お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/08/29

蓮華座4 韓半島三国時代


飛鳥時代の仏像が韓半島三国時代の様式だとすれば、蓮華座も同地の仏像に見られるだろう。
『小金銅仏の魅力』は、ほぼ同時代に並存した高句麗・百済・新羅により成る三国時代の仏像は、気候と風土によって各々 異なる地域的様式を見せている。しかし、いずれも同じ文化的基盤の上に立ち、中国の北魏・東・西魏・北斉・北周の作風を取り入れて発達したので、三国の様式的特徴は一つの傾向をしめすものであって、固定的ではない。
例えば、三国時代の仏像は、いずれも痩せ型で、顔が面長で、唇には古式の微笑を浮かべた像が多い。また、側面から見ると体軀が扁平で、体にまとった衣の襞は、左右対称的に彫りだされている場合が多いという。

高句麗
同書は、427年に都を満州の通溝から平壌に移したが、それより以前の小獣林王2年(372)に仏教が公認された。この年、中国・五胡十六国の内の前秦王符堅から西域僧の順道と仏像・経文(即ち仏・法・僧の三宝)が送られたのである。これにより通溝には4世紀の末までに仏寺が次々と建てられ、5世紀前半からの古墳の壁画に仏教的要素が見え始めるという。

菩薩半跏像 銅造鍍金 高句麗(6世紀後半) 通高83.2㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』で姜氏は、この像は、宝冠に日輪と三日月が結合した特異な形式を示している。正面から見ると、弾力性のある身体の曲線が大きく強調され、正面では腰部を細くするものの、過大な頭部と下半身を弾力性をもって連結させている。天衣は両肩と台座下部で鋭利に反転しており、身体の流れに沿ってしなやかに密着している。
また、両膝の褶(ひだ)と背面の椅子覆いは、それぞれS字形とU字形によって変化を出している。制作地に関しては、百済、新羅などさまざまな説があるが、身体と天衣の力に満ちた勢いは、高句麗古墳壁画、とくに四神図に見られる激しい動勢と類似し、筆者は高句麗仏と考えている
という。

左足を置く蓮台は単弁の反花となっている。長い裳裾の下には蓮弁が見えない。
本像の新しい記事はこちら

百済
『小金銅仏の魅力』は、百済の初めての都であった漢江下流地域は、既に定着していた中国郡県と隣接していたため、早くから特に楽浪郡から強力な影響を受けていた。この漢城(現ソウル)の時代、枕流王元年(384)に、東晋から来た胡僧の摩羅難陀によって仏教が伝えられた。476年に漢城から能津(現公州)へ、538年に首都を泗沘(現扶余)に移し、国号を南扶余とした。この公州と扶余の時代、6世紀初から、中国南朝の梁と密接な関係を持ち、新たな国際秩序を形成していた。その影響を受けて仏教が大きく流行した。即ち、北魏-高句麗の影響と楽浪の影響、更に南朝の梁の影響などにより多方面で複合的な文化を受容し、それが新羅と日本に伝播されたのである。即ち、扶余遷都の年(552)年に日本へ仏教を伝え、541年には梁にも毛詩博士・仏書・工匠・書師を請い、577年には日本に律師・造仏工・造寺工などを造っているという。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 通高93.5㎝ 金銅 ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、弾力ある童顔のモデリング、子どものようなかわいい手、平らな胸、細い腰をした少年の姿。
金銅造と木造との違いはあるが、京都、広隆寺の像との類似が指摘されている。三山冠をつけていること、胸と腰の処理、膝および裙衣の処理、倚坐の両横に垂れる装身具は同じである。しかし、広隆寺の像は童顔ではなく青年の顔であり、顔も明るい微笑ではなく、深い瞑想にふけり、全体の雰囲気も静的であるという。
榻座は小さく、長い裳裾が床まで懸かっている。反花は見えないが、左足が小さな蓮華座にのる。反花は複弁で、蓮台は前側が低く、後ろ側が高くつくられており、その上、裳裾に触れる箇所は蓮弁が翻っている。
広隆寺の半跏思惟像は、百済の菩薩半跏像によく似ているが、大きく異なっているのはこの蓮華座の有無である。

新羅
『小金銅仏の魅力』は、高句麗と百済は王室において仏教を早くから受け入れた後に、民衆の間に徐々に拡大したが、新羅では、民衆の間に仏教が広く伝播した後に、その勢いに追されて王室が仏教を公認することになった。それが法興15年(528)であるという。

思惟半跏像 銅造鍍金 新羅(7世紀)  通高17.1㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、この像は、高句麗や百済の思惟半跏像に比べて変形・図式化されている。右側の膝を下から力強く押し上げねばならない。衣端も平凡で、天衣の衣襞も図式化・単純化されている。身体のモデリングも弱く、上体は偏平で、腕もパイプのようで、身体細部の変化もなく、全体的に古拙さが感じられる。顔と上半身を大きく倒した姿勢、図式化した様式など、新羅的特徴をもっともよく示している作例であるという。

