ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2013/12/27
列柱道路に屋根?
ギリシアのテッサロニキにガレリウス帝の記念門の遺構が残っている。それは古代ローマ時代のエグナティア街道、現在のエグナティアス通りの北側にある。
記念門の北の方にはロトンダが見えるが、これはキリスト教時代にアギオス・ギオルギオス聖堂に変えられたガレリウス帝の墓廟だった。
この2つの建造物は初期キリスト教時代には列柱廊で繋がっていた。
そればかりではない。記念門はエグナティア街道をまたいで建てられているので、中央のアーチの幅は街道の幅に造られ、両側の小アーチは、街道の両端の歩道が屋根付きの列柱道路として復元図に描かれている。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、列柱道路による都市景観の壮麗化も属州で独自に発展したものであった。これは両側に柱を立てて並べた街路を指し、街路を一つの空間としてとらえて都市の景観を整備する方法で、パルミラなど小アジアやティムガドなどの北アフリカの都市で発達した。この列柱道路の交差点、屈折点、広場あるいはフォルムへの出入口には記念門、ニュンファエウム(泉水堂)・・・(略)
属州の建築活動が活発化し独自の発展を遂げるようになると、その当然の結果として、属州の建築が首都ローマやイタリアの建築にも影響を与えることとなったという。
しかし、列柱道路は古代ローマの都市遺跡で見てきたが、それが屋根付きだという説明を聞いた記憶がない。
トルコ、エフェソス
クレテス通り
ヘラクレスの門からケルスス図書館まで続く列柱道路。ここの列柱はモノリス(一石柱)だった。柱頭は不明。
アルカディアン通り
大劇場から港まで続いた通り。
ここもモノリスでコリントス式柱頭がのっている。
シリア、パルミラ
記念門からのびる列柱道路
長いドラムを積み重ね、コリントス式柱頭をのせている。
途中の出っ張りは実力者などの彫像をのせるためのもの。
列柱の上にはエンタブラチュアがのっている。
どの本で読んだのかもう忘れてしまったが、暑い地方なので、列柱があると日陰ができる。日陰に入ると少しは涼しい、そのために列柱道路にしたという。
また、誰に聞いたのか忘れてしまったが、柱と柱の間に布を結びつけて日陰をつくったという。
ヨルダン、ジェラシュ
列柱廊で囲まれた楕円形のフォルムから列柱道路が出ている。
街の中央交差点には四面門(テトラピュロン)があった。
列柱道路は更に北門まで延々続く。全長約600m。
長いドラムを重ね。コリントス式柱頭が、その上にはエンタブラチュアがのる。
ヨルダン、ペトラ
円形劇場からビザンティンの壁を右手に見ながら進むと突如左手に列柱道路が出現する。
復元作業中。今ではもっと立派になっているだろう。
何もないので短く感じるが、500mほどあり、凱旋門まで続く。
ここのドラムは短い。
これらの遺跡の説明に、列柱道路に屋根があったと書かれたものはなかった。テッサロニキのガレリウス帝の記念門付近にだけ、特別に屋根付きの列柱廊を付けたのかも。
関連項目
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟
※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館
2013/12/24
キリスト降誕図の最古は?
