仏教美術、イスラーム美術そしてキリスト教美術と、信仰心のない割りに宗教美術には関心がある。
今年は初夏に行ったギリシア旅行を長々とまとめていて、たまたまクリスマスの前にビザンティン美術が巡ってきた。そして、モザイク壁画によるキリスト降誕の場面が日々目の前に現れるようになった。
オシオス・ルカス修道院主聖堂修道院主聖堂 1040-50年頃
マリアはキリストの頭を手で持ち、母親らしい仕種で表されている。
ダフニ修道院聖堂 1100年頃
『天使が描いた』は、イエスの誕生の物語は、飼葉桶のイエスが天上からの光に照らし出されたところに始まる。金地に反射する光は自然に壁の窪みに集まり、その描かれた光線を輝かせ、この世に救いの新しい光がくだったことを示している。
しかし宮廷的な優雅さ、しなやかで自然な動きを見せる古典的様式、繊細な装飾性、こうしたダフニのモザイクの特徴は、イエスよりも、その前に横たわるマリアに体現されている。この画面の主役は明らかにマリアである。
画面中央にゆたりと優雅に横たわるマリアは、そのポーズも、均整のとれたプロポーションも、細かく切れた衣文線による立体的なモデリングにおいても、古典的様式を強く示している。
飼葉桶を覗く雄牛とろばは、クリスマスの図像に必ず登場するが、その起源は古い。4世紀の教父は降誕を預言する「イザヤの書」の箇所をこう解釈する。すなわち雄牛は律法に縛られているユダヤ人、ろばは偶像崇拝の罪を負っている異教徒、その間に彼らをそれぞれの重荷から解放する神の子が横たわっているというのであるという。
マリアは物思いにふけっているかのように、キリストを見ていない。
そこで、キリスト降誕図は何時頃から表されるようになったのか調べてみると、初期キリスト教時代のモザイク壁画にはなかった。
見つかった作品は、染織や象牙といったもので、聖堂を荘厳するものではなかった。
キリスト降誕 エジプト出土 亜麻布 5-6世紀
同書は、カウチに横たわるマリアは、ディオニュソスの誕生を表す古代図像のセレメ(ディオニュソスの母)のポーズを模している。ダフニの降誕の優雅なマリアのポーズの原型という。
聖母の足元にキリストがベッドに眠っている。マリアは構図の中央で天使の方を向く。すでにキリスト降誕の場面で主役はマリアだった。
成立したばかりの宗教美術には伝統がないので、その範を異教の美術に求め、その後独自の美術へと発展していくというのがよく分かる図像だ。
この布は本来はキリストは全身像で描かれ、足元にも人物が描かれていた可能性がある。
キリストと聖母の間の上側には、丸い目が2つ、おそらく牡牛で、その右の耳だけ見えているのは山羊だろう。
星を見る東方三博士、降誕、東方三博士の礼拝 ウェルデンの小箱 象牙 5世紀初頭
『天使が描いた』は、初期キリスト教の石棺や象牙彫では、救世主の顕現(エピファニー)を表す「東方三博士の礼拝図」の方が「降誕図」よりも重要であったという。
これが降誕図の少ない理由だったようだ。
飼い葉桶のキリストを牡牛と山羊が眺める構図が成立している。
聖母と対で表されるのは若者のようだが、父のヨゼフだろう。
尚、最古の降誕図はミラノのサンタンブロージオ教会にあることが、旅路はるかさんのローマ~ミラノ~ローディ~リヴォルタ・ダッダ~トリノでわかった。
秣桶のイエス スティリコというホノリウス帝に仕えた将軍の石棺 4世紀 破風の浮彫
破風のような三角形のところに彫られているのはやはりイエス様。降誕図としては現存する最古のもので、まだマリア様が神の母として認められてはいなかったのでマリア様は彫られていない≫ということをAカルチャーセンターのK先生の講座で聞いたので付け加えておく。(2011年1月11日) なおこの墓の主はスティリコと記されているが、スティリコの死は408年、母マリアをテオトコス(神の母)として正式に認めたのは431年のエフェソス公会議であるという。
添付の画像には、小さな破風の中央に寝台に横になったキリスト、頭側に牡牛を先頭に3匹の動物、足元側にロバか馬、その背後に攻撃体勢をとる獣が表されている。
降誕図の最初期のものは、キリスト以外人物の登場しなかった。これも、ローマの石棺の破風に元になるような図柄があったのだろう。
『イタリア・ロマネスクへの旅』は、テオドシウス帝治下の374年、ミラノ市民は執政官であったアンブロシウスを司教に選出する。
386年、アンブロシウスは発見されてまもない若き殉教者の遺骸を祀る教会を県堂する。そして11年後に没すると、二人の殉教者の傍らに葬られ、教会は聖アンブロシウスの名で呼ばれるようになる。
784年、ミラノ大司教はここにベネディクト派修道院を創建する。
サンタンブロージョ教会の平面構成は創建当時のままである。教会の前に広がる四角いアトリウムは、本来は洗礼志願者のための空間で、初期キリスト教時代のバシリカの伝統に属する。
北の扉口から内部に入ると、幅の広い主身廊を持つ三廊式の空間が現れる。この平面は創建時のままであるが、左右に並んでいた古代の円柱は、11世紀の改変でロマネスクの複合柱に換えられた。大小二連アーケードを上下に連ねて一梁間とする側面の構成も、このとき採用されたものである。アーケードを飾る多数の柱頭も11世紀の作品で、ここに刻まれた動物たちや組紐文様には古代への憧憬が感じられる。古代のバシリカはこうして中世のロマネスクに変身したのである。
身廊を奥に進むと左側に四角い説教壇が見えてくる。12世紀の作品であるこの説教壇は、その基壇に4世紀の巨大な石棺を転用しているという。
しかし、身廊から見える石棺の破風には生まれたばかりのキリストが眠る姿はない。
同サイトの写真から、降誕図は反対側の短辺破風にあるらしいことがわかる。側廊側から見ることができそうだ。
Joyeux Noël
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関連項目
マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂
オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝
※参考サイト
旅路はるかさんのイタリア北部・スイスの旅 アルプスの麓にロマネスク教会を訪ねてのサンタンブロージオ教会
※参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「イタリア・ロマネスクへの旅」 池田健二 2009年 中央公論新社