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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/05/28

麦積山石窟 隋代に写実的な造像となる


北周の武帝は北斉を滅亡させた翌年(578)に病死、息子の宇文贇が嗣ぐが即位の翌年、太子の宇文衍に位を謙り、自ら天元皇帝と名乗った。
天元皇帝は、惑乱のすえ、その翌年、580年に22歳の若さで死んだ。そのあと、皇后の父の楊堅が朝臣たちに推されて執政となり、やがて敵対勢力を倒したのち、581年には静帝に禅譲を迫って隋朝を創始したという(『魏晋南北朝』より)。

54窟 西崖区西側 平面台形傾斜天井 龕高1.75m幅1.37m奥行1.15m
一仏二菩薩像 主尊像高1.05m
『中国石窟芸術』は、窟内に一仏二菩薩像、身体部分は西魏時代に制作され、頭部は隋代に重修された。
衣文は陰刻のU字形が全身に施され、横方向に続いている。このような衣文は麦積山にはなく、東魏や北斉の石窟での造像に見られる。
頭部は隋代につくられ、低い肉髻、方円形の顔、鼻翼が張っている。
両壁の菩薩は高さ1mで隋代の塑造。蓮華宝珠の宝冠をいただき、髪際は前に突き出している。顔は楕円形で清秀。内着の襟を三角に立て、外着は襟がある。一人は右手で蓮華の蕾󠄂を掲げ、もう一人は両手で開いた蓮華を持っているという。 
如来には白毫があるが、肉髻も低く、逆に脇侍菩薩は派手な宝冠をつけている。
北周の丸みのある顎のから角張った顎へと変化した。
麦積山54窟正壁 西魏開鑿隋代重修 『中国石窟芸術 麦積山』より

60龕 西崖区下層西側 平面長方形平天井窟 窟高1.48m 幅1.35m 奥行1.07m 西魏開鑿隋代重修
『中国石窟芸術』は、正壁には長い仏座が続いている。龕内に一仏二菩薩像があるが、主尊頭部と左脇侍が隋代に重修を受けたという。
麦積山60窟正壁 西魏開鑿隋代重修 『中国石窟芸術 麦積山』より

主尊 像高1.26m
『中国石窟芸術』は、頭部が隋代に造り直された。平たい肉髻で、顔は丸みがあり、曲線の眉、切れ長の目は下を向く。鼻は狭く、唇はくっきりとしているという。
一見しただけでは肉髻はなさそうで、言われて凝視すると、かすかに頭部と肉髻の境目の線が見えてくる。適当に髪の筋を刻んだようで、丁寧な仕上げには見えない。
顔はしかめているように感じる。
麦積山60窟正壁主尊頭部 隋代重修 『中国石窟芸術 麦積山』より

右脇侍菩薩 像高1m 隋代重塑
頭部は髻が残っていて髪は中央で分ける。方円形の顔で微笑みを帯びる。首に尖頭の首飾りをつけ、帔帛は肩を覆い、真っ直ぐに脚部まで垂れている。内着は斜めになっていて、わずかに腹部が出ている。裙は腰で外側に折れる。左手には宝珠を持つ。比較的写実性が強いという。

左脇侍菩薩 像高1.04m 西魏時代に制作されたまま
髻は高く、前に花弁を飾っている。頭髪は中央で分ける。顔は清秀で、細い眉に小さな目、鼻梁は高く、微笑みはない。首は細長く三角に立つ内着に襟を合わせて大衣を着る。腹部で両手を袖の中に入れている。帛帯で肩を覆い、長い裙は脚を覆う。菩薩の姿は秀美で、麦積山西魏時代の菩薩像の典型的な特徴であるという。
右脇侍は顎が張っている。左脇侍も顎がくっきりとしているが首が細い。
麦積山60窟正壁 西魏開鑿隋代重修 『中国石窟芸術 麦積山』より

94窟 西崖区西側 アーチ形入口ヴォールト天井
『天水麦積山』は、一仏二弟子二菩薩を安置する。
主尊の像高は0.93m、両手前後に重ねた禅定印を結び結跏趺坐する。台座に懸かる裳は短いという。
衣端は台座にかかっていて、北周期に形骸化されたものを踏襲している。印相はことなるが、141窟正壁の如来坐像(北周期)によく似た造像である。
麦積山94窟一仏二弟子二菩薩像 隋 『中国石窟 天水麦積山』より

二弟子はともに青年比丘を表し、二菩薩は天衣と長い瓔珞をつける。体型は豊満となり、手の指は柔軟で、高度な写実的技巧によって表現されているという。
体型は豊満というよりもずんぐりと円筒のよう。
麦積山94窟二弟子二菩薩像 隋 『中国石窟 天水麦積山』より

67窟 西側中部 ドーム形窟頂 崩落が進み、塑造の層は全て剥落
『天水麦積山』は、窟内に残っているのは如来倚像と左右脇侍菩薩と右力士像。
如来の倚坐像高は1.30m。顔は長円で白毫には緑玉の宝珠が嵌め込まれている。涼州式偏袒右肩の大衣に僧祇支を内に着る。
左脇侍菩薩は像高1.00m、宝冠は壊れているという。
腰掛ける如来の脚の盛り上がりが薄い着衣からわかる。その着衣は扁平で衣文は線刻された簡素なものだ。
麦積山67窟如来倚像・左脇侍菩薩像 隋 『中国石窟 天水麦積山』より

力士像 像高0.92m
肩幅は広く、丸く大きな目をし、写実的な顔貌である。右拳を胸前にあげ、勇猛さが表現されているという。
同じ隋代の力士像なのに、14窟(後述)の威圧感の像とはかけ離れた造像である。
麦積山67窟右力士像 隋 『中国石窟 天水麦積山』より