上図では裳裾が床まで垂れているが、この像は榻座と左足をおく蓮台の下部が一体でつくられているが、どこにも蓮弁の痕跡がない。

韓半島三国時代には、これらの他の半跏像にも、左足を置く小さな蓮台だけで、蓮華座ははなかったのだろうか。

法隆寺献納金銅仏158号 三国時代(7世紀) 20.3㎝
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、右手第一指を掌の一部と共に別鋳鋲留とするほか、台座を含む略全容を一鋳とし、鮮やかな鍍金が前面に施されている。宝冠、垂髪、裳なども大胆に意匠化され、全体に平明簡素な印象を与え、半跏思惟像中異色の作風を示している。朝鮮三国時代に制作されたものであろう。この様な作品が手本となって、わが国の飛鳥彫刻が制作されたと考えられる貴重な作例であるという。
別鋳あるいは木製か何かの蓮華座があったのだろうか、この像自体には蓮弁は見当たらない。
右側面から見ると、裳懸座の前面は直線的だが、背後は丸みを帯びている。
背面は半円形で、榻座という丸椅子に掛けた布の表現も、下側は前面同様二段の規則的な折り返し、その上は彫りの深い波状の線となっている。

蓮華座のある菩薩半跏像を見付けた。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 高さ11.0㎝ 銅造鍍金 伝忠清南道公州寺址石塔内発見 東京国立考古博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、公州はかつて熊津といい、475年から538年まで、三国時代の百済の都であった。伝えが確かであれぱ、百済の王都周辺の寺院に安置された由緒正しい作品ということになるという。
蓮華座は高さはないが、足を置く蓮台ともに大きな素弁の受花である。法隆寺献納金銅仏でいうと、150号如来立像(7世紀)の高い蓮台の素弁と雰囲気が似ている。

立像の蓮華座は、

高句麗
如来立像 延嘉7年(539) 総高16.2㎝ ソウル、韓国中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、韓半島の最古の仏像。平壌に遷都してから100年余の延嘉7年の銘を光背裏に刻む北魏式の金銅如来立像である。舟形の火焰光背と高い框を持つ蓮台ともに全体が一鋳で、蓮肉部も高い。螺髪は賽目に刻み、面長な顔で、胸前を広く開けた中国式通肩の厚手の大衣の端を左腕にかけている。大衣は体側で魚鰭状を成しているという。

素弁の反花のみ。
高い蓮肉といい、その上に乗った如来の足といい、法隆寺金堂釈迦三尊像脇侍のものとよく似ている。反花は框へとかなりの斜度で反り返っている。この点が同釈迦三尊像脇侍の蓮華座と異なる点だ。

百済
菩薩立像 6世紀中葉 通高11.2㎝ 忠清南道扶余郡軍守里廃寺木塔址出土 ソウル、国立中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、頭に大きな三花(さんか)と思われるものを乗せ、冠の太い飾帯を肩まで垂らし逆火頭形の頸飾をつけ、顔は方形に近い丸顔に目鼻を明確に表し、交叉する天衣も太く明瞭で左手はこれまでと異なってハート形の宝器を下げる。体軀は短めで、両足は伏蓮三段重ねの蓮台にしっかりと立っているという。
持物や頸飾は、北魏時代から見られるものだ。顔は東魏風かなとも思ったが、少し異なる。
素弁の反花が三段にもわたって表現されるのは珍しい。段数は少ないが、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に数体表された化仏の蓮華座は、この蓮台に一番近いかな。 

新羅
金銅薬師如来立像 6世紀後半-7世紀初期 高さ12.8㎝ 大和文華館蔵
同書は、頭部に螺髪なし。後頭部に大きな枘あり。背面にも衣文を表す。全体に北魏様式を受けた四角張った像容で、腰をわずかに左に捻る。右手に薬壺のようなものを持つ。このようなタイプの像がこの時代に流行した。大らかな蓮台が時代の古さを示しているという。
蓮台はほぼ下降する、膨らみのない素弁の反花に覆われる。

高句麗
金銅一光三尊像 平原33年(571)「景4年在辛卯」銘像 高さ15.5㎝ 黄海道谷郡出土三 ソウル、個人蔵
同書は、両脇侍のみが光背と同鋳で、その両脇侍が東魏-北斉風に宙に浮いたように表される。大衣も古式の左右相称だが、衣端の張りは鈍く柔らかくなっているという。

如来は高い蓮肉の上に乗り、反花も、取りつけた蓮弁もない。おそらく別鋳の反花に差し込まれていたのだろう。
両脇侍の蓮華座は素弁の反花となっている。「宙に浮いた」ように作られているので、中尊と同じ蓮華座にはできなかったのかな。

百済
三尊仏立像 6世紀 金銅 鄭智遠銘 忠清南道扶余郡扶蘇山城出土 高さ8.5㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、延嘉7年銘像より多少柔らかくなり、装飾化が進んで細やかとなった像で、東魏・西魏、また北斉(550-77)・北周(557-581)初めの様式であり、中国との交流の重要な証拠となっているという。
蓮台は框に向かって広がり、蓮弁が上部に一段刻まれている。その下の半球形の大きな台は安定させるためのものだろうか。
脇侍の台座は不明。化仏は蕾のような蓮華座に坐している。

