ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/11/18
第66回正倉院展1 正倉を見に行く
約100年ぶりの正倉院の修復が終わったということで、正倉院展の見学後久々に正倉を見にいった。
正倉院展の会場である奈良国立博物館新館から正倉院までは、右回りで東大寺の参道を経由するのが一般的な行き方だろうが、依水園にも寄ってみたかったので、左回りで向かった。
369号線の一つ東の道は狭いが、両側に塀のある雰囲気の良い通りだった。
短い通りを抜けて右へ折れると、左に依水園、右に吉城園の門が見えてくる。
依水園については後日。
依水園の続きの塀にこんな門が。
そのまま直進すると石段と門に突き当たる。これが戒壇堂。戒壇院と思っていたら戒壇堂だった。
戒壇堂についてはこちら
戒壇堂の右にある塀は土と瓦が交互に重なっていた。
敷地内には校倉造の倉があったので、これが聖語蔵かな。
塀は長々と続いていて、その先には大仏殿がどっしりと建っていた。
左手の塀に沿って回ると門があり、表札には勧進所と書かれている。修復作業を行っているためか、拝観はしていなかった。
『古寺をゆく5東大寺』は、大仏殿は三好三人衆と松永久秀の合戦の兵火で焼失し、大仏も露坐のままであった。公慶は復興の志を固め、1684年(貞享1)大仏殿再建の勧進を始めた。
公慶は、幕府より勧進の許可を得ると、鎌倉時代の勧進聖で東大寺復興の立役者・重源がかつて住したという地に勧進所(龍松院)を設けて、勧進活動を本格的に始めた。
1692年(元禄5)には大仏の修補を完成、開眼供養を行った。
さらに1694年(元禄7)、江戸に行き、幕府から諸国勧進の便宜を与えられ、諸大名の寄進などもあって、1705年(宝永2)に大仏殿の上棟式を挙げたが、落慶を見ることなく、同年江戸で没したという。
あの重源さんや公慶上人にゆかりのある所なら、正面から写しておけばよかった。
重源についてはこちら
これだけ勧進しても費用は足りず、奈良創建時、鎌倉再建時のような横長の建物を作ることが出来なかったので、大仏殿は今見るようなずんぐりした姿になったと聞いたことがある。
『古寺をゆく5東大寺』は、鎌倉時代の再建では、建築様式こそ大仏様に変わったものの、規模は創建時をほぼ踏襲している。
江戸時代の再建(現在の大仏殿)では巨大材木の調達がむずかしかったことや経済的な行きづまりなどから、木を接ぎたすなどの工夫をしたものの、やむなく規模を縮小せざるをえなかった。高さと奥行は、それでも同規模で再建できたが、11間で86mあった正面は7間で57mとなった。二層のように見えるが、高い天井の一重の建築で、裳階が下の屋根を形作っているという。
上空から見た東大寺境内(左下が北)
大仏殿を見学した人たちが北に向かうのを眺めながら、1本西の目立たない道を通る。といっても、こちらもそこそこ人は通って行く。
車も通る道路に出て、左前方に池を確認、これが大仏池か。ここも紅葉がきれい。奈良は紅葉が早いらしい。
正倉院へは池と反対方向へ。
下部が埋もれた道しるべのところで左に折れると、
若い木が多いが、銀杏並木が黄葉真っ盛り。
銀杏の下の枝辺りに見えている白く長いものが正倉院の塀。
道の先には正倉院の正門があり、向こうに見えているのが巨大な正倉。この道を通ってきたのが正解かも。
その拡大
その塀の前を東進していると、広大な空間の向こう、銀杏の大木ともみじの間に大仏殿の屋根がのぞいていた。
あれか、屋根の世話をするために出入口があると聞いていたものは。北屋根にあったのか。
この間の敷地には講堂があったらしい。
やがて大仏殿からきた人たちと合流したところに正倉への通路があり、東宝庫を見上げながら、やはり白塀の脇の通路を歩いて行った。
正倉院の由来について正倉院のリーフレットは、奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には、重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一郭が正倉院と呼ばれたのです。しかし、あちこちに置かれた正倉は、歳月の経過とともにいつしか亡んでしまい、わずかに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残ったのです。これがすなわち正倉院宝庫ですという。
正倉院や正倉ということばは、当時は普通名詞だったのだ。