37窟 東崖区北周36窟の東側 ドーム形の窟頂

如来倚像
『天水麦積山』は、窟内には主尊倚像と右脇侍菩薩のみが残るという。
金網越しに撮影したので、暗くて如来の頭部がよく写っていないが、三道ははっきり見えている。はて、麦積山石窟で三道のある仏像は宝冠にあったかな?
施無畏与願印で壇に腰掛けている。
67窟の主尊よりは盛り上がりの感じられる着衣表現となっている。柔らかな折畳文は部分的に表される程度。両脚の膨らみが着衣を通してわかる。
両足は壇から出た台に置いていて、裸足のよう。
右脇侍菩薩も写していた。
北魏末期から如来のように分厚い大衣を着るようになり、西魏になると帔帛や飄帯など華美な服装になっていたが、隋になると上半身は裸形に戻った。
短い天衣にどこから垂下しているのか分からない瓔珞など、表現に混乱も見られる。

『天水麦積山』は、菩薩像高1.86m。細長い体型で、両手を脚部で自然に交差させる。簡素な造形であるが、麦積山の隋代の優品であるという。
菩薩は髪を両肩に垂らし、2本の宝繒は耳の後ろから肩前に垂下している。
麦積山37窟右脇侍菩薩像 隋代 『中国石窟 天水麦積山』より

14窟 東崖区中部で西側に15窟があり、どちらも隋代。
窟高3.41m 幅3.70m 残る奥行2.18m

主尊
『中国石窟芸術』は、正壁龕 高さ2.08m 幅1.59m、奥行0.63m 尖拱龕楣の右に渦巻状の楣尾が残る。龕柱も壊れてるが、蓮華の柱頭に宝珠がある。  
龕内は方形の高い台座のうえに如来が結跏趺坐する。その高さは1.19m。低い肉髻。中は僧祇支、外には袈裟を着け 衣文は写実的で襞の稜線が盛り上がるという。
猫背気味の如来の着衣は腹部の表現がやや不明だが、左腕などは稜が盛り上がりがはっきりしている。
両脇侍菩薩は、上半身は両肩に帔帛をかけ、帔帛は下垂して腹部と脚部に2段に垂れる。裙は長く蓮台まで垂れているが、如来側の脚はやや膝を突き出す。
麦積山石窟14窟正壁一仏二菩薩像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁左脇侍菩薩像 像高1.62m
『中国石窟芸術』は、脇侍菩薩はやや腰を捻り、重心を後ろに置く。飄帯は右肩から斜めにおりて、左脚の膝下から再び上がり左腕にかかる。
台座にまで懸かる長い裙から膝が出ている。脚の下には大きな花弁の蓮台があるという。
着衣の襞が少なくなった。
力士は像高1.86m。明快で簡潔な造像で、体は左に湾曲し、勇猛さが窺える表現となっているという。
麦積山14窟正壁左脇侍菩薩及び力士像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

『天水麦積山』は、眉や目の間に控えめな笑みがあらわれているという。
中央から左右に分けた髪、低い髻、長い髪は帔帛を着た両肩にかかる。左耳にピアスの細い金属が残っている。
麦積山14窟正左壁脇侍菩薩像 隋 『中国石窟 天水麦積山』より

24窟 東崖区中部西側 平面は馬蹄形でヴォールト天井 窟高2.84m幅2.90m 奥行2.13m 
『中国石窟芸術』は、塑造の一仏二菩薩一弟子像と木彫の一弟子像が残る。造像は簡潔で写実的で洗練されている。当窟の像は着彩されていなかったという。

如来坐像及び一弟子像 像高:主尊1.63m 弟子1.55m
主尊は螺髪、眉と目は柔和で、首に三道が刻まれる。双領下垂式の大衣、内側に僧祇支、腰に束帯を結ぶ。衣文は写実的で稜状に盛り上がる。裳裾は台座に垂れる。
弟子は出家して一年経った外観で、首に道文を刻み、僧衣が右肩にかかるような着方をしている。左掌は向上心を表す。指は土が剥落して鉄線の骨組が露出している。

麦積山24窟如来及び弟子像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

両脇侍菩薩像 像高各1.64m
『天水麦積山』は、対称的な脇侍菩薩像の姿ではないが、写実的な作風であるという。
塑造なのに、帔帛が体から浮いている。隋代の超絶技巧と言えるかも🤗
麦積山24窟脇侍菩薩像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

135窟 三壁三龕 西魏開鑿 
『中国石窟芸術』は、隋代に正壁中間龕の両側を広げて龕を開いた。隋代に新たに開鑿した窟はなく、開かれている窟を大量に重修したという。

正壁東龕内主尊 像高1.16m
同書は、低い肉髻、丸みのある端正な顔、白毫、短い首、丸い肩。
すらりとした上半身に大衣を通肩に着け、禅定印を結ぶ。結跏趺坐して三弁の衣端は台座前を覆う。衣文は簡潔に、力強く刻むという。
胴長だが身を真っ直ぐに起こして瞑想する釈迦をよく表現している。
麦積山135窟正壁右龕内如来坐像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

如来倚像 135窟にあったが保存庫に収蔵されている
同書は、肉髻は低く、弓なりの眉、ふっくらした頰、切れ長の目は下を見、やや笑みを浮かべた口元で静かな表情。
僧祇支に袈裟をはおるが、衣文は少なく、写実的傾向が強いという。
麦積山135窟如来倚像 隋 『中国石窟芸術 麦積山』より

隋代の造像様式は、最初は北周時代のものを受け継ぐが、次第に写実的な表現になっていった。
現地では時間に追われて見学することになるが、書籍の図版をじっくりと見ていくと見えてくるものがある。
これまで隋代の仏像を写実的と感じたことがなかったので、新たな発見となった。


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社