『世界歴史の旅ビザンティン』は、ビザンティン帝国は荘厳なモザイクの技術でヨーロッパに名をとどろかせていた。大理石や色ガラスの四角い小片(テッセラ)を並べて、絵を構成する技法である。陰影のぼかしの部分を含めて、使う色数のガラスを焼いて、テッセラをつくる。背景の金は、透明のガラスの間に金箔をはさんでできている。ビザンティン聖堂の複雑な壁面がモザイクで飾られるとき、それは窓からの淡い光を受けてきらきらと輝く。視点を変えれば、輝きもまたうつろう。写真はどうしても固定した像しか記憶できないが、モザイクはまさに生きたイメージであるという。
それでも、実際には想像以上に聖堂の天井は高く、細部まで見ようとしてもかなわない。双眼鏡を持っていても、複雑な壁面の一つ一つに表されたモザイクを全てズームして見るのは難しい、というのが正直なところである。
マケドニア朝のモザイク壁画について、残された3つの聖堂を制作年代順にみると、
オシオス・ルカス修道院主聖堂(カトリコン) 1040-50年 ボイオティア地方(一般にはフォキス地方とされているが、オシオス・ルカスで買った本にはボイオティアとなっている)
オシオス・ルカス 身廊北袖廊西側
確かに、オシオス・ルカスの肖像は衣文線が幾何学的で平面的、そして構図が左右対称だった。
キリストの洗礼 主ドーム下のスキンチ
しかしこのモザイク画で明らかなように、全てが平面的な表現に留まっているのではない。
ヨルダン川に使ったキリストの体は隈取りによる立体的表現がなされているし、
傍で衣を差し出す天使たちの衣装も暈繝(グラデーション)があり、体の丸みや足の筋肉の張りまでが感じられる。
同書は、ダフニ修道院様式や宮廷的優雅さと比較して、オシオス・ルカスのモザイクは地方様式といわれたこともあった。この非常に非物質的で聖的な表現は、そもそも11世紀前半の首都の絵画の特徴であった。その様式は帝国の周辺部のキエフ、ヴェネツィア、その近くのトルチェロなどに残されている。線による聖的表現の頂点にあるのがオシオス・ルカスのモザイクという。
これは主にオシオス・ルカスや聖職者たちの表現について語ったものと思われるが、確かに天使像にしても、線を強調した表現ではある。
同書は、もっと新しい自由で絵画的な表現がネア・モニの時代に始まったといえるという。
ネア・モニ修道院聖堂 1040年頃 エーゲ海キオス島
同書は、ネア・モニ修道院のモザイクだけは、皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042-55)の注文で首都コンスタンティノープルの作家によって作られたことが記録上明らかになっている。
コントラストの強い鮮やかな色彩、自由でダイナミックな絵画的表現、濃い隈取りをつけた横目の強いまなざし。こうしたネア・モニのモザイクの到着は同時代の首都で作られた装飾写本画に共通しているという。
キリストの洗礼 主ドーム下南ニッチ
印象として色彩に乏しい。
わかりにくいが、洗礼者ヨハネの下の川の中に小さな人物がいる。これについて『ビザンティン美術への旅』は、ヨルダン河の擬人像がいる。古代の河神は既に、キリストの権威に服しているという。この神は、オシオス・ルカスではもっと大きく表されているし、大抵の洗礼図で見られる。
その天使たち 1042年頃(『天使が描いた』より)
同書は、コントラストの強い色彩が印象的、「世界歴史の旅ビザンティン」は、ネア・モニの画家は目の下に強い陰を入れ、暗い顔立ちを好んで描いたという。
この顔の陰はコンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂南玄関上部リュネットに表された聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝の人物の顔と共通する特徴かも知れない。
大天使ミカエル 副アプシス半ドーム
飛べないのではないかと思うくらい羽根が小さな大天使だが、顔の陰は少なく、頬や顎先が赤い。
左手にのせた丸いものには立体感もある。
ただ白い衣装の並行に並ぶ衣文が様式化されすぎていて、いくら暈繝(グラデーション)があっても不自然。
ダフニ修道院 アテネ近郊 11世紀末