仏教美術、イスラーム美術そしてキリスト教美術と、信仰心のない割りに宗教美術には関心がある。
今年は初夏に行ったギリシア旅行を長々とまとめていて、たまたまクリスマスの前にビザンティン美術が巡ってきた。そして、モザイク壁画によるキリスト降誕の場面が日々目の前に現れるようになった。
オシオス・ルカス修道院主聖堂修道院主聖堂 1040-50年頃
マリアはキリストの頭を手で持ち、母親らしい仕種で表されている。
ダフニ修道院聖堂 1100年頃
『天使が描いた』は、イエスの誕生の物語は、飼葉桶のイエスが天上からの光に照らし出されたところに始まる。金地に反射する光は自然に壁の窪みに集まり、その描かれた光線を輝かせ、この世に救いの新しい光がくだったことを示している。
しかし宮廷的な優雅さ、しなやかで自然な動きを見せる古典的様式、繊細な装飾性、こうしたダフニのモザイクの特徴は、イエスよりも、その前に横たわるマリアに体現されている。この画面の主役は明らかにマリアである。
画面中央にゆたりと優雅に横たわるマリアは、そのポーズも、均整のとれたプロポーションも、細かく切れた衣文線による立体的なモデリングにおいても、古典的様式を強く示している。
飼葉桶を覗く雄牛とろばは、クリスマスの図像に必ず登場するが、その起源は古い。4世紀の教父は降誕を預言する「イザヤの書」の箇所をこう解釈する。すなわち雄牛は律法に縛られているユダヤ人、ろばは偶像崇拝の罪を負っている異教徒、その間に彼らをそれぞれの重荷から解放する神の子が横たわっているというのであるという。
マリアは物思いにふけっているかのように、キリストを見ていない。
そこで、キリスト降誕図は何時頃から表されるようになったのか調べてみると、初期キリスト教時代のモザイク壁画にはなかった。
見つかった作品は、染織や象牙といったもので、聖堂を荘厳するものではなかった。
キリスト降誕 エジプト出土 亜麻布 5-6世紀
同書は、カウチに横たわるマリアは、ディオニュソスの誕生を表す古代図像のセレメ(ディオニュソスの母)のポーズを模している。ダフニの降誕の優雅なマリアのポーズの原型という。
聖母の足元にキリストがベッドに眠っている。マリアは構図の中央で天使の方を向く。すでにキリスト降誕の場面で主役はマリアだった。
成立したばかりの宗教美術には伝統がないので、その範を異教の美術に求め、その後独自の美術へと発展していくというのがよく分かる図像だ。
この布は本来はキリストは全身像で描かれ、足元にも人物が描かれていた可能性がある。
キリストと聖母の間の上側には、丸い目が2つ、おそらく牡牛で、その右の耳だけ見えているのは山羊だろう。
星を見る東方三博士、降誕、東方三博士の礼拝 ウェルデンの小箱 象牙 5世紀初頭
『天使が描いた』は、初期キリスト教の石棺や象牙彫では、救世主の顕現(エピファニー)を表す「東方三博士の礼拝図」の方が「降誕図」よりも重要であったという。
これが降誕図の少ない理由だったようだ。
飼い葉桶のキリストを牡牛と山羊が眺める構図が成立している。
聖母と対で表されるのは若者のようだが、父のヨゼフだろう。
尚、最古の降誕図はミラノのサンタンブロージオ教会にあることが、旅路はるかさんのローマ~ミラノ~ローディ~リヴォルタ・ダッダ~トリノでわかった。
秣桶のイエス スティリコというホノリウス帝に仕えた将軍の石棺 4世紀 破風の浮彫
破風のような三角形のところに彫られているのはやはりイエス様。降誕図としては現存する最古のもので、まだマリア様が神の母として認められてはいなかったのでマリア様は彫られていない≫ということをAカルチャーセンターのK先生の講座で聞いたので付け加えておく。(2011年1月11日) なおこの墓の主はスティリコと記されているが、スティリコの死は408年、母マリアをテオトコス(神の母)として正式に認めたのは431年のエフェソス公会議であるという。
添付の画像には、小さな破風の中央に寝台に横になったキリスト、頭側に牡牛を先頭に3匹の動物、足元側にロバか馬、その背後に攻撃体勢をとる獣が表されている。
降誕図の最初期のものは、キリスト以外人物の登場しなかった。これも、ローマの石棺の破風に元になるような図柄があったのだろう。
『イタリア・ロマネスクへの旅』は、テオドシウス帝治下の374年、ミラノ市民は執政官であったアンブロシウスを司教に選出する。
386年、アンブロシウスは発見されてまもない若き殉教者の遺骸を祀る教会を県堂する。そして11年後に没すると、二人の殉教者の傍らに葬られ、教会は聖アンブロシウスの名で呼ばれるようになる。
784年、ミラノ大司教はここにベネディクト派修道院を創建する。
サンタンブロージョ教会の平面構成は創建当時のままである。教会の前に広がる四角いアトリウムは、本来は洗礼志願者のための空間で、初期キリスト教時代のバシリカの伝統に属する。
