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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/06/14

太子町斑鳩寺で秘仏を見る


『見仏記』という番組で、姫路市の弥勒寺や円教寺と同じ時に放送されたお寺に、太子町の斑鳩寺がある。その番組では、住職が秘仏を「飛鳥時代の仏像風に鎌倉時代に造られたというようなことを言いながら、風が吹いたといって少し厨子の扉を開いて見せた。各扉の向こうには巨大な如来坐像が3体、なんとも言えない顔をのぞかせていた。
飛鳥仏と言えば私の好みの仏像である。開帳は2月22・23日のみということだったので、23日に行ってきた。

斑鳩寺の歴史
同寺リーフレットは、推古14年(606年)聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(今の橘寺)において、推古天皇の御前で勝鬘経を講説されたところ、大変喜ばれ播磨国揖保郡の水田100町を聖徳太子に寄進されました。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てられました。それが斑鳩寺の始まりです。
その後、斑鳩荘を法隆寺に施入されたことにより、法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えました。しかし、天文10年(1541)火災で堂塔伽藍全て焼失しましたが、当山中興昌仙法師等により漸次再建され、現在の伽藍となりましたという。

その日は参道には出店が所狭しと出ていた。2月22・23日は「太子春会式」という行事だったのだ。22日が聖徳太子の祥月命日なのだそう。
16世紀半ば以降の再建ということで、仁王さんはあまり迫力がない。
門を入ってもお店が並んでいて、どこが講堂かわからないくらい。とりあえず直進する。

門の正面にあって、屋根だけ見えていたのが講堂だった。果たして3体の秘仏はどの程度見られるのだろうか。「見仏記」では、講堂の格子の外から垣間見て、「御開帳の時もこんな風にしてみるのではないか」などと言っていたのだが。
石段を登り詰めても大きな賽銭箱が阻んでその格子にも近寄れなかった。世話役のような人たちが複数いたので、秘仏について聞いてみた。すると、秘仏を見るには聖徳殿から入って下さいと言われた。

聖徳殿?よくわからないままに講堂の左手にある建物で尋ねると、そこから靴を脱いであがるように言われた(勿論有料)。聖徳殿前殿という建物らしい。建物の中廊下をぐるりと巡って、ほぼコの字に進んだところで、左側に出た。
縁側の向こうに渡り廊下が付いていた。スリッパを借りられる。この装置が何のためなのか、不思議に思いながら、秘仏見たさに進んでいく。
振り返ると聖徳殿の前殿と奥殿が見えて、先ほどの不思議な空間が少し分かったような気がした。
向こうに見える八角形の建物は聖徳殿奥殿というらしい。
同寺リーフレットは、聖徳太子十六歳孝養像を安置する伽藍。江戸時代の寛文5年(1665)に再築。また明治43年から、大正5年にかけて従来の太子堂に、法隆寺夢殿(八角円堂)・中殿が増築されましたという。
奥壁と思ったものが、奥行があるように見えたのは、この奥殿だったのだ。

講堂へ。
やっと到着。
スリッパを脱いで、講堂の奥から入ると、続く部屋に厨子が3つ並んでいた。

「見仏記」では、風が吹いて扉が微かに開いたくらいの隙間からそれぞれの厨子に安置された仏像をのぞいていたが、この日はしっかりと扉は開かれ、巨大な像がそれぞれの厨子いっぱいに座していた。
番組で住職が、「飛鳥時代の仏像を鎌倉か室町あたりに手本にして制作した仏像です」と言っていたが、まさに飛鳥仏の面影のある巨大な像が目の前にあった。それぞれの正面からじっくりと拝見したが、一体一体が大きすぎて、全体として捉えられない。
もう少し離れて、礼盤の後ろに立って、やっと三体を見渡すことができた。
リーフレットは、講堂に本尊として、中央に釈迦如来像、右に薬師如来像、左に観世音菩薩像が安置されています。いずれも丈六の坐像、国指定重要文化財、鎌倉時代という。


釈迦如来坐像
薬師如来坐像
如意輪観音坐像
半跏思惟というよりも、如意輪観音らしく遊戯座(ゆうげざ)に座している。
唐招提寺金堂も盧舎那仏・薬師如来・千手観音と不思議な組み合わせだが、斑鳩寺講堂の三尊も釈迦・薬師・如意輪観音。おそらく、1541年の火災で焼失した別々のお堂から救い出した3体を講堂にまとめたのだろう。

秘仏を拝見した後は、講堂の前側から退場した。
寺宝が納められている聖宝殿へ向かっていると、先ほど渡った廊下の下をくぐることとなり、聖徳殿前殿の側面には釈迦涅槃図が掛けられていた。

聖徳太子の命日ということで掛けられているのだろう。
図の右下に、寛政5年、尾形公良とある。1753年に作成されたものらしいが、画家については調べてもわからなかった。
午後からの春会式で、お稚児さんたちが渡り廊下を通っているのを、当日のニュースで見た。

聖宝殿には木彫の仏像などが納められていた。
日光月光菩薩立像 鎌倉時代
小さな像だが、鎌倉仏らしい均整のとれた造形である。他にも十二神将像など、鎌倉時代のものが数体残っていた。

三重塔は南門の右側にある。法隆寺が左に五重塔、右に金堂という伽藍配置だが、それにはこだわらなかったようだ。

三重塔 室町時代
同寺リーフレットは、斑鳩寺伽藍のうち最古の建造物。永禄8年(1565)に再建。輪柱に聖徳太子伝来の仏舎利が蔵められ、露盤には永禄5年に龍野城主赤松下野守政秀が天下泰平を祈願して発願したという銘文が刻まれています。三重ですが五重を思わせる均斉のとれた壮麗な姿で、西播磨地方に残る古建築のうち最初の国指定重要文化財ですという。
なるほど形のよい塔である。

                     →太子町斑鳩寺の飛鳥仏風仏像の手本


※参考文献
斑鳩寺リーフレット・絵葉書 太子町斑鳩寺発行