法隆寺献納金銅仏143号如来及び両脇侍立像 左脇侍蓮華座 7世紀 銅造鍍金 中尊28.1左脇侍20.9㎝
蓮肉が少し見え、すぐに下に大きな蓮弁を垂らす反花となっている。蓮弁は素弁で、その稜ははっきりしない。台座とは別鋳だったようだ。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、舟形光背と通称される大きな蓮弁形の光背の前に、如来及び両脇侍の三尊像が立つ、いわゆる一光三尊形式の作品。従来より、朝鮮半島三国時代、とりわけ百済との関わりにおいてとらえられることが多いという。
三尊像の台座下部が後補(『法隆寺献納金銅仏展図録』より)ということで、当初の蓮華座はどのようだったか分からない。中尊は高い蓮肉の上に立ち、両脇侍は半球状に膨らんだ素弁の反花の蓮華津に立つ。
光背には見える範囲で5体の化仏が取りつけられている。化仏はパルメットと共に茎で繋がっていて、その蓮華座は開きかけた蓮華のような形になっている。

法隆寺献納金銅仏にときどきみられる、着衣や蓮華座の縁に打たれた複連点文は、今回参考にした韓半島の6-7世紀の仏像にはなかった。

    蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子←  →蓮華座5 龍と蓮華

関連項目
蓮華座1 飛鳥時代
蓮華座2 法隆寺献納金銅仏
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考サイト
新羅時代の半跏思惟像

※参考文献
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「世界美術大全集10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館

「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版

2014/08/26

蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子



伝橘夫人念持仏は阿弥陀三尊像で、阿弥陀如来は蓮華座に結跏扶坐し、両脇侍は蓮華座に立っている。

『国宝法隆寺展図録』は、厨子は台脚付宣字形須弥座に、天蓋をもつ箱形龕(本尊を安置)を重ねる形式で、蓮弁のみを樟とするほかはすべて檜製。
現状の須弥座上框には八角柱を切り落としたとみられる木口面が残っており、当初は4本の八角柱で天蓋を支えていたと考えられるという。

阿弥陀三尊像 飛鳥時代(7-8世紀) 銅造鍍金 中尊高さ34.0㎝
『国宝法隆寺展図録』は、華やかな意匠を施す金銅製の後屛と台盤を備えている。白鳳期金銅仏の代表的な作例の一つで、阿弥陀浄土の光景を、当時の洗練された金属技法の粋を集めて表現している。
台座の蓮池から3本の蓮茎が立ち上がり、三尊はこの蓮華座上に表される。やや角張った面相、円筒形で抑揚のない頸部、右肩に立ち上がりを表す中尊の大衣表現などは7世紀後半に入る頃の法輪寺薬師如来像等に見られる古様を踏襲するが、肉身は丸みがあって柔らかく、蓮弁も薄く繊細に表すなど、随所に初唐様を踏まえた自然らしさを追求しているという。
波うつ蓮池の中から捻れた蓮茎が出て優美な蓮華を咲かせてる。初唐期の蓮華座というのはこういうものだったのか。
中尊の蓮華座は半球形で、4段にわたって複弁の蓮弁が蓮台を取り巻く。脇侍の蓮華座は満開前の形で、4段の単弁が花托を囲んでいる。
『日本の美術359蓮華紋』は、子葉にパルメットを置く単弁蓮華紋という。
確かに中尊蓮華座の子葉にはないパルメット文が、脇侍の蓮華座の子葉には見られる。当時はこの文様を何と呼んでいたのだろう。

後屛
同書は、中尊の光背頭光心には、花弁の先端に稜をもつ素弁八葉蓮華紋を置く。さらに、その後屛に居並ぶ天人の蓮華座は、狭長な単弁をもつ側視形蓮華紋であるという。
なかなか頭光の蓮華文までまとめられないのだが、この頭光の蓮弁は中程から稜が現れている。稜を鎬(しのぎ)と表現する研究者もいる。八重咲きの蓮華でも八葉でよいのかな。
天人たちも蓮台に乗るが、このような蓮華座を側視形蓮華紋というのか。
頭光の周囲の透彫も、傾きのある曲線とその重なった箇所の格子文が蓮弁の葉脈を表しているのだろうか、なんとも優美。その外周を、同じく透彫だが、全く異なった曲線を駆使した唐草文が巡る。
天人たちの蓮華座を支えるのは、やはり捻れた茎で、そこには数本の蛸足のような草が巻きついている。

蓮池
同書は、蓮池と後屛に浮彫で表現される波、蓮、菩薩、化仏なども流麗でのびのびとしており、古様と初唐様を兼ね備えた7世紀末から8世紀初めの白鳳彫像の完成された一境地を示しているという。
池なのに、波がたち、渦が巻いている。波もあちこちで向きを変えていて、画一的な波文とはなっていない。
そこから伸びた蓮茎はいずれも曲がっていて、葉の裏を見せるもの、横向きのもの。上から見下ろした葉を表したものには開いたものや内側に巻いたものなど、その表現はパターン化していない。
蓮葉には黒っぽい葉脈と白っぽい波線のようなものが見える。

