ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/06/29
サッカラのピラミッド複合体3 列柱廊
ピラミッド複合体へは東周壁の南の端に近い入口から列柱廊を通っていく。まず狭い入口を入ると、暗い通路が待ち受けている。2人で並んで通ることができないほど狭さだ。その天井は丸太形に成形した石を並べている。
やっと明るくなってほっとしたと思ったらそれが列柱廊だった。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、周壁の南東角の入口から足を踏み込むと、まず、天井のある長い柱廊が伸びている。側壁の高いとさころについた小さな窓からさしこんでくる光をたよりに、薄暗いな中を通っていくというが、先ほどの通路から比べると十分に明るい。
列柱廊は円柱が並んでいるのではなかった。円柱は両側の壁から独立していない。壁から伸びた小壁の先が円柱のように細工されているのだった。
下を向いて歩いている分には円柱が並んでいるように見える。擬似円柱は、長い葦の茎を束ねたように刳りが施された石を積み重ねて造られている。
『世界遺産を旅する12』の平面図には列柱廊の右側途中に偽扉があるので、右壁に気をつけて進んでいたらこんな開口部を発見。これは偽扉ではないだろうなあ。
壁面から小壁が出て、その端が葦を束ねたようになっている。それは正確には円柱ではなく、付け柱でもない。擬似円柱とでも表現した方が正しいかも。しかし、それは柱に見せかけたというのではなく、天井を支えるための柱を独立して立てる技術がまだなかったのではないかと思わせるものだった。
天井は、オリジナルの石の板を被せたのではなく、修復でこのようになったのだと思って通った。
だいぶ進んだところで、左向こうに天井まで達した柱があった。そこには擬似円柱の元の2つの小壁の間の天井が復元されていた。やっぱり丸太状の石を並べている。
その後しばらく「列柱廊」を歩いた。空が見えてきたと思ったら、4本の「円柱」の向こうは中庭だった。
それをくぐり抜けると、いきなり明るい光に満ちた広い中庭が目に飛び込んでくるというが、空がどんよりしていたこともあって、それほどの印象もない。
中庭から振り返ると4本の「円柱」の外にも凹凸のある壁があったようだ。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
2010/06/25
サッカラのピラミッド複合体2 周壁も石積み
ジェゼル王の階段ピラミッドは壁に囲まれていた。その周壁内には階段ピラミッドだけでなく、セド祭殿や葬祭殿、その他にも様々な建物があった。そのようなものをピラミッド複合体(コンプレクス)と呼ぶらしい。
ピラミッドが石で造られていたとしても、周壁は日干レンガだろう、それが崩れたまま残っているのだろう、東側からピラミッド複合体を眺めるとそう思う。
ガイドさんの後を歩いて行くと、前方には低い壇状のものが並んでいる。マスタバだろうか。そして右側に視界を遮るものが・・・周壁が復元されていて、テラコッタのようだ。
それは場違いなほど真新しい壁面だった。前2650年頃といわれるジェゼル王の階段ピラミッドと、周りの廃墟、そして砂という光景にまったく似合わない。
それにしても壁面には縦にまっすぐな刳りが整然と並んでいる。そして入口のある壁面が一番出ていて、その両側が凹んだ壁面、その向こうが凸の壁面、また凹の壁面・・・というように、2、3本の刳りのある面が凹凸を繰り返している。このような壁面はメソポタミアの建物に似ているのでは。
しかしガイドさんは言った、これは原初の水から陸が出現したところを表しています。
この壁面の中央が入口らしい。早く入りたい。
しかし、ガイドさんの説明は終わらない。ジェゼル王のピラミッドと言えば地下の青いファイアンスタイルが有名ですが、この壁面にも当初は青いファイアンスタイルが貼り付けられていました。ところどころ四角い凹みがあります。