北の扉口から内部に入ると、幅の広い主身廊を持つ三廊式の空間が現れる。この平面は創建時のままであるが、左右に並んでいた古代の円柱は、11世紀の改変でロマネスクの複合柱に換えられた。大小二連アーケードを上下に連ねて一梁間とする側面の構成も、このとき採用されたものである。アーケードを飾る多数の柱頭も11世紀の作品で、ここに刻まれた動物たちや組紐文様には古代への憧憬が感じられる。古代のバシリカはこうして中世のロマネスクに変身したのである。
身廊を奥に進むと左側に四角い説教壇が見えてくる。12世紀の作品であるこの説教壇は、その基壇に4世紀の巨大な石棺を転用しているという。
しかし、身廊から見える石棺の破風には生まれたばかりのキリストが眠る姿はない。
同サイトの写真から、降誕図は反対側の短辺破風にあるらしいことがわかる。側廊側から見ることができそうだ。
Joyeux Noël
キリスト降誕について←
関連項目
マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂
オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝
※参考サイト
旅路はるかさんのイタリア北部・スイスの旅 アルプスの麓にロマネスク教会を訪ねてのサンタンブロージオ教会
※参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「イタリア・ロマネスクへの旅」 池田健二 2009年 中央公論新社
2013/12/20
11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
1040-50年頃建立された(『NHK日曜美術館名画への旅3天使が描いた中世2』より)オシオス・ルカス修道院主聖堂(カトリコン)の主ドームが、コンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂のような4つのペンデンティブから導かれるドームでも、ブハラのサーマーン廟(10世紀半ば)のように4つのスキンチ、八角形、十六角形となって導かれるドームでもなく、四隅にスキンチがあり、しかも8つのペンデンティブに支えられていることに驚いた。
身廊、袖廊、後陣へと通じる箇所にはそれぞれヴォールト天井、四隅にはスキンチ、合計8つのアーチのそれぞれの間がペンデンティブの曲面となって、その上に円弧を導いて、ドームが造られている。
主聖堂全体の平面図を見ても気付かなかったが、主ドーム部分だけ見ると、確かに8本の柱の隅に起拱点があった。
11世紀に8つのペンデンティブを持つドーム!
今までミマール・シナンが建立したイスタンブールのリュステムパシャ・ジャーミイ(下図、1561年完成)が8つのペンデンティブのあるドームの最初だと思っていたので、これは少なからずショックだった。
その平面図
スキンチ部分のカーブが描かれているが、オシオス・ルカス修道院主聖堂の主ドームの平面図とよく似ている。
平面図ではわからないが、上図で見ると、四隅のスキンチの下側には角の柱で小さな2つのアーチを支え、その2つのアーチの上にスキンチをのせていることくらいが相違点だ。
おそらく、1段上にペンデンティブを置くことによって、ドームが高くなること、そして窓から光がたくさん入って明るくなることを計算しての設計だろう。
では、8つのペンデンティブの上にドームを置くということは、何時頃から始まったのか。それを知るには残されているビザンティン聖堂があまりにも少ない。
1041年建立とされるキオス(ヒオス)島のネア・モニ修道院聖堂はどうだろう。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、アテネからキオス島に渡る。トルコはもう目と鼻の先である。
「新しい修道院」の意である。1042年の少し前に、数人の隠者によって建立された修道院で、聖母に捧げられているという。
聖堂の高さに比べるとドームが高い。
同書は、 修道院は皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(1042-55)の庇護を受けて栄えた。ナオスはドーム(崩落して再建)が内接する正方形で、そこに二重のナルテクスが付属する特殊なプランをとるという。
『ビザンティンで行こう!』は、ネア・モニとは「新しい修道院」という意味で、1040年頃に、皇帝コンスタンティノス9世(アヤ・ソフィア南階上廊モザイクの奉納者である)の庇護のもとに建立された。八角形の特殊な集中式プランを持つ聖堂であるという。