厨子の天井内面
天井の格間の一つ一つには、蓮華文が描かれている。大きな子葉の輪郭が見えるので単弁、花弁の数はというと・・・、どう見ても5弁だ。
『日本の美術359蓮華紋』は単弁五葉蓮華紋とし、茨城下総結城廃寺塔心礎舎利穴石蓋(7世紀末-8世紀)に描かれた単弁五葉蓮華紋の絵画があるという。
五葉蓮華紋というのは、新来の初唐様なのかも。
また、支輪の縦長の区画には蓮が伸びていく様子を表しているようだ。 

宣字形須弥座の上下にも素弁の蓮弁が巡り、橘夫人念持仏は、蓮の様々な意匠が鏤められた厨子に安置されていた。

    蓮華座2 法隆寺献納金銅仏←     →蓮華座4 韓半島三国時代

関連項目
天井の蓮華
蓮華座1 飛鳥時代
蓮華座5 龍と蓮華
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考文献
「日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像 古代仏教のかたち」 松浦正昭 2004年 至文堂
「日本の美術359 蓮華文」上原真人 1996年 至文堂
「国宝法隆寺金堂展図録」 2008年 奈良国立博物館
「国宝法隆寺展図録」 1994年 奈良国立博物館

2014/08/22

蓮華座2 法隆寺献納金銅仏



蓮華座について法隆寺献納金銅仏でみていくと、

152号如来立像台座 7世紀半ば 35.1㎝
同書は、極めて異色の服制を示している。台座も八角框の角を正面にするなど他に例を見ない。おそらく朝鮮半島の彫刻様式を直接受けて制作されたものであろう。相対に稚拙なところが見受けられるが、わずかに肉身部の表現に抑揚が付されていて、7世紀半ば頃の作品と考えられるという。
素弁の反花には明確な稜線があり、下側の蓮弁にも稜線ははっきりと表されている。

150号如来立像台座 7世紀後半 33.7㎝ 
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、止利様式の諸像に比べると表現がかなりおとなしくなっている。衣の襞も止利式諸像と同形式ながら整えられた感が強く、飛鳥時代も後半に制作されたことを示唆しているという。
ふっくらとした素弁の反花は、143号脇侍菩薩の蓮華座の蓮弁によく似ているが、こちらの法が表現が落ち着いている分、制作年代が下がるようだ。

175号観音菩薩立像台座 7世紀半ば以降 38.3㎝ 
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、古様な表現が残っているが、特に天衣の縁やひだの稜、蓮華座のへりの部分などにさかんに打たれた複連点文は、特殊タガネによる新式の装飾技工として注目されるという。
『日本の美術359蓮華紋』の「屋根を飾った蓮華紋」で、軒丸瓦の蓮弁と比較していると、瓦の蓮華紋が台座に応用されたのではないかとさえ思う。
この蓮弁には子葉があり、単弁となっている。単弁の蓮弁が瓦に登場するのは山田寺が最初で、山田寺式単弁蓮華紋と呼ばれている。その文様についてはこちら
山田寺式単弁蓮華紋はこの台座の蓮弁と比べると細いが、それは軒丸瓦という狭い空間に8枚もの蓮弁を収めるためだろう。山田寺の創建が641年前後なので、この像は7世紀半ば以降の制作ということになるだろうか。


172号観音菩薩立像台座 7世紀後半以降 44.3㎝ 
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、わずかに腰を右にひねりながら、左足を踏み出す姿につくられる。パルメット文をあしらった幅広の頭飾や、体前面にかかる大ぶりな瓔珞も花やかなもので、こうした作風は中国の北周から隋にかけての様式をうけて成立したものと考えられているという。

蓮華座は受花が子葉のない素弁、反花が子葉のある複弁になっている。
『日本の美術359蓮華紋』は、7世紀後半以降、奈良時代を通じて複弁八葉蓮華紋が軒丸瓦の瓦当紋様の主流となるという。

176号観音菩薩立像台座 7世紀後半 高さ38.0㎝ 
受花も反花も複弁になっている。
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、瓔珞や胸飾、衣文の構成でもいっそう花やかになり、丸タガネによる魚々子、特殊タガネの複連点文などタガネによる装飾も細かくなっている。また衣の縁裂の部分に連珠文が打たれているが、これはイラン起源の文様で、中国では隋代からあらわれ、日本では7世紀後半から流行する、白鳳時代の特徴的な文様であるという。
複連点文や魚々子については同像をe国宝で拡大して見ることができます。それについてはこちら
イラン起源の文様というのは、今ではソグドの文様とされている連珠円文のことで、それも同サイトの画像を拡大していくとよく見えるが、その解説には半截九曜文となっている。
ソグドと連珠円文についてはこちら

162号菩薩半跏像台座 7世紀半ば以降 30.8㎝
同書は、全体からうける印象に飛鳥彫刻に見られたような厳格さは薄れている。7世紀半ば以降に制作されたものであろうという。
受花・反花共に子葉の高い複弁となっている。その上、受花と反花の間に敷茄子があり、176号よりも後につくられたのではないかと思える。