8世紀の中頃、奈良時代の天平勝宝八歳(756)6月21日、聖武天皇の七七忌の忌日にあたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して、御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後五回に及び、その品々は同寺の正倉(正倉院宝庫)に収蔵して、永く保存されることとなりました。これが正倉院宝物の起りです。そして、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の天暦4年(950)に、東大寺羂索院の倉庫から正倉に移された什器などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は、このようにいくつかの系統より成り立っているのですという。
あまりにも大きな建物なので、門を入ると全体がレンズに収まりきらないと思い、また行き来する人々をできるだけ避けて、池の前から写しておく。
上空からの写真では、この池は真ん丸。防火用に掘られたのかな。
正倉 天平宝字3年(759)までに建立 間口約33m、奥行9.4m、床下約2.7m、総高約14m 檜造り、単層、寄棟本瓦葺き、高床式
文献に見える記事から、おそくとも天平宝字3年3月以前に出来上がっていたことは確実とされてきましたという。
門をはいると正倉はテレビで見るよりも近くにあった。しかし、写真に写すと、人のいる位置と正倉までの距離が長く見えてしまう。やはり画面には収まらなかった。
前回正倉を見たのは、小学校の修学旅行の時だったので、50年近く前のことになる。その頃はもっと近くまで近寄れたように思う。ひょっとすると倉の下まで入り込めて、柱の間を通れたのでは・・・ もはや記憶があやふやである。
倉は三倉に仕切られ、北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれています。北倉と南倉は、大きな三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉造りで、中倉は、北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。また各倉とも東側の中央に入口があり、内部は二階造りになっています。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で、その開扉には勅許(天皇の許可)を必要としたので勅封倉と呼ばれ、室町時代以後は天皇親署の御封が施されました。中倉・南倉はそれ以外の東大寺に関わる品々を納めた倉で、中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ、南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されましたという。
3つの倉はほぼ同じ大きさだった。
校倉といえばこの角の部分が一番印象的。倉の2面が見える角度から眺めたかった。
宝庫が校倉と板倉とを一棟にまとめた特異な構造であるため、はたして創建の当初から現在のような形であったのか、あるいは中倉は後に継ぎ足されたものではなかったかということが専門家のあいだで議論されてきましたが、近年では、使用されている建築材の科学調査(年輪年代法)によって、宝物献納と相前後する時期に、最初から現在みるような姿で建築されたと見る説が有力となっていますという。
私も、北倉と南倉がまず造られ、どちらも一杯になったので、その間の空間を板で囲って中倉にしたのだと思っていた一人だが、確かに、2つの倉に収まらなくなるまで中央部を壁のない吹きさらしにしておくのも、倉全体の外観から考えても、不自然だ。
中倉だけ板壁にしたのは、あまりにも長い建物なので、全て三角材にするよりも、中央を平板にした方が引き締まって見えると考えたのかも。
床下には直径約60㎝の丸柱が自然石の礎石の上にどっしりと立ち並んで、巨大な本屋を支えています。その豪壮な構えと端正な姿は、まことに奈良時代第一の大寺である東大寺の正倉、わけても国家的宝物を安置する宝庫にふさわしいものですという。
なんとなく礎石が不揃いな程度には見えた。ズームして撮ると礎石が伽藍石のように整っていないことがよくわかる。礎石は穴だらけ、雨もあまりかからない場所なのに、まさか風化でこうなってしまったということもないだろう。
正倉院宝物が現在もなお極めて良好な状態で、しかも多数のものがまとまって残されているのは、一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく、手厚く保護されてきたことに負うところが大きいのです。また建築の上からみると、宝庫がやや小高い場所に、巨大な檜材を用いて建てられ、床下の高い高床式の構造であることが、宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったものと思われます。その上、宝物はこの庫内で辛櫃に納めて伝来されましたが、このことは櫃内の湿度の高低差を緩和し、外光や汚染外気を遮断するなど、宝物の保存に大きな役目を果たしたのですという。
