『一遍聖絵展図録』は、一遍は、その生涯の大半を諸国の遊行に費やし、神社仏閣を参詣し、貴賎の間に念仏を勧進し、賦算を行い、道俗とともに踊り念仏をするなど布教に努めた。
『聖絵』12巻は、国宝清浄光寺本(歓喜光寺旧蔵、第7巻は東京国立博物館蔵)の第12巻末の奥書によって、正安元年(1299)一遍の十回忌に当り報恩謝徳のために制作されたもので、一遍の門弟で弟とされる歓喜光寺の開山となる聖戒(1261-1323)が詞書を編述起草し、法眼円伊が絵を描き、藤原経伊が外題を書いたことが知られる。
『聖絵』12巻は、阿弥陀如来の十二光四十八願にちなみ12巻48段にして詞書と絵とで描き表わした絹本著色の豪華な絵巻であるという。
四天王寺(摂津国)、聖徳太子墓(河内国)、当麻寺(大和国)と旅を続けた一遍たちが次に向かうのは石清水八幡宮
巻9-1
石清水八幡宮に参詣(山城国)
石清水八幡宮は、三川合流して淀川となる、桂川・宇治川・木津川が併流する南面の丘にある。
一遍一行は楼門から入って本殿前の幣殿・舞殿右側に坐っている。
巻9-2
淀のうへの(山城国)
「うへの」は上野ではなく植野。石清水八幡宮から三川を渡ってほぼ北の方角。現在も向日市に上植野という地名が残っている。
郊外で踊り念仏を行う一行と、見物に来た人、向かう人、干し物をする人などが描かれている。
巻9-3
四天王寺にて歳末別時念仏 如一上人の往生と荼毘(摂津国)
四天王寺は巻2、巻8でも描かれているが、それぞれに伽藍を異なる方向から捉えていて、その特徴的な伽藍配置で四天王寺であることを知る。
この場面では踊り念仏を終えた一行が、伽藍のほとんどが雲に覆われる四天王寺の南門から入っていくことを描いているのだろう。
巻9-4
印南野教信寺に参詣(播磨国)
巻9-5
書写山円教寺(播磨国)
wikipediaは、書写山の山上にあり、康保3年(966)、性空の創建と伝えられるという。
標高300mほどの文字通り書写山にあるが、こんなに山深い印象はない。
尚、以前10世紀(平安時代中期)の仏像があるということで出かけた弥勒寺は、この円教寺の奥の院だったところ。
この建物は摩尼殿で、当時も懸造だった様子が描かれている。
wikipediaの圓教寺によると、摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇による(「摩尼」(mani) は梵語で「如意」の意)。 入母屋造、本瓦葺。懸造 (かけづくり、舞台造)の仏堂である。旧堂が1921年(大正10)12月に焼失した後、再建に着手され、1933年(昭和8)に落慶したものである。近代の再建ではあるが、伝統様式による木造建築。内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、増長天、如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置する。いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉するという。
中途半端な写真ですが、現在の外観。
巻10-1
軽部の宿 教願の往生(備中国)
現在の岡山県総社市
田植えしたばかりの田、シラサギが雁行して飛んでいく。コサギなら足袋を履いたように黄色い足だが、黒いのでチュウサギかダイサギ。
この絵巻は自然描写が美しいが、山岳などの景色だけでなく、鳥が飛んでいく様子も各所に描かれている。
巻10-2
一宮に参詣 秦王破陣楽が奏される(備後国)
広島県福山市の吉備津神社。
巻10-3
厳島大社に参詣 (安芸国)
厳島神社と背後の弥山が描かれる。
wikipediaの厳島神社は、『一遍上人絵伝』に描かれる厳島神社の風景は弘安10年(1287)の臨時祭の時のもので、現存社殿が整備された仁治2年(1241)より後の情景ということになるが、絵巻に描かれている社殿の様子は現存する社殿とは大きく異なっているという。
建物を精密に描いたものではなく、省略もあるだろう。
妓汝の舞が奏される
朱塗りの社殿が険しい峰に食い込むように描かれるのも絵画ならでは。
回廊に一遍一行や宮司などが坐り、くつろいで舞を鑑賞している。
それ以外にも見物人が描かれ、一角で楽人たちが演奏している。
水面には穏やかな波が丁寧に描かれる。
大鳥居近くには、舞を見ようとやって来た人々の舟も描かれる。
巻10-4
大山祇神社に参詣 長観に夢告(伊予国)
愛媛県今治市の山中にある神社。
緑と青に彩色された岩峰と手前の樹木に覆われた低山
巻11
善通寺・曼荼羅を巡礼(讃岐国)
大島の里にて発病(阿波国)
この図には説明はないが、おそらく阿波の港から淡路島南端の福良港へと出発する場面。
一遍は先頭の舟で合掌している。病をおしての舟旅は大変だっただろう。
福良の泊を経て二宮参詣(淡路国)
無事福良に着いて、
最後となる踊り念仏を行う。
巻11-2
志筑天神に参詣(淡路国)
巻11-3
明石浦より兵庫の島の観音堂へ(播磨国)
明石浦に到着
兵庫の島の観音堂へと向かう。
巻11-4
観音堂にて法談 聖戒が記録する 一遍、他阿真教の患いを労る(播磨国)
巻12-1
観音堂にて紫雲たつ 臨終近づく(播磨国)
巻12-2
西宮の神主に十念を預ける
淡路殿に最後の賦算をおこなう
巻12-3
8月23日 辰の始、往生
海に身を投げる者7名
臨終の場面
巻12-4
観音堂の前の松の下に荼毘され在家の人々が墓所を立てる
この観音堂は、現在は島ではなく地続きの神戸市兵庫区にある西月山真光寺(時宗)として存続していて、境内の御廟所には五輪塔も。
祖父の時代は土饅頭のような墓だったが、13世紀末には五輪塔になった。
西月山真光寺の境内散策の御廟所画像では、各部が背の高い五輪塔で、昔ある人から「五輪塔は古いものは背が高い」と聞いたことがある。
wikipediaの真光寺は、遺体は敬慕する沙弥教信のように野に捨てて獣に施せとの一遍の遺言であったが、在地の人々の結縁により観音堂前の松の根元で荼毘に付し、廟を設けたという。
花崗岩製石造五輪塔 鎌倉時代後期-南北朝時代
高さ1.95m、阪神・淡路大震災で倒壊した時、中から骨灰が現れたという。
平成館の外に出ると、秋の特別展「流転100年、佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の案内の看板が。
遠い昔NHKの「絵巻切断・秘宝三十六歌仙の流転」という番組で、大正8年に36枚に切断され、1枚ずつ売りに出された佐竹本三十六歌仙絵巻が、当時どの人が持っているかを追った番組を見た(NHKアーカイブスによると1983年制作)。
1983年には全ての所有者が判明したのに、その後の調査で、もう所有者不明の歌仙絵が複数あることを知った。
それが再び揃って、今秋見ることができるとは。是非行かなければ!
通り過ぎると、その表側が賑やかな「国宝一遍聖絵と時宗の名宝展」の看板だった。
一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻5-8← →一遍聖絵と時宗の名宝展 二河白道図
関連項目
一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻1-4
弥勒寺の弥勒仏三尊像は10世紀
参考サイト
wikipediaの圓教寺
西月山真光寺の境内散策
wikipediaの真光寺
参考文献
「国宝一遍聖絵と時宗の名宝展図録」 2019年 京都国立博物館