柱状にふっくらしているという。
秀骨清像の西魏から円柱状の体型へと変化したが、装飾的な服飾と柔和な顔は西魏の造像を引き継いでいる。


62窟 西崖区中部 平面方形方錐形天井
『天水麦積山』は、麦積山石窟で最も保存状態のよい窟で、後世の重修を受けていない。
正壁、東西壁にそれぞれアーチ形龕を開き、龕内に一体の如来坐像、龕外両側に脇侍菩薩像があり、前壁には二弟子、窟外左壁には力士像があるという。

正壁
同書は、如来の像高0.92m、頭を少しうつむき目も下を向く。結跏趺坐して説法の場面を表す。左脇侍菩薩は像高1.15m、右脇侍菩薩は1.12m。三面頭飾を付け、髪を高く結うが髻は小さいという。
うつむき加減ということを考慮に入れても、如来も菩薩も極端な丸顔である。
菩薩は、大きな瓔珞も幅広の天衣も交差することなく、膝の上下で2段になっている。裙の折り返しが長い。装飾的で長い裳裾は西魏の様式を引き継いでいる。
127窟西壁の脇侍菩薩像(西魏)はかなり上半身に動きがあるが、脚部は直立している。ところが、この両脇侍菩薩像は、主尊の方に膝を出して体を三曲にひねっている。これは敦煌莫高窟275窟(北涼期)の正壁の両脇侍菩薩像ですでに見られるものだが、麦積山石窟では北周に入って伝播したのだろうか
麦積山石窟62窟正壁一仏二菩薩像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

如来の頭部は高いが肉髻があるのかないのか見分けられない。
右腕が袖のようになった大衣から出ているので、双領下垂式のようだが、左肩に大衣の衣端がかかっているので、ゆったりと被った通肩なのだろう。凝った品字形衣文が3段に展開する。
麦積山石窟62窟正壁如来坐像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

側壁龕内はいずれも禅定印を結ぶ如来坐像である。6体の菩薩像は造形が一様ではないが、北朝の秀骨清像の余韻が残り、また、隋唐に展開する豊満な姿の新風でもあるという。

東壁
主尊は通肩で、結跏趺坐して、壇にかかる大衣や内着がかなり簡略になっている。
麦積山石窟62窟東壁一仏二菩薩像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

西壁
如来は眠っているかのよう。
低い宝冠を被る両脇侍の頭部は高くなく、やや後方に髻が見える。瓔珞は付けず、幅広の天衣が2段になって、脚部を隠すような形式となっている。
この窟の如来や菩薩の顔は独特で、開鑿した家族あるいは一族の顔立ちや喪に服する気持ちへの強い意向が感じられる。
麦積山石窟62窟西壁一仏二菩薩像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

45窟 
『天水麦積山』は、元は窟内に如来坐像が3体あった。主尊は説法印、左如来は禅定印、右如来は失われているという。

主尊 像高1.40m
須弥座に結跏趺坐する。衣端は短く左右対称に衣文が並ぶ。両側の両脇侍菩薩は高さ1.17mで、着衣は帔帛も裙も渾然一体に表されているという。
西魏よりは厚みのない着衣だが、裳裾はまだまだ複雑だ。
麦積山45窟如来坐像と左脇侍菩薩像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

141窟 西崖区東側上層 平面方形
『天水麦積山』は、伏斗式天井で、窟頂に蓮華を浮彫し、梁などを彫り出して木造風にしている。正壁には大きな龕が開かれ、その頂点が蔓草となって尖っている。龕柱の柱頭は蓮華宝珠となるという。

