ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/08/29
エジプトの王像3 カフラー王
カイロのエジプト博物館で見たカフラー王座像は、ジェゼル王座像よりもずっと現実の人間らしくなっていた。そして顔も若々しい。
カフラー王座像 アル=ギーザ、カフラー王の河岸神殿出土 閃緑岩 高168㎝ 古王国、第4王朝(前2550年頃) カイロ、エジプト博物館蔵
王は、背もたれの高い玉座に腰掛けた姿で表現されている。玉座の脚はライオンの脚として表現され、正面の左右の脚の上部には雌のライオンの頭部がつれられている。
また玉座の側面には下エジプトを象徴するパピルスと上エジプトを象徴するロータスを結合させる上下エジプトの統一を意味する「セマ・タウイ」と呼ばれる結びが表現されている。
王の右手は布を握り右膝の上に置かれ、左手は開いて左膝の上に軽く載せている。上半身や両腕などは、筋肉質の均整のとれた理想的な肉体として表現されている。王権が絶頂期にあった第4王朝初期の王像の代表作という。
確かに上のクフ王像とは大きさだけでなく表現力が全然違う。きっとクフ王もカフラー王に負けないくらいの自分の像を造らせたに違いない。
カフラー王のピラミッド及び河岸神殿の位置はこちら
像はカフラー王の河岸神殿地下から出土した。河岸神殿ではその穴を柵を設けて見学できるようになっていた。
『図説古代エジプト1』は、1個150-500トンの巨石が積みあげられているという。石の大きさは整っていないが、ガイドさんは、角を不揃いにした方が強度が保てると考えられていましたと言っていた。
王の河岸神殿は赤色花崗岩の巨大なパネルを嵌め込んで作られている。この河岸神殿内部には、かつては23体の王の座像が置かれていたと推定されるが、現在までに、そのうちのわずか9体の王像が知られているだけである。これらの彫像は、少しずつデザインが異なったものであった。また材質も、半数が閃緑岩製であるが、残りは片岩製のものであった。れこらの王座像は、いずれも河岸神殿の床にあけられた竪坑の中から出土したものであるという。
ジェゼル王像はピラミッド複合体の北側にピラミッドに接するように設けられたセルダブから発見された。壁にあけられた2つの穴から外を眺める姿勢をして、置かれている(『吉村作治の古代エジプト講義録上』より)ということなので、おそらく当時の地面のレベルに、置かれていたものと思われる。
カフラー王像は何のために地下に埋められたのだろうか。在位30年になると行われる王位更新祭は3年に1度だったような。するとカフラー王はものすごく長命な王だったことになる。
カフラー王の時代、まだ円柱というものがなかったのか、平面が逆T字形の河岸神殿には角柱が並んでいたが、側壁両側の床には規則正しく四角い凹みがあった。ひょっとしてこの凹みはカフラー王像が出土した場所を表しているのかも。
カフラー王の河岸神殿は外観がひどく風化しているため、全体を撮るのを忘れていた。写真の右(北)側から入り左(南)側から出るという一方通行にしなくてはならない程観光客が多い。
カフラー王はたくさんの座像だけでなく、もっと大きなものを残している。それに近づくにも河岸神殿を通らねばならない。狭くて渋滞がおきるほどだった。
トンネルのようなところは河岸神殿の西壁だろう。
トンネルを抜けると右に大きなスフィンクスが座っている。砂による風化と石のブロックによる修復部分が多くて痛々しい。
そして参道がカフラー王のピラミッドへと向かっている。斜めになっているのが外側からよくわかる(観光客が通っている)。このような角度から見ると大きなスフィンクスがピラミッドを守っているようだ。
しかし、吉村作治氏は、ピラミッドを守護する目的だとしたら、かならず一対になっていなくてはならない。
何かを守護するためにあったのではなく、それ自体が一つの神、すなわち本尊として、信仰の対象となっていたと考えなくては、つじつまが合わないのである。
ところが第2ピラミッドの参道は、大きく東西軸からはずれ、しかも、河岸神殿の北にかたよった位置に達している。
最初から、スフィンクスは存在していた。そして、それを前提にギザのピラミッド群が設計されていた。とすれば、すべてのつじつまが合うという。
スフィンクスはピラミッドよりも古い時代に信仰の対象として造られたものだったというのは、1体しかないスフィンクスについての納得のいく説明だ。
しかし、スフィンクスを見学した時ガイドさんが、最近、スフィンクスはカフラー王のピラミッドと同時代に造られたものだということが調査ではっきりしましたと言うのを聞いてがっかりした。
それならばスフィンクスの顔はカフラー王像の顔と似ていないのか。
吉村氏は、エジプトにおける王の顔には定型があり、王は神、すなわち理想なのだから、皆顔が似てくるのはあたりまえなのであるという。
※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」(仁田三夫 1998年 河出書房新社)