これはどこにも書いていなかった。四角くへこんだところを目で追うと、先ほどまで真新しいと思っていた壁面には崩落の際に欠けた部分などが見えてきた。新しい石材を使ったのではなく、崩壊していたのを復元したものであることがわかってきた。
確かに同じ大きさの四角形が等間隔に並んでいる。
ファイアンスタイルが貼り付いていたらこんな感じかな。
いよいよジェゼル王のピラミッド複合体の中へ。天井には丸太のようなものが並んでいるのが見えた。
※参考文献
「世界遺産を旅する12 エジプト・アフリカ」(1999年 近畿日本ツーリスト)
2010/06/22
サッカラの階段ピラミッドへ
ナイル両岸の緑地帯にはナイルから水を引いた水路が広い物、狭い物たくさんある。移動する時は水路の脇に付けられた道を通ることになる。この付近一帯はナツメヤシ農園が多い。
階段ピラミッドへは緑地帯の西の端から河岸段丘をのぼっていく。
ナツメヤシ林を過ぎて坂を上りかけて右へそれる。イムホテプ博物館の前でトイレ休憩。この駐車場からナツメヤシ林を眺める。
道路に戻ると砂一色の世界。岩山も積もった砂も同じ色なので見分けがつかないが、遺構のようなものが目の前をよぎった。
遺跡らしいと眺めていたら丘の上に階段ピラミッドが見えた。
しかし、すぐそこのようでなかなか近づけない。河岸段丘の岩山の上へと進んでいくと、右側に砂山のようなものが現れた。テティのピラミッドらしい。テティは第6王朝初代(前2345年~)の王なので、ジェゼル王(第3王朝初代、前2686年~)の階段ピラミッドよりも300年ほど後に造られたのに崩れ方がひどい。
左側にウセルカフ王(第5王朝初代、前2494年~)のピラミッドが見えてきた。こちらも階段ピラミッドよりも後世に造られたのに、瓦礫がピラミッド状に積まれてる風に見える。
ガイドさんの説明では、王朝の力が弱まった頃に造られたので、外側は石でも内部が日干レンガで造られたりして、構造的に弱いらしい。
だいぶ近づき、6段のうち5段が見えた。すると突然ピラミッドが崩壊?いや、砂嵐などで石の段に積もった砂が落ちる砂煙だった。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、第3王朝に入ると、いよいよピラミッド時代の幕開けである。
その皮切りとなったのは、エジプト史上初のピラミッドとして知られるジェゼル王の階段ピラミッドだ。
サッカラに聳えるこの巨大な建築物は、下から上に行くにつれてだんだん小さくなる6段の階段状になっており、その基底部は東西方向に約140m、南北方向に約128m。全体の高さは約60mである。
建築材料は、それまでの建築物やマスタバのほとんどが日乾レンガを素材としていたのに対し、ここでは石材が用いられている。
この変化のもつ意味は重要である。古代エジプトでは、王宮であれ、一般の民家であれ、人々が実際に住む家に石材が使われることはなかったという。
このジェゼル王のピラミッドは、のちの他のピラミッド群と比較しても、きわめて特異な性格をもっている。それは、ピラミッドを含む敷地全体が高い塀で囲まれ、その全体が外界と完璧に隔絶された空間を構成している点だ。
周壁は東西に277m、南北に545mの正確な長方形をなし、その中央に階段ピラミッドが位置しているという。
しかし、実際には東側の周壁は崩れていて、セド祭殿の建物が見えている。
だからといって、どこからでも複合体の中に入って良いというものでもないようだった。
※ カメラで撮影したものは空がどんよりと曇っていますが、ビデオ撮影したものを画像として添付したものは青空になっています。雨粒が窓ガラスに付くくらいなので、青空ではありませんでした。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「世界遺産を旅する12 エジプト・アフリカ」(1999年 近畿日本ツーリスト)
2010/06/18
偽扉とは
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、首都メンフィスに近い下エジプトのサッカラには、王族や貴族たちが、マスタバとよばれる墓をつくるようになった。