ドームはオシオス・ルカス修道院主聖堂のように8箇所からペンデンティブが出ているようだが、8辺が同じ長さではなく、四隅のスキンチの下辺が短くなっている。正八角形にする技術がまだ確立していない頃の聖堂ということになるだろうか。
オシオス・ルカス修道院主聖堂よりも後の建立になるが、アテネ近郊のダフニ修道院も11世紀の建築が残っている。残念ながら修復中で見学はできなかった。
その写真は
『世界歴史の旅ビザンティン』は、大規模な修道院なのに、設立の事情を記録する文書は残っていない。モザイクの様式と意匠から、11世紀の末に建てられた、聖母に捧げられた修道院であることがわかるという。
この図版を見るかぎりでは、8つのペンデンティブが作り上げる円弧の上にドームが載っている。
平面図にも、正方形平面から四方の柱の上に等辺の八角形ができている。
断面図でも内接十字部への移行部のアーチと、スキンチのアーチとの間にペンデンティブがあって、その上にドームが乗っている。
そうだ。身近な所に10世紀後半にはまだ8つのペンデンティブタイプのものがなかったことを示すものがあった。
オシオス・ルカス修道院にある10世紀後半建立のパナギア聖堂が4つのペンデンティブの上にドームの乗る、アギア・ソフィア大聖堂タイプだった。
地方作と言われるオシオス・ルカス修道院で、4つのペンデンティブタイプの聖堂の手本が隣にあるのに、何故主聖堂(カトリコン)は別の、あるいは新流行の様式を選んだのだろう。
『NHK日曜美術館名画への旅3天使が描いた中世2』は、オシオス・ルカス修道院のモザイクの年代は、最近の研究で1040-50年頃とされ、宮廷ではなく修道院自体が注文主だとする説がある。数多くの聖人像が描かれ修道院的色彩の濃い装飾であることから、この地方の有力者で修道院長だったセオドロス・レオバコスをその指導者とする説が有力であるという。
大勢の聖人を描くには、壁面の面積が多い方が良い。そういう理由で選んだのかも。
どこが最初かはわからないが、10世紀後半から11世紀前半の数十年の間に、スキンチと8つのペンデンティブをもつドームが登場したのは確かだ。
ひょっとすると、それが誕生したのは、首都から遠く離れたこの地だったのかも。
関連項目
オシオス・ルカス修道院3 主聖堂(カトリコン)2 身廊
リュステムパシャ・ジャーミイ2 ドームの下は8つのペンデンティブ
ブハラのサーマーン廟
※参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「トルコ・イスラム建築」飯島英夫 2010年 冨士書房インターナショナル
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「地中海紀行 ビザンティンで行こう!」 益田朋幸 1996年 東京書籍
2013/12/17
マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂
『世界歴史の旅ビザンティン』は、ビザンティン帝国は荘厳なモザイクの技術でヨーロッパに名をとどろかせていた。大理石や色ガラスの四角い小片(テッセラ)を並べて、絵を構成する技法である。陰影のぼかしの部分を含めて、使う色数のガラスを焼いて、テッセラをつくる。背景の金は、透明のガラスの間に金箔をはさんでできている。ビザンティン聖堂の複雑な壁面がモザイクで飾られるとき、それは窓からの淡い光を受けてきらきらと輝く。視点を変えれば、輝きもまたうつろう。写真はどうしても固定した像しか記憶できないが、モザイクはまさに生きたイメージであるという。
それでも、実際には想像以上に聖堂の天井は高く、細部まで見ようとしてもかなわない。双眼鏡を持っていても、複雑な壁面の一つ一つに表されたモザイクを全てズームして見るのは難しい、というのが正直なところである。
マケドニア朝のモザイク壁画について、残された3つの聖堂を制作年代順にみると、
オシオス・ルカス修道院主聖堂(カトリコン) 1040-50年 ボイオティア地方(一般にはフォキス地方とされているが、オシオス・ルカスで買った本にはボイオティアとなっている)
オシオス・ルカス 身廊北袖廊西側
確かに、オシオス・ルカスの肖像は衣文線が幾何学的で平面的、そして構図が左右対称だった。
キリストの洗礼 主ドーム下のスキンチ
しかしこのモザイク画で明らかなように、全てが平面的な表現に留まっているのではない。
ヨルダン川に使ったキリストの体は隈取りによる立体的表現がなされているし、
傍で衣を差し出す天使たちの衣装も暈繝(グラデーション)があり、体の丸みや足の筋肉の張りまでが感じられる。