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
2010/08/24
エジプトの王像2 小さなクフ王像はずっと後世のもの
ジェゼル王像の顔は壊されたために恐ろしい形相になっているが、身体は薄い存在感のないものだった。
ジェゼル王像について『世界美術大全集2エジプト美術』は、古代エジプトで最古の等身大の彫像である。立体的に支配者の姿を表した像、すなわち王像も、初期王朝時代に初めて現れたという。
小さな王像なら確かに初期王朝時代のものが発見されている。
カセケム王座像 初期王朝、第2王朝(前2700年頃) ヒエラコンポリス出土
右:片岩 高62.0㎝ オックスフォード、アシュモーリアン美術館蔵
左:片岩 高さ55㎝ 大英博蔵
『原色世界の美術12 エジプト』は、現在まで知られているものでは、王名を確認できる最古のエジプト彫刻である。両方ともほとんど同形で、王は上エジプトの白冠をかぶり、セド祭のための長衣をまとっている。側面の図像は殺戮され、もしくは捕虜になった敵を表しているという。
王の座った椅子には上下エジプトの統一を示す図柄が線刻されていたりするが、まだこの時代にはないようだ。しかし、敵を殺したり捕虜にしたりする図がもう現れている。
クフ王座像 アビュドス出土 象牙 高7.5㎝ おそらく末期王朝、第26王朝(前600年頃) カイロ、エジプト博物館蔵
エジプト人学者ザヒ・ハワースはこの小像を詳細に検討し、アル=ギーザ出土のメンカウラー王の象牙製立像との比較などにより、クフ王の座像の加工技術が劣っている点などをあげて、このクフ王の小像が今までいわれていたような古王国第4王朝時代のものではなく、古王国時代の王に対する個人崇拝が盛んであった末期王朝の第26王朝時代の作品であると結論づけているという。
カイロの博物館で見た時は何故こんなに小さいのかと不思議だったが、クフ王の時代につくられたものだということに疑問を持たなかった。
しかしながら、考えてみると、ジェゼル王の時代にすでに等身大の王像が造られているのに、こんな大きなピラミッドを建造したクフ王が、等身大、あるいはもっと大きな自分の像を造らせないはずはないだろう。
カフラー王の座像はカフラー王の河岸神殿から発見されているので、立派なクフ王像もクフ王の河岸神殿に置かれていたかも知れないが、残念ながらクフ王の河岸神殿は現存していない。
カフラー王像については次回
※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」(仁田三夫 1998年 河出書房新社)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
2010/08/19
エジプトの王像1 ジェゼル王坐像
アスワンもゆっくりとしたいところだったが、サッカラも一日かけて見学したいところだった。
ジェゼル王は坐像が残っている。サッカラのピラミッド複合体の、ピラミッドの北側につくられたセルダブで発見された。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、セルダブというのは、王の彫像を安置するための密室である。古代エジプトでは、人が死ぬと、「バー」は肉体を離れて飛び去ってしまうが、「カー」はこの世に残ると考えられていた。そのため「カー」の宿るところとして、石の彫像が置かれたのである。ここには、石灰岩でつくられたジェゼル王の等身大の像が、壁にあけられた2つの穴から外を眺める姿勢をして、置かれている。もっともジェゼル王の像の本体はカイロのエジプト考古学博物館にあり、現在ここに置かれているのは、その複製であるという。
階段ピラミッドを見学するのなら、ピラミッドの北側まで行って、セルダブの穴からジェゼル王像のコピーを見たいと思っていたが、実際にはそんな余裕はなく、複合体の内部に入っても南周壁沿いに歩いただけで、階段ピラミッドに近づくことはできなかった。
もっとも、このように修復中だったため、時間があっても北側に回るのは無理だったかも知れない。
王は先の尖った古い形式のネメスとよばれる頭巾をかぶり、頭巾の下には、女性がつけるような重量感のある大型の鬘が見えている。等身大の像としては、エジプト最古のものであるという。
頭部は量感があるが、身体は薄っぺらい。
『世界美術大全集2エジプト美術』は、王はセド祭(王位更新祭)の時に着る白く長い衣装を身にまとっている。右腕を胸の前で曲げ、左手を膝の上に置く姿勢は、後の王像では採用されない古拙様式であるという。
セド祭についてはこちら
階段ピラミッドは、北側に葬祭殿が位置しており、第4王朝以降の諸王のピラミッドの葬祭殿がピラミッドの東面に設けられているのとは大きく異なっている。これは北の周極星が重要な役割を担っていたからである。そのため、王の座像も北天を凝視する姿で安置されていた。シルダーブの壁に穿たれた孔の直径が、座像の置かれた内側よりも外側の方が大きいことから、この孔の目的は、彫像が祠堂の内側から外側をのぞくためのものであるとされているという。