麦積山141窟内図 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

伏斗式天井は敦煌莫高窟では西魏時代に出現しているが、麦積山石窟でも西魏の窟にあるのかな、それとも北周になってからだろうか。
麦積山141窟正壁及び窟頂 北周 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁
如来坐像 像高1.45m
同書は、肉髻は低く平らで丸顔。正壁主尊は七仏の内の中尊であるという。
ということは、結跏趺坐して説法する釈迦如来ということになる。
北魏・西魏時代を通して、如来の肉髻は高かったが、北周時代になると、肉髻が低く、目立たなくなった。
そして、光背は火焔文、蔓草文様、火焔宝珠文に2供養比丘などが主に緑色で描かれている。須弥座に如来の裳が掛かって装飾的であるという。
如来の着衣は薄く、扁平になった。また、通肩ならもっと首に近いところで大衣の端が左肩にかかるし、双領下垂式ならば、もっと低い位置で大衣の端が左腕にかかるのだが、この如来は双領下垂式のようにゆったりと腹部まで大衣を垂らしているのに、大衣の端は右肩に懸かっている。
裳が台座にかかってはいても、西魏の頃に比べると着衣は格段に薄くなっている。こんなところにも質実剛健な北周の気風が現れているように思える。
麦積山141窟正壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より

正壁左脇侍菩薩像
龕外の左脇侍菩薩像は、高さ1.24m、束髪冠を被り、長い髪は天衣と肩にかかっている。豊満な顔で長身であるという。
西魏の菩薩とは異なった着衣となった。
麦積山141窟正壁左脇侍菩薩像 北周 『天水麦積山』より

『天水麦積山』は、両壁の中間龕内の像は壊されている。左右側壁の如来坐像は全て定印を結ぶという。

東壁 
中間龕後壁は打ち破られていて、140窟に通じているという。
141窟から140窟(北魏)が見える図版はこちら

後部仏龕如来坐像 像高0.68m
通肩に大衣を着けて、両手と右足だけが出ている。衣文線は浅く2本ずつ線刻されている。
そして衣端は壇に懸かっていない。
麦積山141窟東壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より

西壁 如来坐像 像高0.79m 
上の如来坐像よりも大衣を大きくはだけた通肩で、2本の衣文線の間は突線になっている。こちらの如来も衣端は壇に懸かっていない。
6体が判で押したように一律という訳ではなく、一体一体の着衣も少しずつ違えて、丁寧に制作されている。
麦積山141窟西壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より
 
557-581年という短い時期に、西魏から受け継いだもの、新たに出現したものがうかがえる。
西魏が貴族的な雅な造像様式を引き継いだとすれば。北周になると武将的な簡素な造像となっていった。
ただし死後武帝と呼ばれた宇文邕(よう、中国の歴史ドラマでは「アイヨ」と呼んでいるように聞こえる)が廃仏を行った574年以前が西魏の様式を受け継いだ雅な造像、以降は簡素な造像と変わっていった。
如来の長い裳裾と短い裳裾が混在する141窟は、その過渡期だったのかも。

36窟 東崖区中部 洞窟形 最も典型的な北周様式 平面方形方錐形天井
正壁
左脇侍菩薩像
動きも表情もない菩薩は蓮台の上に立っている。
『天水麦積山』は、東西壁には各三体の如来坐像が高い壇の上に安置されているという。
やはり七仏窟のよう。
麦積山141窟正壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より

北周期(557-581)になると、麦積山東崖区にも窟が開鑿されるようになった。

39窟 東崖区 平面方形方錐形天井、前部崩壊
『天水麦積山』は、正壁龕内如来坐像、左右壁如来坐像各3体。
西魏に開鑿された162窟は、正壁、東西壁に各一体の如来坐像が直接高い壇に安置されている。これは北周の窟に先行するものであるという。
少し奥行のある窟で、網戸越しでは右手前の結跏趺坐する如来坐像がわかる程度だった。確かに高い壇に結跏趺坐している。
それでも左右壁に3体ずつ、西壁に釈迦如来を安置する七仏を表現した窟だろうと推測することはできた。