第2王朝になると、偽扉がかならずつくられ、「バー」(魂)の出入口としての位置を表すようになるという。
しかし、第2王朝や第3王朝の偽扉は探し出せなかった。
カイハプの偽扉 古王国時代第5王朝(前2494-2345年頃) サッカラ出土 石灰岩 高209.0㎝幅142.0㎝厚19.0㎝ 大英博物館蔵
『大英博物館古代エジプト展図録』は、2枚の石碑を組み合わせた形をとり、供物を乞う祈禱文を記す。古代エジプトでは死者の魂(カア)が来世で復活するためには供物として新鮮な食物が絶えず必要であると考えられていた。偽扉は、死者の魂が遺族の捧げた供物を受け取ろうと地下の埋葬室から墓の礼拝堂へ抜けるための、象徴的な通路としての役割を果たしていたという。
中央のくぼんだところには丸太のようなものが表されていて、ジェゼル王の偽扉に似ている。扉の開口部は中央の丸太の下の部分だろう。
イイカーの偽扉 古王国第5王朝(前2400年頃) サッカーラ出土 アカシアの木 浮彫り 200X150㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、サッカーラのウニス王のピラミッドの参道の下から発見されたものであるが、その正確な位置は明らかではない。元来は発見された場所にマスタバ墳が存在していたと思われるが、詳細は不明である。ピラミッド参道の造営者であるウニス王が第5王朝時代の王であることから、マスタバ墳の年代はそれ以前のものと推定され、表面には銘文と浮彫が施されているという。
この偽扉も、中央のくぼんだところに丸太のようなものが表されている。当時は葦で作った簾を戸口に垂らしていたのだろうか。そして簾のようなものを巻き上げているのは、供物が捧げられるのを待っているからだろうか。
アンケトの偽扉 古王国第6王朝時代(前2345-2181年頃) サッカラ出土 石灰岩 高さ74㎝幅49.5㎝奥行き13.5㎝ ウィーン美術史美術館蔵
『ウィーン美術史美術館所蔵古代エジプト展図録』は、一般に古王国時代の偽扉は建物の外見を示し中央に入口部を持つ形態をしており、墓の中に納められたものであるという。
第3王朝、ジェゼル王の偽扉は高さ184㎝、第5王朝の上の2つの偽扉が200㎝ほどと、実物の扉と同じくらいの大きさにつくられているようだが、第6王朝になるとその半分以下の大きさになっている。特に中央の扉のところは狭く小さい。偽扉の意味も薄れてしまったかのようだ。
書記イメムの偽扉 古王国第5~6王朝時代 サッカラ出土 石灰岩、彩色 高さ103.5㎝幅73.5㎝厚さ19.9㎝
『四大文明エジプト文明展図録』は、第5王朝最後の王であるウナス王のピラミッド複合体周辺で発見された。上部には青と緑が交互に塗られた軒蛇腹が表現されているという。
頂部が出た軒蛇腹はアンケトの偽扉にも表されている。エジプトではプトレマイオス朝になっても、建物の頂部にはこのような反りが見られるが、それが古王国時代にすでに出現していることが、このような模型でわかる。
偽扉は小型化して、本来供物を食べるために開く開口部が忘れ去られたようになってしまっても、扉周辺を表している。ジェゼル王のピラミッド複合体のファイアンスタイルの壁面にはもう1つのパターンがあるが、それには開口部が表されていないので、壁面装飾ではあるが偽扉ではないことがわかった。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「大英博物館古代エジプト展図録」(1999年 朝日新聞社・NHK)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1996年 小学館)
「ウィーン美術史美術館所蔵 古代エジプト展図録」(監修吉村作治 1999年 TBS)
「四大文明 エジプト文明展図録」(2000年 NHK)
2010/06/15
ジェド柱は葦を束ねたものか?