178号観音菩薩立像台座 7世紀後半 36.9㎝ 
同書は、右足をわずかに踏み出しながら体をひねった動きのある姿勢で、幅広の蓮華座上に立つ。中国初唐様式の影響を受けた新しいもので、鋳造技法もかなり進んだ精巧なものという。
隋の影響を受けたという176号はどちらも複弁なのに、初唐の影響を受けて時代が下がるはずのこの像は、受花は単弁になっている。当時蓮弁は様々な組み合わせがあり、依頼主の好みが反映されたのかも。


173号観音菩薩立像台座 8世紀 27.5㎝ 
同書は、台座下半部は木造後補という。
受花は先の細くなった単弁で、175号のものとは趣を異にするのは制作年代の差だろうか。時代の流行とは別に単弁のものを好む人もいたのだ。

184号観音菩薩立像 8世紀 35.0㎝ 
同書は、三面頭飾や胸飾の形式は山田殿の脇侍のものに共通しているが、姿態のやわらかな表現は、さらに強調されており、隋代の様式を反映したと思われる。裳や天衣の縁、蓮肉のへり、框座のへりや格狭間の周囲にそって、複連点文を打っている。また蓮弁は銅板を放射状蓮弁形に切りぬいたものを2枚、枘で蓮肉部分で固定しているという。
178号のように、7世紀後半のものに初唐期の様式が採り入れられているのに、この像のように8世紀になっても隋時代の様式を採用したものもある。
薄い蓮弁が取りつけられているという点で、法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍と共通するが、制作年代はこの像の方が下がるとは。
蓮弁は複弁が他の文様と同様に描かれるのみとなっている。

新来の文様や技術が採り入れられたり、古い様式のものが依然として用いられたりと、台座を制作年代順に並べるのも一筋縄ではいかない。工房によって蓮華座が異なっていたのだろうか。

     蓮華座1 飛鳥時代←  →蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子

関連項目
蓮華座4 韓半島三国時代
蓮華座5 龍と蓮華 
連珠円文の錦はソグドか
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考サイト
e国宝観音菩薩立像

※参考文献
「日本の美術359 蓮華紋」 上腹真人 1996年 至文堂
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館蔵
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂

2014/08/19

蓮華座1 飛鳥時代



蓮華は仏教にかかせない花である。しかし、卍繋文などをはじめ、ギリシアにもある文様や着衣などを探していて気づいたのだが、古い仏像は裳懸座や獅子座に坐っていることが多かった。蓮華座はあったかな、などと思うようになっていた。
そんな頃、大阪市立東洋陶磁美術館で『蓮展』に行くと、蓮に関連する陶磁器と共に、六田知弘氏の蓮の写真が展示されていた。そして、展示室の説明パネルに、日本の飛鳥時代には法隆寺をはじめとする寺院の軒丸瓦に同様な蓮華文がみられる。同じく法隆寺の金堂壁画2号壁の日光菩薩は蓮華座の上に座り、左手に蓮華を執ると書かれているのが目に留まった。

第2号壁半跏菩薩像 7世紀末-8世紀初頭 模写、羽石光志筆(安田斑)
『国宝法隆寺金堂展図録』で復元壁画や旧壁画を眺めていると、仏・菩薩といわず、坐像・立像を問わず、蓮華座は多く登場している。第10号壁薬師浄土図では、主尊の足は踏割蓮華に下ろしている。 
同書は、金堂壁画は総じて初唐様式を濃厚に伝えており、その制作時期は天智天皇9年(670)に炎上した金堂の再建事業が進んだ7世紀末から8世紀初頭に懸かる頃と見てよかろうという。


仏画では法隆寺金堂壁画が最も古いかも知れない。しかし、思い返してみると、蓮華座は飛鳥・白鳳時代の小金銅仏に見られる。探してみたら、もっとたくさんの像が蓮華座あるいは蓮台に座ったり、足を置いたりしていた。

菩薩半跏像 飛鳥後期 133㎝ 寄木造(クスノキ) 中宮寺
画像には弥勒と記しているが、近年では弥勒ではないとされている。

それについてはこちら
『太陽仏像仏画1奈良』は、樟材数個を不規則に寄せた、独特の寄木造りの像である。丸味のある柔らかいポーズは止利様の像とは大きくへだたり、時代も飛鳥末期の作と思われるという。
腰を置いているのは丸い榻座(とうざ)で、裳裾は長く懸かり、その下に単弁の反花(かえりばな)がある。そこから出た一本の花柄の先に咲いた小さな蓮華に左足を置いている。
菩薩半跏像  飛鳥前期 一木造(アカマツ) 広隆寺
『日本の美術455飛鳥白鳳の仏像』は、救世観音像とほぼ同時期の宝冠弥勒像は、日本では他に例がない赤松を用いた一木彫刻であり、また表現が朝鮮三国時代の金銅仏そのままであることから、これは飛鳥彫刻における渡来様式の典型的造像とされる。宝冠弥勒像は垂飾にした腰帯の部分などには樟材が使用されているから、制作地が日本であることは間違いないという。