窟不明 東崖区 
正壁は主尊が写せなかったが、左脇侍菩薩像がかろうじて見える。左右壁には如来坐像が三体ずつ安置され、七仏窟であることが想像できる。
七仏窟は、慶陽北石窟寺や涇川南石窟寺で、広大な窟内に大きな立像が並んでいるのを見てきた。どちらも北魏時代の開鑿だが、麦積山石窟では北周時代になって表されるようになったようだ。あるいは、北魏や西魏時代にもあったが、地震で崩壊したり、廃仏で壊されたりして残っていない可能性もある。

18窟 東崖西側 アーチ形龕
窟内には1体の如来坐像のみ 1.14m
『天水麦積山』は、端正な像で、北周時代の傑作であるという。
顔貌がはっきりと写っている図版で、西魏時代の仏像の特徴が、弓なりの眉、切れ長の目、口角の上がった口元など、各部分に受け継がれてはいるが、全体的には西魏の微笑みに満ちた表情ではなくなっている。
麦積山18窟正壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より

22窟 
正壁アーチ形龕 龕楣は火炎文が描かれた尖頭形
如来坐像 像高1.62m
『天水麦積山』は、光背外周には火焔文、その内側左には一天女二比丘、右には二天女一菩薩が描かれているという。
麦積山22窟正壁如来坐像 北周 『天水麦積山』より

正壁右脇侍菩薩像
左手に何かを持ち、右手が左手を支えている。髪は中央で左右に分けているが、髻も宝冠も見えない。
麦積山36窟正壁右脇侍菩薩像 北周 『天水麦積山』より

最後に『天水麦積山』(1998年発行)と『中国石窟芸術』(2013年発行)では時代付けが異なる12窟について。

12窟 東崖区中部 13窟の大像の左下にある小窟 明代に彩色 平面方形
『天水麦積山』は、正壁龕内に如来坐像、外に二脇侍菩薩像。東西壁にそれぞれ三如来坐像があり、正壁と合わせて七仏となる。前壁門に二弟子の像がある。
典型的な北周窟で、一般的に北周窟とされているが、表現が完璧で疑いもなく隋代の作品である。
隋王朝は全国を統一し、南方と北方の文化を融合を実現したという。
しかしながら、『中国石窟芸術』は北周期の造像としている。研究が進んで時代付けが変わることはあるので、こんな時は新しい方を採ることにしている。
『中国石窟芸術』は、小さな窟で方錐形天井、七仏窟であるという。

正壁一仏二菩薩像
『中国石窟芸術』は、主尊のみ龕内。如来の肉髻は低く方円形の顔、体はがっしりし、両手を胸前に挙げている。双領下垂式の大衣を着け、その衣文は簡潔で、裾は台座に垂れているという。
麦積山12窟正壁両脇侍菩薩像 北周 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁二菩薩像 像高1.06m
『天水麦積山』は、脇侍菩薩は両手で蓮華を持ち、左脇侍菩薩は浄瓶を捧げる。ふっくらして慈愛に満ちた顔であるという。
低い髻に蓮弁を並べたような宝冠をつけている。
『中国石窟芸術』は、三珠宝冠をかぶり、長い瓔珞をつける。片足に重心を置く。造像は充分に熟した北周の様式で、「珠圓玉潤」であるという。
このような彩色がなかったら、また違って見えただろう。
麦積山12窟正壁両脇侍菩薩像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より

前壁二弟子像 像高0.94m
同書は、畏敬の念に満ちている。一心に仏陀を向く少年弟子を表すという。
どちらが阿難だろう。他に弟子で少年といえば、釈迦の息子羅睺羅くらいしか思い浮かばない。北魏から西魏にかけての微笑みに満ちた阿難とは違い、修行に励む阿難像となった。
麦積山12窟前壁両弟子像 北周 『中国石窟 天水麦積山』より



     麦積山石窟 西魏窟←      →麦積山石窟 隋代に写実的な造像となる

関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
『魏晋南北朝』 川勝義雄 2003年 講談社学術文庫