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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/03/06

正倉院の白瑠璃碗はササンかローマか

円形切子碗の代表は正倉院の白瑠璃碗である。そしてササン・グラスの代表のようにも言われてきた。

ところが、天理参考館は、所蔵する切子碗の分析調査で、ローマ製ガラスに特有の成分を確認した。ササン朝ではなく東ローマ帝国で造られた可能性がある。
円形切子碗は参考館の新春展シルクロードを彩る人工の華 古代ガラス」で展示されているという記事が2012年1月26日の毎日新聞の夕刊に出ていた。

参考館に行くと、2012年1月18日付けの「緊急説明会 正倉院形カットガラスの新説」という資料があった。
資料は、基本的に中東のガラスは植物灰ガラスであった。それが紀元前8世紀頃から、地中海域で、ナトロンが植物灰の代用として使用されるようになる。ナトロンは炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムからなる天然の鉱物で、塩湖でとれる。エジプトでは塩湖から大量のナトロンが簡単に手に入り、流通する。地中海域で、再びナトロン・ガラスから植物灰ガラスに移行するのが、シリアで8世紀前半、エジプトで8世紀後半から9世紀にかけてである。ササン朝では植物灰を使っていた。
切子括碗自体はむしろローマで一般的なガラスだが、3世紀頃はローマでは楕円形、円形など多種類のカット文を施すのが一般的になるに対し、ササン朝ではむしろ円形切子のみを施すという違いがある。これがササン朝の特徴と指摘されていて、後の円形切子のみが施される正倉院形カットガラスにつながる。実際に新沢千塚出土例は分析の結果、植物灰ガラスであったという。

透明ガラス碗 5世紀後半埋葬 橿原市新沢千塚126号墳出土 東京国立博物館蔵
天理参考館で展示されていた切子碗はどうだったのだろう。

浮出円形切子碗 宙吹きまたは型吹きガラス イラン 6世紀頃 高さ8.0㎝口径9.5㎝ 厚さ4㎜浮出カット面厚さ7㎜ 天理参考館蔵
『シルクロードを彩る人工の華古代ガラス展図録』は、宙吹きで厚手の碗に成形したあと、浮出円形となる部分を残して他の部分をグラインダーのような道具で削り取ったと考えられる。あるいは、あらかじめ浮出円形部のある器面を型吹きで成形し、研磨して仕上げた可能性もある。器の厚さは突起が無い部分で0.3~0.4㎝、突起のある部分で0.6~0.8㎝である。底部にも大きな浮出円形部があり、脚台となっている。口縁部は未加工か、あるいは器面を削り取った際に薄くなったものと考えられる。成分分析の結果、酸化カリウムと酸化マグネシウムの多い植物灰をアルカリ融材に用いたガラスであることが判明している。
分析結果:植物灰ガラスという。
ササン朝で製作されたものだった。 
円形切子碗 宙吹きガラス イラン 6世紀頃 高さ9.0㎝口径12.4㎝ 厚さ6㎜カット面厚さ4㎜ 上段より16、16、16、16、7、1の6段 天理参考館蔵
装飾は円形切子のみ、切り合いがなくきれいな凹形の円形をなしている。底部にも、ポンテ痕を消すために切子がやや大きめに施されているが、切子面が水平ではないため器体が傾いている。口縁部は口焼きで丸く仕上げられている。成分分析の結果、ササン朝ガラスに見られるような酸化カリウム、酸化マグネシウムの多い成分であることが判明している。
分析結果:植物灰ガラスという。
これもササン朝で製作されたことが確認された。
円形切子碗(37-426) イラン 6世紀 高7.6㎝口径10.8㎝底径3.3㎝ 厚さ4㎜カット面高さ2.5㎜ 天理参考館蔵
上段より16個、16個、16個、7個、1個の5段
分析結果:ナトロンガラス
東ローマ帝国で製作されていたことが明らかとなった。
円形切子碗(37-427) イラン 高6.5㎝口径9.7㎝底径2.4㎝ 厚さ3.5㎜カット面厚さ2.5㎜ 天理参考館蔵
上段より17個、17個、17個、15個、9個、1個の6段
分析結果:ナトロンガラス
こちらも東ローマ帝国で作られたものだ。
正倉院白瑠璃碗は、 高8.5㎝、口径12㎝、底径3.9㎝ 厚さ5㎜
上段より18、18、18、18、7、1の6段
蛍光X線分析はされていない。
ベータ線後方散乱法による分析はされていて、アルカリ石灰ガラスであることは確認されているという。
では正倉院の白瑠璃碗はナトロンガラスなのか植物灰ガラスなのか。
ササン朝は陸路で東方と交易していた。ガラスを厚手に作ったのも陸路では割れやすいためとされている。ローマは海路(紅海)の南ルートに活路を求めた。
今回の分析で、当時ササン朝のヒット商品であった厚手の円形切子碗(芸術的効果があり、高価な商品であった)をローマでも模して作っていた可能性が指摘できる。つまり正倉院白瑠璃碗がローマ・ガラスである可能性も出てきたという。