こちらは榻座に丸みがなく、懸かる着衣は平板に表される。蓮華座は円形で、反花、受花ともに素弁となっている。左足は別の小さな蓮華座にのせている。

法隆寺献納金銅宝物156号 丙寅年(606年) 41.6㎝
同書は、三国時代朝鮮の彫刻様式が顕著に認められる作品である。「丙寅年」については606年か666年の両説があるが、野中寺弥勒菩薩像(666年)などとの比較から前説が多くとられているという。

韓半島の様式が残るとされるこの像は、四角い台座に坐り、四辺を高浮彫の単弁の反花が巡っている。 
左足は小さな蓮台にのせている。その反花は単弁だが、台座のものよりは平たい。


法隆寺献納金銅仏162号 7世紀 30.8㎝
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、右足の臑に反りをつけ、衣文や台座反花の輪郭を明確に表現しているが、全体から受ける印象に飛鳥彫刻に見られたような厳格さは薄れている。7世紀半ば以降に制作されたものであろうという。

大きな複弁の反花が榻座の布からのぞいている。側面や後部の図版には、受花が、左右、後部と一弁ずつ掛け布の外側に出ている。その膨らみが両側面に少し出っ張って見えている。
また、蓮華座の下には格狭間透かしのある八角形の台脚が表されるなど、上図の156号とは全く異なる系統の、新しい様式の仏像が請来され、それを元に制作されたことを思わせる。

推古31年(623)とされる法隆寺金堂の釈迦三尊像は蓮華だらけだった。
まずその台座。『国宝法隆寺金堂展図録』は、制作は釈迦三尊像と同時期とみられる。材質は請花と反花をクスノキから彫り出すほかはヒノキを用いる。
大小二つの宣字形の台座を台脚の上に積み重ねた形で、上座・下座とも上部へ至るほど僅かに幅が狭まるという。
ヒノキの台座板に蓮弁を浮彫りしたのではなく、別材のクスノキから彫り出した受花や反花を取りつけてあるのだった。
また、『日本の美術359蓮華紋』は、大光背の頭光頂部について、側視形蓮華紋の中央に火焔をもった丸い珠が鎮座する。光明の象徴であるハスの花が、光明の光源となる火焔宝珠(如意宝珠)を生む-こうした造形は、はやり雲崗・龍門・敦煌などの石窟壁画へとさかのぼるという。
蓮台のようにも見えたが。
光背の化仏
ちょっと変わった服装の化仏も蓮華座に坐している。この仏の顔ほどもある、大きな単弁の蓮弁が二段に表されている。

脇侍菩薩は、木製の台座から生え出た蓮華の高い蓮肉に乗る。その下側には、薄い銅板の蓮弁が三段に差し込まれている。
拡大してみると、青銅の蓮弁を一枚一枚蓮肉に挿していったのではなく、広い銅板から切り出した一段の蓮弁の連なりを3段にわたって取りつけているのだとわかった。
こんな蓮華座って他にあったかな?

それは三尊像の上の天蓋という、ごく身近なところにあった。

飛天 飛鳥時代(7世紀) 木造彩色 高さ53.7幅24.9㎝
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、飛天は樟材の一木造で、背後に光背時代に広がる天衣を木製透彫で表している。天衣の中途には火焔を伴った蓮華が咲き、また随所にパルメット文を表すという。
蓮弁は蓮台を越える高さにまで取りつけられている。こんな蓮弁は韓半島や中国の仏像では見たことがないような・・・日本での、あるいはこの時期だけのものだろうか。  

このような蓮華座は、どこから伝わったのだろう。

                    →蓮華座2 法隆寺献納金銅仏

関連項目
蓮華座4 韓半島三国時代
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子
蓮華座5 龍と蓮華
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考文献
「清らかな東アジアのやきものX写真家・六田知弘の眼 蓮展図録」 2014年 大阪市立東洋陶磁美術館・読売新聞大阪本社
「国宝法隆寺金堂展図録」 2008年 奈良国立博物館
「日本の美術455飛鳥白鳳の仏像」 松浦正昭 2004年 至文堂
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館

「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館

2014/08/15

ギリシアとヘレニズムの獣足



獣足の椅子というのを見た記憶がある。昨年のギリシア旅行でも、獣足の付いた箱という妙なものを見かけた。

黄金製骨箱 前4世紀後半 ヴェルギナ第2墳墓主室出土 ヴェルギナ考古博物館蔵
四角い金属の箱なのに、獅子の獣足が付いているとは。王の権威の象徴として、骨箱に獣足を付けたのだろうか。それともただの流行か。


せっかくなので、獣足を遡ってみると、

詩人を訪ねるディオニュソス(詩人のみ) 後1世紀(原作前1世紀前半) ローマ出土 大理石 高さ91㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』(以下『世界美術大全集4』)は、臥台の上の上半身裸の男はすでに宴会を始めており、臥台下の喜劇の仮面(略)は、男が詩人であることを示唆している。右側には食べ物や酒杯を載せた小卓が置かれている。この小卓の3本の支柱はライオンの脚を象っているという。
かなり写実的に浮彫された壁面だが、円卓の三脚を表現するのはこれが限界だろう。足の先だけが付いているのならすっきりしているのに、このテーブルの脚は全体がライオンの後肢になっている。当時の流行だろうか。

