ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/06/17
太子町斑鳩寺の飛鳥仏風仏像の手本は
斑鳩寺の歴史について同寺リーフレットは、推古14年(606年)聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(今の橘寺)において、推古天皇の御前で勝鬘経を講説されたところ、大変喜ばれ播磨国揖保郡の水田100町を聖徳太子に寄進されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられました。それが斑鳩寺の始まりです。
その後、斑鳩荘を法隆寺に施入されたことにより、法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。しかし、天文10年(1541)火災で堂塔伽藍全て焼失しましたが、当山中興)昌仙法師等により漸次再建され、現在の伽藍となりましたという。
その講堂には、丈六の坐像が3体安置されていた。
「見仏記」では、風が吹いて扉が微かに開いたくらいの隙間からそれぞれの厨子に安置された仏像をのぞいていたが、この日はしっかりと扉は開かれ、巨大な像がそれぞれの厨子いっぱいに座していた。
番組で住職が、「飛鳥時代の仏像を鎌倉か室町あたりに手本にして制作した仏像です」と言っていたが、まさに飛鳥仏の面影のある巨大な像が目の前にあった。
リーフレットは、講堂に本尊として、中央に釈迦如来像、右に薬師如来像、左に観世音菩薩像が安置されています。いずれも丈六の坐像、国指定重要文化財、鎌倉時代という。
しかしながら、リーフレットや絵葉書では、残念ながらその迫力も飛鳥仏風の雰囲気も伝わってこない。
釈迦如来坐像
薬師如来坐像
如意輪観音坐像
半跏思惟というよりも、如意輪観音らしく遊戯座(ゆげざ)に座している。
では、鎌倉時代の仏師は、飛鳥時代のどの仏像を手本としたのだろう。
飛鳥仏といえば、なんといっても飛鳥寺の大仏である。
丈六釈迦如来坐像 推古14年(606)または17年(609) 飛鳥寺
『法隆寺日本美術の黎明展図録』は、わが国で最初の本格的寺院は蘇我馬子によって造営された飛鳥寺で、鞍作止利によって鋳造された丈六釈迦如来像が安置された。本像は現存するものの火災のため補修が多く原様を正しく留めているとは言い難いという。
しかし、新しいX線による調査で、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いとされるようになった(2012年、早稲田大学大橋一章教授らによる)。
目が杏仁形であるのが特徴だが、斑鳩寺の仏像は半眼で似ていない。
絵葉書の仏像は着衣も似ているようには見えないが、もう少し彫りが深いように見えた。
実物は飛鳥の雰囲気は残っていたように感じたのだが。
釈迦三尊像うち主尊 推古31年(623) 法隆寺金堂
同書は、中尊釈迦如来像は台座に懸裳を垂す二等辺三角形の中に納まる姿で、衣の襞は 左右相称形に近く畳み込まれる。その様式は北魏末から東西魏の仏像を基本としそれが朝鮮半島を経由してわが国に伝わったものであるが大陸・半島の直模では なく、日本独自の審美感が加味されていることは注目すべきであろうという。
同じ止利仏師の作だが、こちらの方が似ていない。
法隆寺夢殿の救世観音立像とも違う。
飛鳥仏ではなく、白鳳時代の仏像では?
伝虚空蔵菩薩立像 白鳳時代、7世紀 木造 像高175.4㎝ 奈良、法輪寺蔵
『白鳳展図録』は、江戸時代以降、虚空蔵菩薩像として信仰されてきたが、百済観音像が宝冠に化仏を戴くこ とから観音像と特定できるので、本像もまた観音像として造られたかと推定される。
像の作風には、飛鳥時代前期(7世紀前半)の主流様式であった止利派のそれが残るも のの、体側を垂下する天衣が面を側方に向けることや、また身体の正面にわたる天衣が上下に分かれる点は、百済観音像や救世観音像において天衣がX字状に交 差し、厳格な左右対称性を示すのと明らかに異なり、様式的に一歩進んだ様を呈しているという。
細長い顔だが、造作は似ているような。
薬師如来坐像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造彩色 法輪寺
螺髪の生え際が一直線になっているところなどが似ているし、鼻から口にかけてよく似ている。
この斑鳩寺には誕生仏の良いのがあるのではなかったかな。ひょっとすると、その誕生仏の顔に似せて造られていたのかも。あるいは、製作当時、その仏師が見に行ける範囲で、飛鳥仏が残っていたのかも。
→太子町斑鳩寺で秘仏を見る
関連項目
白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
※参考文献
斑鳩寺リーフレット・絵葉書 太子町斑鳩寺発行
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「法隆寺」 編集小学館 2006年 法隆寺
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館