同書は、ダフニ修道院様式や宮廷的優雅さと比較して、オシオス・ルカスのモザイクは地方様式といわれたこともあった。この非常に非物質的で聖的な表現は、そもそも11世紀前半の首都の絵画の特徴であった。その様式は帝国の周辺部のキエフ、ヴェネツィア、その近くのトルチェロなどに残されている。線による聖的表現の頂点にあるのがオシオス・ルカスのモザイクという。
これは主にオシオス・ルカスや聖職者たちの表現について語ったものと思われるが、確かに天使像にしても、線を強調した表現ではある。
同書は、もっと新しい自由で絵画的な表現がネア・モニの時代に始まったといえるという。
ネア・モニ修道院聖堂 1040年頃 エーゲ海キオス島
同書は、ネア・モニ修道院のモザイクだけは、皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042-55)の注文で首都コンスタンティノープルの作家によって作られたことが記録上明らかになっている。
コントラストの強い鮮やかな色彩、自由でダイナミックな絵画的表現、濃い隈取りをつけた横目の強いまなざし。こうしたネア・モニのモザイクの到着は同時代の首都で作られた装飾写本画に共通しているという。
キリストの洗礼 主ドーム下南ニッチ
印象として色彩に乏しい。
わかりにくいが、洗礼者ヨハネの下の川の中に小さな人物がいる。これについて『ビザンティン美術への旅』は、ヨルダン河の擬人像がいる。古代の河神は既に、キリストの権威に服しているという。この神は、オシオス・ルカスではもっと大きく表されているし、大抵の洗礼図で見られる。
その天使たち 1042年頃(『天使が描いた』より)
同書は、コントラストの強い色彩が印象的、「世界歴史の旅ビザンティン」は、ネア・モニの画家は目の下に強い陰を入れ、暗い顔立ちを好んで描いたという。
この顔の陰はコンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂南玄関上部リュネットに表された聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝の人物の顔と共通する特徴かも知れない。
大天使ミカエル 副アプシス半ドーム
飛べないのではないかと思うくらい羽根が小さな大天使だが、顔の陰は少なく、頬や顎先が赤い。
左手にのせた丸いものには立体感もある。
ただ白い衣装の並行に並ぶ衣文が様式化されすぎていて、いくら暈繝(グラデーション)があっても不自然。
ダフニ修道院 アテネ近郊 11世紀末
現在修復中で見学できない。アテネからペロポネソス半島へと向かう途中に青い養生がかかっているのが見えた。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、葡萄園に隣接するダフニ修道院のモザイクはよく知られている。しかし地震による損壊を受けて、現在長い修復中である。大規模な修道院なのに、設立を記録する文書は残っていない。モザイクの様式と図像から、11世紀の末に建てられた、聖母に捧げられた修道院であることがわかる。
現在は西からではなく南扉口から堂内に入るようになっているが、何といってもはじめに我々を驚かすのは、ドームに描かれた巨大な「パントクラトール」のキリストであるという。
同書は、明らかにこのキリストは、人間の罪を赦す神ではなく、厳しく裁く神であるという。
同書は、ダフニの画家は都会的に洗練された作風を持ち、センチメンタルなまでに整った人物を描く。三修道院はそれぞれ違うやり方で、モザイクという技法の可能性を開拓しているという。
『天使が描いた』は、ダフニは二つの修道院のモザイクより色数も多く、テッセラ(モザイク片)の大きさも細かい。また銀を使うことで全体に明るさも増している。このよく発達した技法からみて、その制作者は首都の最もすぐれた工房であろう。その首都の様式を今に伝えるのが12世紀のノルマン人のシチリアのモザイクである。ダフニのモザイクは、偉大な皇帝アレクシスオス一世コムニノスの時代にあたるが、これほどの聖堂装飾についての記録が残っていないというのも不思議なことであるという。
キリストの洗礼 主ドーム下スキンチ
3つの聖堂のキリストの洗礼を比べると、ダフニのものが最も洗練されているが、全体図がないので、どんなヨルダン河の擬人像が描かれていたのかわからず残念。
『天使が描いた』は、バランスのよい古典的な優雅な姿という。
衣服にはオシオス・ルカスほどの暈繝は見られない。
キリスト降誕 主ドーム下スキンチ
山や岩の表現に暈繝がみられる。
マリアのの目の上下にはクマができているが、鼻筋から眉の下にかけて赤い線が見られる。これは新しい表現ではないだろうか。
『天使が描いた』は、ハギア・ソフィア大聖堂の「ヨアンニス二世コムニノスとその妻イリニと聖母子像」は、1118年の皇帝の皇帝の戴冠を記念して作られたとみられ、時代的にダフニに一番近い首都の作品である。首都に残る14世紀のカリエ・ジャーミには、ダフニのモザイクの宮廷的性格、自然主義のその後の発展を見ることができるという。