劇場の肘掛け椅子 前2世紀 大理石 幅約70㎝ トルコ、プリエネ
ギリシアやローマの劇場では、一般席と、貴賓席があった。これは後者の方で、ライオンの後肢が足から脛にかけて椅子の脚に表され、それが後方で渦巻になって終わっている。その上に別の石材で腰掛けと肘掛けが作られているのだが、肘掛けの端は何本かの溝のある渦巻になっていて、ライオンの前肢にも見え、席全体でライオンを表しているらしい。
足置き台は獅子の脚の間に設けられている。

アッティカ派赤像式渦形クラテル 前400-390年頃 プロノモスの画家 イタリア、ルーヴォ出土 高さ75㎝ ナポリ国立考古博物館蔵
『世界美術大全集4』は、画面上層中央のクリネ(臥床)に座した演劇の神ディオニュソスとその妻アリアドネを中心にして俳優、楽師、詩人たちがずらりと一堂に会しているという。
そのアリアドネが足を置く台が獣足。左側には短辺の獣足が2本向かい合せに描かれている。長辺では同じ方向に2本あって妙な印象を受ける。左側が後肢、右側が前肢を表していると思えば、納得できる。

犬と猫とで遊ぶ人々(部分) 前510年頃 クーロス像台座浮彫り アテネ出土 高さ32㎝ アテネ国立考古博物館蔵
向かいに坐って犬をたきつける人物は背のない四脚の椅子に坐っているが、このネコを向かわせる人物は折り畳み椅子らしきものに坐っている。その脚の先がネコ科の足になっている。

墓碑浮彫り 前550-540年頃 スパルタ近郊クリュサファ出土 大理石 高さ87㎝ ベルリン国立古代美術館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』(以下『世界美術大全集3』)は、死者たる男女はライオンの脚をかたどった豪華なエジプト風の玉座に座っているという。
ライオンの前肢と後肢が玉座の部品に使われている。足置き台は薄い板状のもの。

ヘラクレスの神化 前570-560年頃 アテネ、アクロポリスの破風飾り 石灰岩 高さ94㎝ アクロポリス美術館蔵
『世界美術大全集3』は、アルカイックのアクロポリスには二大神殿のほかに、所在および機能とともに不明ながら、破風彫刻をもつ小建築物が多数存在していたことを、残存の破風そのものが物語っている。
主題はヘラクレスの12の功業を完了した後の「ヘラクレスの神化」である。ひときわ大きく威厳をもった有髥のゼウスが完全に横向きで玉座に座し、左手を上げながら、ヘラクレスを吟味するかのように見据えているという。 
玉座の脚は獣足では全くない。パルメット文や小さな渦巻文を切り出している。玉座の前に足置き台がある。

レリーフ・ピトス 前680年頃 ティノス島出土 ギリシア、ティノス考古博物館蔵
同書は、鳥の頭をかたどった背当て付きの玉座にゼウスが座り、その頭頂部から兜と槍で身を固めたアテナ女神が上半身をのぞかせている。 ・・ひげがないからゼウスではなく ・・ 誕生場面にはちがいないという。
アテナはゼウスの頭から生まれたのだった。
玉座の背当ては先が鳥の頭の華奢なつくりなのに、脚はかなり太くて頑丈そうだ。果たしてこれが獣足だろうか?


大鍋の鼎 東方化様式時代(前8世紀末-7世紀) 青銅製 デルフィ出土 デルフィ考古博物館蔵
ギリシアではその前の幾何学様式の時代には、大鍋に直接長い板状の足を取りつけたが作られたが、東方化様式の時代になると、大鍋と鼎が別々に作られるようになった。その三脚の土付きは草食獣の足となっている。
これはアッシリアから出土した三脚台とそっくりの形だった。アッシリアではこのような草食獣の足だけでなく、ライオンの足も出土しているので、ギリシアにも同時に将来されただろう。

ギリシアでは、東方化様式の時代に将来された獣足が、椅子や家具の脚の一つとして生き残っていったようだ。

  獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった

関連項目
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
古代マケドニア1 ヴェルギナの唐草文
ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋

※参考文献
「ベルギナ 考古学遺跡の散策」 ディアナ・ザフィロプルー 2004年 考古学遺跡領収基金出版(日本語版)
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館

2014/08/12

獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった


ガンダーラ仏の台座には、獅子ではなく獣足の表されたものがあった。

弥勒菩薩坐像 2-3世紀 ガンダーラ出土 片岩 高さ78.0㎝ 松岡美術館蔵
『仏教の来た道展図録』は、獣足脚をもつ方形台座に結跏扶坐し、禅定印を結び、手指の間に水甁を挟み持つ菩薩像。ガンダーラでは、頭髪を束ねて結い、水甁を持つ菩薩像は弥勒と推定されるという。