ところで、天理参考館の2品は東ローマ帝国で作られたのに、図録および資料ではイランとなっている点について、私はイランの出土品ということだと思っている。
何故かというと、イランのある地域でこのような円形切子碗がたくさん出土した時期があって、その頃に日本人がかなり入手したことを何かで読んだことがあるからだ。
『ギーラーン緑なすもう一つのイラン』は、故深井晋司先生が1959年ノウルーズの頃テヘラーンに滞在中、とある骨董屋の店に置かれていた正倉院の円形切子装飾瑠璃碗とよく似たカットグラス碗を見付けたことがきっかけとなっている。当時テヘラーンの骨董屋の間にアムラシュ出土と称されるおびただしい古物が流れこみ、興味をもった先生がそれらを見て歩いていてこのガラス碗に出会ったとのことであった。
その年の7月、調査団のうち4人がアムラシュに調査にでかけたのである。
その結果アムラシュはテヘラーンにあふれている古物の集散地にすぎず、出土地はここから谷ぞいに山深く分け入ったデイラマーン地方であるということが判明したという。
一行はラバの背にゆられて2日がかりで現地に到着、ここが先史時代からパルティア・サーサーン朝時代にまでわたる種々な形式の古墓群が密集する地域であり、また村人により徹底的な盗掘が行われていることを調査確認したのであった。
集落の側に古代の墓域が存在するという。
2012年2月27日毎日新聞夕刊の「田原由紀雄の心のかたち」という欄で、参考館が戦後入手した3点の円形切子碗がクローズアップされているという。デイラマーンの古墓群から円形切子碗がたくさん出土した時期と符合する。 
天理参考館の入手の仕方はともかく、イラン最北の古墓群に大量の円形切子碗が埋葬された時期があり、その中にはササン朝の製品も、東ローマ帝国の製品もあったということになる。
ということは、東ローマ帝国製作の円形切子碗は、厚手で割れにくかったため、陸路でササン朝、あるいはササン朝への交易拠点まで運ばれたのではないだろうか。

ところで、新沢千塚出土の薄手の円形切子碗と同じ頃、東地中海地域で製作されたとされる切子坏は厚手だ。

切子坏またはランプ 宙吹きガラス 東地中海地域 3-5世紀 高さ6.7㎝天理参考館蔵
わずかに黄緑色がかった円錐形の透明ガラスである。外面上部と中央部に1本ずつ水平条線を刻んで上下に区画を作り、上の区画には円形切子文を3段、下の区画には縦長楕円形切子文を3段施している。成分分析では、ナトロンを用いたローマ・ガラスの特徴を示した。用途は坏とも考えられるが、ランプの可能性もあるという。
厚手のカットガラスはササン朝よりも前から東ローマ帝国内で作られていた。上部は円形カットなのに、下部が縦長の楕円形カットになっているのは、細長い面に円形カットを施すのが困難で、苦肉の策だったかも。
この技術が継承されて、後に東ローマ帝国内で厚手の円形切子碗が作られるようになった可能性もあるのではないだろうか。東ローマ帝国の方がオリジナルで、陸路運ばれた円形切子碗をコピーを製作したのがササン朝かも。
正倉院の白瑠璃碗がササン朝で作られたか、そうではなく、東ローマ帝国製作だったかという問題点が出て来たのは面白い。早く蛍光X線分析をして、はっきりさせてほしいなあ。
その上で、どちらがオリジナルでどちらがコピーなのか、もっとたくさんの資料から判断してもらいたい。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「正倉院への道-天平の至宝」米田雄介・児島健次郎他 1999年 雄山閣
「シルクロードを彩る人工の華 古代ガラス展図録」2012年 天理大学附属天理参考館
「ギーラーン 緑なすもう一つのイラン」1998年 中近東文化センター