サッカラの階段ピラミッドや南の墓地下にある青いファイアンスタイルの壁の1つのパターンが表しているものが、葦の束を何本も並べている(『砂漠にもえたつ色彩展図録』)のか、ジェド柱(『世界美術大全集2エジプト美術』)か。
ひょっとすると、葦を束ねた形がジェド柱になったのだろうか。
ジェド柱形護符 シァイク・アブド・アル=クルナ地区出土 時代不明 ブロンズ 高6.1㎝幅2.3㎝
『早大エジプト発掘40年展図録』は、ジェド柱は穀物の穂をくくりつけた竿の形をした永遠性のシンボルである。冥界を永久に支配するオシリス神と深い関わりがあった。そのためファラオの王権と、死者のあの世での安全を守るお守りとしてとても好まれていたという。
ジェド柱は葦の束ではなく、竿だった。上半分は細かい刻線があり、ナツメヤシの葉を表しているように見えるが、穀物の穂を表していたようだ。
本来ジェド柱が穀物の穂を表したものだったとしても、時代が下がるにつれ、段々と変化していったようだ。新王国第18王朝(前1550-1295年頃)の彩文土器にはジェド柱から人間の腕が出ている。肘や掌にアンクを通して、それぞれの手にアンクやウアス杖を盛ったお椀をのせている。こんなジェド柱って何者?
ジェド柱を立てるセティⅠ夫妻の壁画 浅浮彫に彩色 新王国第19王朝(前1295-1186年頃) アビドス、セティⅠ葬祭殿
ジェド柱は大きい上に2枚の羽冠が付いている。
立てた後、右の場面(一部を撮し損ねたが)では、セティⅠが白い布をジェド柱に結び付けている様子が描かれている。ガイドさんは「ジェド柱はオシリス神の背骨」だと言っていた。
アビドスはグーグルマップでこちら
ジェド柱の壁画 ネフェルタリの墓玄室 新王国第19王朝(前1295-1186年頃) ルクソール西岸、王妃の谷
玄室の石棺を安置していた場所を囲んで角柱が4本ある。それぞれの角柱の石棺側にジェド柱が描かれていた。
「The Tomb of Nefertari HOUSE OF ETERNITY」は、ジェド柱はオシリス神の背骨の象徴となったという。角柱の中央側にはそれぞれオシリス神が描かれている。また、前室から玄室への下降通廊の両側には人の腕が出てウアス杖をそれぞれの手で持つジェド柱が描かれている。
王妃の谷はグーグルマップでこちら
ジェド柱は護符として長々と使われたようだ。
ジェド柱形護符 ファイアンス 末期王朝時代(前600年頃あるいは以降) 高9.4㎝ 大英博物館蔵
『大英博物館古代エジプト展図録』は、ジェド柱はヒエログリフの形をとり、「永続」と「安定」を意味する。護符の所有者は、このような資質を備えることができる。もともとは枝をはらった樹木の幹を様式化したもので、本作には4本の横木がみられる。ジェド柱は、当初はメンフィスの都市共同墓地の葬祭神ソカルや、後にはメンフィスの創造神プタハと確かに関係があり、ジェド柱を建てる儀式では、ロープで巨大な柱を引っ張って直立させていたという。
穀物の穂を縛り付けた竿でもなく、枝を払った樹木の幹という説もあった。
時代が下がって巨大なジェド柱を立てるようになったのかと思っていたが、かなり古い儀式だったのだ。
この柱の形をした護符が葬祭用のものになった頃には、ジェドは死者の神オシリスにのみ関連するものとなり、その背骨と肋骨を表すと考えられた。それにもかかわらず、本作では横木のすぐ下に、ロープがはっきりと線刻されているという。
アビドスのセティⅠ葬祭殿のジェド柱にもロープを巻いたとみられる線刻があるが、そこからロープはのびていない。立てるのに必要なロープではなく、ジェド柱の一部となってしまっている。
「死者の書」第155章では、ジェド柱の護符は金で作るとしているが、本作のように再生を象徴する緑色の素材で作ることが多いという。
これを緑色と見るか青色と見るか人によるだろうが、このようなファイアンスの色が再生を象徴する色というのは、ジェゼル王の時代にすでに成立していたのだろうか。
※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展図録」(吉村作治監修 2006年 RKB毎日放送株式会社)