の獣足はどこからきたものだろう。

クセルクセス1世謁見図 アケメネス朝ペルシア、前5世紀前半 石灰岩 テヘラン、イラン・バスタン博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』(以下『西アジア』)は、帝王は刳形の多数ある玉座に、足台に両足を載せて座っている。帝王や国王が玉座に座るときには、かならず足台を置くのが古代西アジアの定法であるという。
椅子の脚は刳形の下部に獣足がついている。


国王のライオン狩り部分 前645-640年頃 ニネヴェ北宮殿浮彫 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、背の高いスタンドは香炉であり、布を敷いた祭壇の上には、犠牲獣の脚部の肉と顎の部分を入れた容器の他に、ネギの束のように見えるものと小さな容器が載せられているという。
祭壇は三脚の台で、前に2本の獣足が表され、のもう1本の脚はその間から向こうに見えている。
おそらくライオンの足を象ったものだろう。


アッシュールバニパルと王妃の饗宴図 前645年頃 ニネヴェ宮殿出土 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、アッシリアの浮き彫りやその他現存する出土品から判断する限り、少なくともアッシリアの宮廷においては、一連の標準的な家具の型が存在していたといえる。そのような型は、アッシリア本来の国土を越えて、広くアッシリアの影響力の及ぶ範囲にわたって見出すことができる。それを「アッシリア帝国様式」の家具と呼ぶこともできよう。背もたれのついた玉座にも、また、背もたれのない玉座にも、常に足載せ台が一緒に描かれている。足載せ台にはライオンの足の装飾が施されていることがあり、その部分が横木の上に載せられて、さらに松かさの形の脚部によって支えられている。ライオンの脚の装飾は、それ以外にはテーブルの脚部に使われている。テーブルは通常、3本の脚によって支えられているという。

この図では、テーブルの脚にライオンの足と思われる獣足が付き、更にその舌に松毬状の足がついている。
また背の高い香炉も必需品であったらしく、王の寝椅子の右下に置かれている。

三脚台の脚部 前9-8世紀 ニムルド北西宮殿出土 青銅 大英博物館蔵
三脚台の脚を形成していた3本の青銅製の牛の脚と蹄(上)、ライオンの脚と鉤爪(下)。

ライオンの足と牛の蹄はどのように使い分けていたのだろう。

三脚台の復元品 青銅および鉄製 ニムルド「青銅の間」出土 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、12個の青銅製の大甕とともに、それらを支えていた三脚台の断片も、レヤードによって発見された。三脚台は全部で少なくとも16個は存在していたらしく、それは本来、この部屋にあった大甕の数が12個以上であった可能性を示唆する。三脚台は全て青銅製の牛の蹄、ないしはライオンの鉤爪を備えた脚を持っていた。ニムルドから出土した三脚台に関していえば、そこに刻まれた銘文は、シリア起源説を支持するものと考えられるという。

青銅製の大甕を載せる三脚には牛の蹄がついているが、これはデルフィ考古博物館で展示されていた、大鍋を載せた三脚とよく似ている。どちらかというと、この方が武骨な造りだが、もちろん東方化様式時代に、西アジアで作られた三脚がギリシアに将来され、まねて制作されたものだ。

獣足の三脚台はシリアから将来されたものという。シリアの三脚台は探し出せなかったが、獣足のある椅子は見付けることができた。

王の供物をうけるエール神 古代シリア 
『シリア国立博物館』は、エール神はバアル神とともにカナアンで崇拝されたという。
ライオンの獣足とその下にも脚部のついた椅子にエール神が坐っている。

エジプトにもライオンの足の獣足があった。やはり足の下には台がある。

棺台上のミイラの図 第3中間期、第22王朝(前945-716年頃) 高さ15.6幅1.5㎝ カルトナージュ、彩色 大英博物館蔵
牛のような草食獣ではなく、ライオンのような肉食獣の脚が碗形の脚部の上にのっている。


イリとイネトの墓の偽扉からの石板 古王国時代、第4王朝(前2613-2494年頃) 石灰岩 高さ71幅63厚さ16㎝ 大英博物館蔵
『古代エジプト展図録』は、石板には、墓の主人イリとその妻イネトが、パンを載せた供物台をはさんで向かい合って座る場面が、浅浮彫りで描かれている。ふたりの座る椅子には背もたれがなく、古王国時代に特有の描写であるという。

どちらもライオンの獣足の椅子に坐っている。ライオンの足の下には、丸みのある円錐形の台がついている。

ウルのスタンダード ウル第1王朝時代(前2500年頃) イラク、ウル王墓出土 木、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリ 大英博物館蔵
『西アジア』は、君主であろう。手にはゴブレットを持っているというが、椅子の獣足には言及していない。

椅子の4本の脚のうち、1本だけが草食獣の足となっている。その下には何もついていない。

獣足は、エジプトが先か、メソポタミアが先か、エジプトの墓が微妙な年代なので、どちらとも言えない。ライオンの獣足はエジプトで、牛の獣足はメソポタミアで始まったのかも。

      獅子座を遡る←        →ギリシアとヘレニズムの獣足

関連項目
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館 アッシリア大文明展 芸術と帝国 図録」 1996年 朝日新聞社
「大英博物館 古代エジプト展図録」 1999年 朝日新聞社・NHK
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 増田精一・杉村棟 1979年 講談社