アギア・ソフィアのヨアンニス二世コムニノスとその妻イリニと聖母子像はこちら
中央の聖母子像
このマリアは正面を向いている。ダフニの降誕図のマリアよりも表情が明るいのは、右頬の赤みや左頬から首にかけての赤いテッセラなどと共に眉と目の間の赤い線があることからきているのだろう。
ズームすると、やはり目の周りにはクマがあった。あまり近づきすぎて見ない方がよいのかも。
紺色の着衣には微妙に濃淡がある。
コーラ修道院と当時は呼ばれた、現カーリエ・ジャーミイは十数年前に見学したが、当時の写真は良く撮れていなかった。また行ってみたい。
『ビザンティンで行こう』は、ビザンティン本国では、11世紀を最後に、モザイク壁画はあまり制作されなくなる。小アジアの大半を失った国力の衰えと見事に一致する現象である。モザイクは費用のかかる芸術で、宮廷や教会といったパトロンなしには成立しないという。
それは鎌倉末期以降の仏像仏画制作にも通じることでもある。
12世紀のすぐれたモザイク壁画はシチリアに残っているという。パレルモのパラティーナ礼拝堂(1143年)、郊外のチェファルー大聖堂(1131年)、モンレアーレ大聖堂(1174年)などもいつか訪ねてみたいところだ。
マケドニア朝期のモザイク壁画1 アギア・ソフィア大聖堂←
→11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
関連項目
キリスト降誕図の最古は?
オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク4 後陣10聖母子像の制作年代
アヤソフィア10 南階上廊1 2組の皇帝・皇妃のモザイク
※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「地中海紀行 ビザンティンで行こう!」 益田朋幸 1997年 東京書籍
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
2013/12/13
マケドニア朝期のモザイク壁画1 アギア・ソフィア大聖堂
ビザンティン世界ではイコノクラスム(聖像破壊運動)が終結した後、聖堂内が金地モザイクや紺地フレスコを背景にした図像で埋め尽くされるようになる。
『天使が描いた』は、843年に聖像画肯定で決着するが、その際の根拠は、まさにこの神であるキリストの受肉であった。
すなわち神であるキリストがこの世に生まれ、卑しい肉体を身につけたゆえに、肉体および物質は聖化された。物質は聖なるものを表現できる。
つまり物質である聖像画ひいては芸術一般がこれで可能になったのであるという。
その最初がコンスタンティノープル、アギア・ソフィア大聖堂の後陣に浮かぶ聖母子像だったとされている。
『天使が描いた』は、867年3月29日、コンスタンティノープルの総主教フォーティオスは、ハギア・ソフィア大聖堂のイコノクラスム終結後最初に復興されたイコンのまえで説教を行った。
「聖母は、全人類の救済のために生まれた造物主をその無垢な両手に抱く」
このときフォーティオスが言及しているのが、この聖母子のモザイクであると考えられているというが、
力強い写実とほとんど肉感的なまでの表現(表情、特に幼子キリストと大天使を見よ!)は10世紀末のモザイクには見られない。これはイコノクラスム以前にさかのぼる要素である。最近、カナダのビザンティン美術史家イコノミデス教授は、 ・・略・・ このモザイクはイコノクラスムの中断期すなわち800年前後の作で、フォーティオスの時代には塗り込められて隠蔽されていたとの新説を提出したが、様式的な整合性を考えるとありえないことではないともいっている。
同書はイコノクラスムの期間はモザイク制作が行われなかったため、技法が衰退していたので、終了後の作品は稚拙さや粗さが目立つという見解をとっている。以下の引用文でもところどころそのような観点からの記述がある。
その頃の作品については、こちらとこちら
細かな金箔テッセラを緻密に並べ、その中にまるでモデルがいたかのように現実味のあるマリアの顔が描かれている。やや右前方に向く目は、いったい何を見ているのだろう。
一番近くから聖母子像が見えるのは北階上廊の後陣寄りだが、そこから見上げてもなお、聖母マリアも幼子キリストもずっと右の方を見つめていた。
それについてはこちら