「The Tomb of Nefertari」(Tiba Artistic Production)
「The Tomb of Nefertari HOUSE OF ETERNITY」(John K. McDonald 1996 The J.Paul Getty Trust)
「大英博物館古代エジプト展図録」(1999年 朝日新聞社・NHK)
2010/06/11
サッカラの階段ピラミッドの地下には複数のタイルパネル
サッカラの階段ピラミッドの地下には偽扉と葦を束ねた家屋という2種類のファイアンスタイルの壁面があるらしい。
何でも最初の物が見てみたいと思う私は、ピラミッドならギザの大きなものよりも、この階段ピラミッドを見たかった。乾燥したエジプトにあるので、ピラミッドは当然真っ青な空の下にあるものと思っていたが、不思議なことに空は土色に曇っていた(編集してやっとこの色になった)。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ファイアンスは古代エジプト語ではチェヘネト(『輝くもの』または『光沢のあるもの』の意)と呼ばれた。現存しているファイアンス製品の大半は青から青緑色をしているが、この独特の色が再生や復活のシンボルとみなされ、主に神殿や墓などの宗教的コンテクストのなかで多用された。
第三王朝時代(前2686-2613年頃)の第2番目の王、ジェゼルがサッカーラに築いた階段ピラミッドの地下通路を飾っていたファイアンスタイルの装飾はエジプトの美術史上でも特筆すべき建築装飾である。ピラミッド本体の北側に地下へ下降する通路が縦横に走っている。通路は途中で何本にもわかれ、そのうち一本は錯綜しながら玄室に至るが、玄室の東側通路の西壁全体にファイアンスタイルが施されているのであるという。
ガイドさんは遠くから階段ピラミッドを眺めながら、竪坑や錯綜する通路の図を見せてくれた。それは下図のような簡単なものではなかった。
『世界美術大全集2エジプト美術』は、内部の玄室や通路は増改築過程に従ってそのつど継ぎ足されたため、結果的に、蟻の巣状に掘り巡らされた複雑なものになっているという。
意図的に迷路状に造られたわけではなかったのだ。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、この場所は死せる王の魂が供物を受ける場所にあたり、偽扉と呼ばれる扉の形の彫刻がある。王の魂はその扉を通って現世にあらわれ供物を享受すると考えられていたという。
タイル象眼のパネル サッカーラ出土 高さ184㎝幅225㎝ 石灰岩・ファイアンス カイロ美術館
『原色世界の美術12エジプト』はカイロ美術館としているが、現在はカイロ、エジプト博物館と呼ばれている。世界のタイル博物館にあった写真とは同一の物ではないようだ。
同書は、サッカーラにある「ジェゼル王の階段ピラミッド」地下の未完の通廊の壁を飾っていたもので、石灰岩ブロックを重ね、その表面を彫り込み、青色釉のかかった小形のファイアンス製タイルを象眼し、全体をマットのように表現している。上方の円弧内にはオシリス神の「ジェッド柱(永遠の継続の象徴)」が配されているという。
驚いたことに、同じ大きさに作られていると思っていた青色のファイアンスタイルだが、このパネルには大きさも形も異なるタイルをそれぞれの位置に組み込んでいる。
それだけではない。同書がジェド柱とし、『砂漠にもえたつ色彩展図録』は葦を束ねて作った家屋を模している。等間隔に結わえた葦の束を何本も並べているとする部分の上半分は、横長の区画にナツメヤシの葉のようなものを刻線で表したタイルを嵌め込んでいる。
このようなパネルが6つの偽扉の間に嵌め込まれていたのだろうか。
偽扉 ジェゼル王の階段ピラミッド、南の墓地地下通廊内 古王国第3王朝(前2650年頃) 石灰岩・青釉タイル ファイアンス サッカーラ
『世界美術大全集2エジプト美術』は所属がカイロ・エジプト博物館ではなく、サッカーラになっている。まだ地下にこのままの状態であるのだろうか。