現在修復中で見学できない。アテネからペロポネソス半島へと向かう途中に青い養生がかかっているのが見えた。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、葡萄園に隣接するダフニ修道院のモザイクはよく知られている。しかし地震による損壊を受けて、現在長い修復中である。大規模な修道院なのに、設立を記録する文書は残っていない。モザイクの様式と図像から、11世紀の末に建てられた、聖母に捧げられた修道院であることがわかる。
現在は西からではなく南扉口から堂内に入るようになっているが、何といってもはじめに我々を驚かすのは、ドームに描かれた巨大な「パントクラトール」のキリストであるという。
同書は、明らかにこのキリストは、人間の罪を赦す神ではなく、厳しく裁く神であるという。
同書は、ダフニの画家は都会的に洗練された作風を持ち、センチメンタルなまでに整った人物を描く。三修道院はそれぞれ違うやり方で、モザイクという技法の可能性を開拓しているという。
『天使が描いた』は、ダフニは二つの修道院のモザイクより色数も多く、テッセラ(モザイク片)の大きさも細かい。また銀を使うことで全体に明るさも増している。このよく発達した技法からみて、その制作者は首都の最もすぐれた工房であろう。その首都の様式を今に伝えるのが12世紀のノルマン人のシチリアのモザイクである。ダフニのモザイクは、偉大な皇帝アレクシスオス一世コムニノスの時代にあたるが、これほどの聖堂装飾についての記録が残っていないというのも不思議なことであるという。
キリストの洗礼 主ドーム下スキンチ
3つの聖堂のキリストの洗礼を比べると、ダフニのものが最も洗練されているが、全体図がないので、どんなヨルダン河の擬人像が描かれていたのかわからず残念。
『天使が描いた』は、バランスのよい古典的な優雅な姿という。
衣服にはオシオス・ルカスほどの暈繝は見られない。
キリスト降誕 主ドーム下スキンチ
山や岩の表現に暈繝がみられる。
マリアのの目の上下にはクマができているが、鼻筋から眉の下にかけて赤い線が見られる。これは新しい表現ではないだろうか。
『天使が描いた』は、ハギア・ソフィア大聖堂の「ヨアンニス二世コムニノスとその妻イリニと聖母子像」は、1118年の皇帝の皇帝の戴冠を記念して作られたとみられ、時代的にダフニに一番近い首都の作品である。首都に残る14世紀のカリエ・ジャーミには、ダフニのモザイクの宮廷的性格、自然主義のその後の発展を見ることができるという。
アギア・ソフィアのヨアンニス二世コムニノスとその妻イリニと聖母子像はこちら
中央の聖母子像
このマリアは正面を向いている。ダフニの降誕図のマリアよりも表情が明るいのは、右頬の赤みや左頬から首にかけての赤いテッセラなどと共に眉と目の間の赤い線があることからきているのだろう。
ズームすると、やはり目の周りにはクマがあった。あまり近づきすぎて見ない方がよいのかも。
紺色の着衣には微妙に濃淡がある。
コーラ修道院と当時は呼ばれた、現カーリエ・ジャーミイは十数年前に見学したが、当時の写真は良く撮れていなかった。また行ってみたい。
『ビザンティンで行こう』は、ビザンティン本国では、11世紀を最後に、モザイク壁画はあまり制作されなくなる。小アジアの大半を失った国力の衰えと見事に一致する現象である。モザイクは費用のかかる芸術で、宮廷や教会といったパトロンなしには成立しないという。
それは鎌倉末期以降の仏像仏画制作にも通じることでもある。
12世紀のすぐれたモザイク壁画はシチリアに残っているという。パレルモのパラティーナ礼拝堂(1143年)、郊外のチェファルー大聖堂(1131年)、モンレアーレ大聖堂(1174年)などもいつか訪ねてみたいところだ。
マケドニア朝期のモザイク壁画1 アギア・ソフィア大聖堂←
→11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
関連項目
キリスト降誕図の最古は?
オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク4 後陣10聖母子像の制作年代
アヤソフィア10 南階上廊1 2組の皇帝・皇妃のモザイク
※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「地中海紀行 ビザンティンで行こう!」 益田朋幸 1997年 東京書籍
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社