台からはみ出しそうな左足先といい、聖像画というよりも実在感にあふれた肖像画に近い。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、9世紀、10世紀の聖堂壁画は、それほど残っていない。しかしイコノクラスムという美術制作の中断を経ても、ビザンティンのモザイク技術が衰えることのなかったのは、アギア・ソフィア大聖堂のアプシスを飾る「聖母子」を見ればわかるという。
これは『天使が描いた』の説に反するものだ。
また『イスタンブールの大聖堂』は、この説は、私にはちょっとトリッキーすぎるし非現実的なように思われる。私は、定説のように、アプシス・モザイクはフォーティオスの説教の直前に完成したと考えているという。
いずれどちらかの説に落ち着くだろうが、今のところはこの聖母子像は9世紀後半につくられたものとしておく。
確かに金地や衣服に使用されたテッセラよりもずっと小さなテッセラで、陰をつくり、隈取りして立体感を表現している。顎や頬のバラ色だけでも何色か使っている。
イコノクラスムの嵐からはずれた土地で、コンスタンティノープルのモザイク職人たちが壁画を作り続けてきたからこその技術の高さだろう。
金地に途切れがないため、聖母子像と同じ時に制作されたとされる大天使ガブリエル像。
一見左右対称に翼を広げて立っているようだが、オシオス・ルカス修道院主聖堂の左右対称で平面的なオシオス・ルカスの肖像画に比べると、マケドニア朝の自然主義というのがよく伝わってくる。
その顔は聖母とよく似ていて、もっと細面で眉が上がっている。
何時頃からの記憶かもう定かではないが、天使ではなく、大天使というのはおっさんの天使だと思い込んでいた私にとって、この大天使ガブリエルは若い。
実際にみたことはないのだが、天使の羽根も本物っぽい。暈繝の帯による立体感ではなく、濃淡のあるテッセラを自由に使うことによって、それぞれの羽根の先が表現されている。
左手に載せているのは球だと思っていたが、親指が透けている。偏平な円形のガラスだったのかも。
そしてこの衣文。鉤形で終わる衣というのは実際にはないだろうが、それが不自然に見えないほど膨らみがうまく表現されている。ただ、刺繍あるいは織りで表された蔓草文の裾文様が、真っ平らなのが気になる。その上部の青い衣は縦に幾筋も襞があるというのに。
アプシスのモザイクから半世紀ほど後のもの
皇帝アレクサンドロス 北ギャラリー(階上廊) 912-913年
照明のない狭いアーチの間にあったので、これが写せる限界だった。皇帝が立つ地面が緑のグラデーション(暈繝)になっているのがわかる程度。
こんな時に図版は文字通りの救世主。
『天使が描いた』は、これは42歳もしくは43歳で亡くなった皇帝のおそらく晩年の肖像画で、在位中に制作されたものと考えられる。これを見ると人物表現は技法上安定し、モザイク細工も整い、洗練されている。写本挿絵にも同様の傾向があるという。
右手に巻物を持ち、左手にガブリエルと同じような丸く、親指が透けるものを持っている。
貴石や真珠?などを貼り付けた外衣を被っているので衣装の表現が平板に見えるが、その内側の服には襞が表されている。
一列の黒い線で表された眉と目、鼻、そして口だが、遠くから見ると、皇帝としての威厳よりも、これから何かを成し遂げようとする決意を感じさせる顔だが、在位は短かった。
没年近くに制作されたことを考えると、儚い雰囲気も漂っているようにも思える。
こんな風にいろいろに見えるのが、黒い線の付近にちりばめられた薄い隈取りのテッセラのためだろう。
左手に持つ円形の透明ガラス板を通して親指が透けているのを表現しようとしているが、後陣の大天使ガブリエルの表現の方が優れているとしか言えない。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、バシリオス1世に始まるマケドニア朝の諸帝の時代(867-1056年)、ビザンティン帝国はふたたび勢力をとり戻し、古代の学芸を奨励して、ギリシア・ローマ風の自然主義的表現を再興した。首都の聖堂壁画はほとんど残っておらず、カッパドキアなどの辺境の美術から、それをうかがい知るのみである。マンツィケルトの戦い(1071年)でセルジュク朝トルコに敗れ、小アジアの大部分を失って、ビザンティン帝国の国力は著しく低下した。歴史家はこれをビザンティン史の重大なターニング・ポイントと考えるが、美術の歴史は必ずしも体制の歴史と並行現象とはならない。11世紀から12世紀まで、多くの聖堂がつくられ、無数の写本に挿絵が描かれ、イコンが制作された。ギリシアに残るモザイク壁画をもつ3つの修道院(オシオス・ルカス、キオス島ネア・モニ、ダフニ)が建立されたのもこの時期である。しかし11世紀末のダフニを最後にして、ビザンティンのお家芸であるモザイクの現存作例は、しばらくビザンティン領内から姿を消して、ヴェネツィア、シチリア、キエフなど新興諸国でのビザンティン・モザイク職人の活動が目につくようになるという。