吉村氏は、第3王朝では、北極星を聖なる星として崇拝する、いわゆる星辰信仰が盛んであったとみられる。そのため、ピラミッドの出入口は、北極星をさす北側に設けられているという。
鼻と、銅枠の内側に象嵌されていた両眼は著しく破壊されており、製作当時の表情を復原することは困難であるという。
カイロ博物館で見たが、頭部が破損しているので、じっくりと細部を見ようと思わない像だった。
もし、時間があってセルダブの穴から覗いていたら、このような破壊された顔が不気味だっただろうなあ。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
「図説古代エジプト1」(仁田三夫 1998年 河出書房新社)
2010/08/14
アスワンではのんびり滞在したい
アスワンで一番行きたいところがエレファンティネ島のクヌム神殿だったが、アスワンには他に見所も多く、1泊ではもったいない観光地である。
アスワンの地図はこちら
アスワンダム上流のフィラエ島にはイシス神殿などの遺跡がある。ダムができて遺跡が浸水したために別の島に移築された。バスではなくボートに乗って行く遺跡だ。
『図説古代エジプト2』は、末期王朝時代からプトレマイオス王朝、さらにローマ時代にかけてつくられたヌビア地方を代表する美しい神殿で「ナイルの真珠」とよばれて人々に親しまれていたという。
ダム下流には古代の石切場がある。アスワンは良質の花崗岩の産地だった。完成していれば40mもの高さになっただろうといわれている切りかけのオベリスクがあるので観光地になっている。
オベリスクというのは太陽の光を表していて、継ぎ目があってはならないとガイドさん。先の方にひびが入ってしまったため放置されたと考えられているようだ。
あちこちに楔跡が目立つが、ずっと後世のローマ時代のもの。古代エジプト時代には楔を使わずに石を切り出していたそうだ。玄武岩の小さな丸い石があちこちに残っている。ずらりと横に並んで、丸い石をぶつけて切り出したのだろうと言われているらしい。
ここまでは大抵のツアーの見学コースに入っているが、他にも見所はある。
ナイルに浮かんで移動していると西岸の高い所にイスラームの墓廟らしきものがあって気になる。拡大してみると新しそうだ。
『地球の歩き方E02エジプト』は、船着き場近くの丘に見えるのがアガ・ハーン廟だ。アガ・ハーンは、イスラーム・イスマイール派の最高権威者、第48代イマーム。1959年に没した彼の墓は夫人によって建てられた。内部に入ることはできないという。
古い墓廟を復元したのではなく、50年ほど前の墓とは、新しいはずだ。
クヌム神殿の展望台からは正面に見える。近くまで行って外観だけ見るよりも、遠くから丘の上に建つのを眺める方が良いものもある。
そして展望台からは西岸のもっと奥にある遺跡も見えた。それは聖シメオン修道院らしい。
ハトレ(またはヒドラ)修道院という名前だが、後世の学者からは聖シメオン修道院と呼ばれている。聖ハトレは4世紀の修験者とされる。修道院の建物は13世紀に廃墟となるまで、何度も増改築された。保存状態はあまりよくないが、壁画が残っており、僧房や厨房もあるという。
ずっと遠くの丘の上にも遺跡があるらしいのがクヌム神殿から見えた。岩窟墳墓群と呼ばれている。
エレファンティネ島を支配していた古代エジプト、ローマ支配時代の貴族たちの墓群。ナイル川西岸の丘の北。そのなかでもサレプゥト2世(中王国時代)とヘカイブの墓がみものという。
聖シメオン修道院も岩窟墳墓群も船着き場からかなり登らないと行き着かないので、観光コースには入れにくいのだろう。
アスワンのいいところは見学地だけではない。ナイル川の小島というホテルの立地も良かった。チェックインした午後は強烈な太陽で部屋の中が高温になっていて遮光カーテンが開けられないくらいだったが、エアコンがよく効いて夜は快適だった。
早朝目覚めてベランダに出てみると、ひんやりと涼しく、湾処のようなところで漁をしている小舟を見かけた。
なんというのんびりとした光景だろうか。しかし、アップで撮ると網をしかけているのがわかって少しがっかりした。
また、アスワンのエレファンティネ島へのボート乗り場からアスワンダムに繋がる道路に沿って墓地があった。観光地ではないのでバスはスピードも落とさず通り抜けてしまったが、日干レンガでつくったのか、ドームのある古い墓廟が幾つか残っていた。トルファンで見たイスラームの墓に似ているようだった。
※参考文献
「図説古代エジプト2 王家の谷と神々の遺産篇」(仁田三夫 1998年 河出書房新社)
「地球の歩き方E02 エジプト 09-10年版」(2008年 ダイヤモンド社)
2010/08/09