正倉院と言えばまず宝物が、次に外観の校倉造がよく知られているが、リーフレットには内部を紹介する写真もある。
それぞれの倉は二階建てということなので、手すりはさておき、階段はあったのだろう。しかし、ガラスの入った戸棚がどのような経緯で正倉にあるのかという説明がない。この写真を見て奇妙に思う人もいるのではないだろうか。
関西のABC朝日放送では、毎年文化の日に正倉院展にちなんだ番組を放映している。NHKの『日曜美術館』とはまた違った角度から正倉院宝物や正倉院を紹介していて、毎年楽しみだ。2009年の『宝庫のすべて』では正倉の内部や、このようなガラスケースを置いた町田久成という人物についてのものだった。
番組によると、町田は明治初頭に正倉院宝物を正倉院の中で一般公開しようとした政府高官で、当時は日本では作ることのできなかった、歪みのない厚さ3㎜のドイツ製板ガラスと、節目のないヒノキの板を使って陳列ケースを作ったらしい。そのケースは今でも残って収蔵に使われているが、町田の「見果てぬ夢の名残」なのだそうだ。
西宝庫と東宝庫
正倉の西南と東南に建っている宝庫で、西宝庫は昭和37年(1962)に、東宝庫は昭和28年(1953)に建築されました。ともに鉄筋コンクリート造りで、現在は空気調和装置が完備されています。西宝庫は、正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、毎年秋季に開封され、宝物の点検、調査などが行われます。東宝庫には現在、染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納されていますという。
南倉の向こうに見えるのが西宝庫
正倉院の外から見えるのが東宝庫
聖語蔵(しょうごぞう)
もと東大寺の塔頭尊勝院の経蔵として建てられた校倉で、もとは転害門内にありましたが、明治年間、経典類が皇室に献納されたのにともなって、東宝庫の前方の現位置に移築されたものです。経典類は、中国の隋経・唐経をはじめ、奈良、平安、鎌倉時代の古写経その他の約五千巻で、今は東宝庫に収納されていますという。
戒壇堂の隣の勧進所にあった校倉造の倉は聖語蔵ではなかった。
小さな小さな校倉造の建物。その手前に池があり、樹木が植わっているので、どこかの庭園で、池の向こうの茶室を眺めているよう。
これくらいズームして、やっと校倉造の倉とわかる。
正倉の修復の様子をまとめた冊子が販売されているかと期待していたが、塀の外に写真パネルが4枚組が2つあるだけだった。
工事前
24年度 工事 小屋組構造
25年2月 小屋組補強
25年2月 小屋組補強
内部はかなり金属の補強具が使われているのだった。
もう一つのパネルは屋根の修復状況だった。
南西隅部 瓦座を残し、屋根瓦撤去完了
北西隅部 軒平瓦葺が完了し、平瓦の荷揚を行っている
南西隅部 左:西面は新規瓦 右:南面は再用瓦で葺上げ
そして天平創建時の瓦も展示されていた。
帰りは同じ道を引き返して転害門を見損ねたので、般若寺を拝観した帰りに走る車の中から撮影。やっぱり切れていた。
転害門(てがいもん) 切妻造 本瓦葺 八脚門(やつあしもん) 奈良時代 国宝
『古寺をゆく5東大寺』は、東大寺西面大垣の北端、一条南大路に向かって開かれた堂々たる門。762年(天平宝字6)ごろの造営と考えられ、創建当初の伽藍建築を想像できる唯一の建物である。東大寺の鎮守手向山八幡宮での転害会(てがいえ)がここを御旅所としたことから、その名がある。
石造の基壇上に立つ3間一戸の八脚門で、左右にゆるやかな勾配で長く伸びる切妻造りの屋根の形などに、天平建築の風格を漂わせている。門の内部は、正面中の間だけ天井板の無い組入(くみいれ)天井で、これは手向山八幡宮の神輿をこの下に据えたためであるという。
神輿って奈良時代からあったのか。次回は内側から見てみよう。
第65回正倉院展7 花角の鹿← →第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図
関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像
第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある
第66回正倉院展4 鳥毛立女の体型
第66回正倉院展5 鳥毛立女屏風に描かれた岩
参考にしたもの
「宝庫のすべて」 2009年11月3日放送 ABC朝日放送
※参考文献
正倉院展のリーフレット
「古寺をゆく5 東大寺」 2010年 小学館