10世紀末とされるモザイク画
聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝 南玄関上部
『天使が描いた』は、9世紀のモザイクとのデッサン力の差はあきらかであり、しかも洗練された人物の表情はさまざまな感情移入を可能にするという。
人物表現についての記述にはそれぞれの好みも入っているが、後陣の聖母子像のマリアは可憐過ぎるのも確かだ。ニュートラルという観点からはこちらの方が各自多様な印象を持てるだろう。
しかしながら、顔よりも大きなテッセラで表される着衣の表現についてはよくわからない。両腕に襞の膨らみが見られるくらいにしか。
クッションに暈繝とおぼしき色のグラデーションが見られ、コンスタンティヌス帝が聖母に奉献するコンスタンティノープルの街を表した建物にも暈繝で立体感が出ている。
11世紀のモザイク画
キリストに寄進するコンスタンティノス9世モノマコスと皇妃ゾイ 南階上廊 数度の改変を経て1055年までに完成
『天使が描いた』は、ビザンティン史を通じて最大のモザイク制作のパトロンであった同皇帝の肖像を含む奉納モザイクパネル画が残る。しかしこのモザイクパネルは、皇帝とその妻ゾイおよびキリストの顔とともにつくり替えられており、美術史上多くの問題を抱えているという。
『ビザンティン美術への旅』は、首都コンスタンティノープルに残る中期ビザンティンの数少ない基準作例。
皇帝の在位期間によって、制作年代が1042-50年の間と確定できる。
宝石で豪華に飾られた皇帝の服を表現するのに、モザイクという技法は相応しかったという。
皇帝・皇后の衣装は貴石や真珠がびっしりと付けられているが、そのために襞がなく、のっぺりとした平面的な表現になってしまっている。玉座のクッションは暈繝で膨らみが表わされ、三者の手には照り隈の白っぽいテッセラが並び、皇帝が献上するお金?の袋も同様のテッセラが見られる。
また、皇帝の外衣の切れ目から僅かに内着がのぞいているが、そこには数本の暈繝の帯が見られる。
確かにキリストも頭部が改変されているのが周囲のモザイクの並びでわかる。
皇帝の服装は実際にこんな皴ができるのかと思うような不思議さはある。
古代のモザイクなどの暈繝は、輪郭線に近い方が濃く、離れるほど薄くなっていたが、ここではその逆で、衣文と衣文の間に濃い色のテッセラが使われている。
どうも色の濃い部分は襞の奥を表しているらしい。それは皇帝・皇后の貴石を鏤めた皴のないのっぺりとした衣装とは対照的だ。これは暈繝の新しい使い方かも。
このようにマケドニア朝の自然主義というものを、モザイク壁画の制作年代順に見てきた。
初期の頃には暈繝はさほど目立たないが、11世紀になるとふんだんに使用され、特に照り隈が顕著となってきた。
この首都の当時の最高水準でつくられたものと比べると、オシオス・ルカス修道院主聖堂修道院主聖堂のモザイク画が地方作であることは否めない。
オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝←
→マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂
関連項目
オシオス・ルカス修道院4 パナギア聖堂
オシオス・ルカス修道院3 主聖堂(カトリコン)2 身廊
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク5 聖母マリアの顔さまざま
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク4 後陣10聖母子像の制作年代
アヤソフィア7 北階上廊へ
アヤソフィア8 北階上廊から聖母子像が見えるのは
アヤソフィア10 南階上廊1 2組の皇帝・皇妃のモザイク
※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「地中海紀行 ビザンティンで行こう!」 益田朋幸 1997年 東京書籍
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS 「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世2」 1993年 講談社
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国」 浅野和生 2003年 中央公論新社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
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