エレファンティネ島にはもう1つのナイロメーター
先ほど見たナイロメーターと同じように、クヌム神殿の遺構がエレファンティネ島の東端に並んでいる。戻っていると、来た時にも遺跡の柱に紙を押しつけて何か書き込んでいる人がまだいた。この人は帰りの船からもまだここにいるのが見えた。
島の神殿はジェゼル王が建て直した以降も何度となく修復や建て直しが行われてきただろう。そして、段々と規模が大きくなって、東端に迫り出してきた。この遺構はクヌム神殿の中では最も新しいものの一つだと思う。川から見た写真はこちら
先ほど下ったところを登っていく。
登り詰めると別の遺構があった。一番外側に小さなオベリスクなどが並んでいる。
下っていくとオベリスクの前に聖なる池があった。神官たちが儀式の前に階段から下りて水で身を清めたのだろう。
近寄ると底の部分は岩がむき出しになっていて、その岩にも甌穴があった。
先ほど見えたのは後期クヌム神殿のテラス欄干だった。小さなオベリスクや祠が並んでいるが、その前の浸食された岩の方に目が向く。
北側にも階段が設けられていた。
北東の角には開口部がある。ナイルの増水期には水が入り込んできただろう。
ところがこれは聖なる池ではないことが、石のプレートに記された名称で判明した。クヌム神殿のナイロメーターだったのだ。ナイロメーターは、石に刻まれた目盛りのあるものだと思っていたが、このような階段状のものもあるらしい。
ナイルの増水を測るのには、あれほど細かい目盛りが必要だったのだろうか。このような石の段の目盛りで十分だったのではないかと、ここがナイロメーターを知った今ではそう考えている。
そういえば、先ほど見たナイロメーターには「サテト神殿のナイロメーター」というプレートがあったなあ。
サテト神殿のナイロメーターはこちら
クヌム神殿の案内図はこちら
2010/08/04
エレファンティネ島にはナイロメーター
エレファンティネ島はナイロメーターがあることでも有名である。それは島の東端にあるらしい。
正面に見えるのはオールドカタラクトホテル。現在は改装中だが、アガサ・クリスティが滞在して「ナイルに死す」を執筆したホテルだ。クリスティはクヌム神殿を眺めながら作品の構想を練っていたのだろうか。ひょっとすると散策に来ていたかも。
ナイロメーターは説明パネルで⑩だったので、東端の方に下りていき左折。見学できる一番北端にあった。写真で見たような四角い石に刻まれたものと、白い石(大理石?)に刻まれた細長いものとがあった。四角い石は数字で、白い石はアルファベットで、上から順に番号をつけてみた。
どちらも等間隔に並んでいるのではないが、四角い石の目盛りの一番下が、次の四角い石の一番上の目盛りとレベルが合わせてあるのがわかる。白い石の方は離れているので気づかなかったが、おそらく同じようになっていたのだろう。
中には割れているナイロメーターもある。
一番下は右の方に開けていた。
曲がり角から上を見上げる。狭いところだが、他に見学者がいなかったので、じっくりと写真を撮ることができた。
中には、かつてナイロメーターだったらしく、目盛りの跡がかすかにわかる石もあった。
四角い石のナイロメーターは角を曲がって15個あった。白い石のナイロメーターは9個。
ナイロメーターの水の入ってくるところから東岸を眺める。このあたりの自然のままの岩にはところどころにヒエログリフが浮彫されている。ここから対岸の大きな岩にもあるのが見えたが、洪水を願って刻まれたのだろうか。
ナイル川から見ると、開口部から少し離れて四角い石のナイロメーターがあった。水中にもまだ幾つかのナイロメーターがあるのだろうなあ。
現在ではアスワンハイダムのおかげで増水期でも石壁が黒く変色した辺りまでしか水量は増えないが、それまでは一番上のところまで増水することもあったのだろう。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、定期的に氾濫するとはいっても、その増水の幅は年ごとにまちまちである。そそのため、ナイル川の水をいかにコントロールするかということに、歴代の王たちは腐心してきたのである。
河岸のいたるところにナイロメーター(水位計)を設けて増水の幅を記録し、氾濫の規模や時間を予測した。そして大勢の人々を動員して土木工事を行い灌漑網を整備した。それでもナイル川の水の量自体を調節することはできないから、最後の手段は神頼みであるという。
それでジェゼル王はアスワンにやってきて、イムヘテプという人物に出会ったのだった。それ以前は神殿も日干レンガで造られていたとしても、ナイロメーターが日干レンガ製では役に立たなかっただろうなあ。このナイロメーターはローマ時代のもの(同書より)。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(1996年 講談社+α文庫)
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