同書は、同種のタイルは、階段ピラミッドの南の周壁の部分に作られた南の墓地の地下にも見られる。その南墓は、ピラミッド地下の玄室の南約200mほどの位置にある象徴的な墓であり、玄室と南墓が一対の二重構造になっている。図版は、南の墓地地下通廊の偽扉の部分の浮彫りで、セド祭(王位更新祭)での「アピスの走行」の場面を描いたものであるという。
これは世界のタイル博物館で再現されていたものと同じものだ。同じ大きさの青いファイアンスタイルを嵌め込んで構成されている。
現在サッカラには、ナイル西岸に広がるナツメヤシ樹園の緑地帯が尽きて、ピラミッドのある河岸段丘へと向かう、ちょうど境目にイムホテプ博物館ができている。グーグルマップでこちら(アースにしてナツメヤシ林と砂漠の際を拡大すると細長く建物や駐車場などが出てきます)
エジプト航空の機内誌「HORUS」の1・2月号には「Visions of The Past」というザヒ・ハワース氏の文と共に、イムホテプ博物館内部の写真があった。奥にはジェゼル王の階段ピラミッドの地下の青いファイアンスタイルの壁面が並んでいる。ひょっとするとこの博物館にファイアンスタイルの壁面が集められたために、カイロ・エジプト博物館では見かけなかったのかも。
残念ながら、イムホテプ博物館はツアーには最初から入っていなかったので見学できなかった。
※参考文献
「図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」(仁田三夫編 1998年 河出書房新社)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
2010/06/08
世界のタイル博物館9 ジェゼル王の階段ピラミッドのファイアンスタイルの壁面
エジプトの青いファイアンスタイルと言えばジェゼル王(第3王朝、前27世紀)の階段ピラミッドのタイル壁面だ。それが世界のタイル博物館に、メソポタミアのクレイペグの壁の次に再現されていた。
ジェゼル王がセド祭で走っている場面が中央の白いパネルに浮彫になっていて、その上にはすだれを巻き上げたような円筒状のものがあり、両側にも青いファイアンスタイルが貼り付けられている。
外側の三方に白い帯状の浮彫があり、上側はヒエログリフ、両側にはジェゼル王の王名(まだカルトゥーシュになっていない)が連続して表される。その上と左右にも青いファイアンスタイルがぎっしりと並んでいる。タイルの真新しい感じは否めなかった。
そして、展示室の方には、青いファイアンスタイルの実物があった。
ファイアンス・タイル エジプト出土 前27世紀 世界のタイル博物館蔵
『世界のタイル日本のタイル』は、建築装飾素材としてのタイルの、ごく初期の遺例は、エジプトに見られる。ここに挙げるファイアンス・タイルは、世界最古の施釉タイルとされ、古代エジプト第3王朝・ジェゼル王の階段ピラミッドから見出された。石英を粉末にして練り固めた素地に、天然ソーダと酸化剤を混ぜて施釉してある。裏面には紐通しの穴が開いた凸状の足がついている。紐で連結し、壁面の溝に嵌め込んで張ったと考えられるという。
タイルの表側は曲面になっている。開放鋳型で作ったのだろうが、穴はどのようにあけたのだろう。開放鋳型についてはこちら
世界のタイル博物館で撮った画像は黄色がかってしまった。実物はここまで青緑色ではないが、上の壁面ほど真っ青でもなかった。
そしてカイロ博物館に復元されたタイル壁画の写真があった。しかしそれは復元されたものとは違っていた。2種類の壁面パネルがあるのだろうか。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』には下の写真とほぼ同じ図版が掲載されている。同書で山花京子氏は、ジェゼル王の地下東側通路には6枚の偽扉があり、その周辺と壁一面にタイルが施されているが、ちょうど葦を束ねて作った家屋を模している。青色~青緑色のタイルは平面的には長方形だが、断面を見ると凸形に盛り上がっている。これを横一列に並べてタイルの上下の間隔に白色プラスターの帯を入れると、等間隔に結わえた葦の束を何本も並べているように見える。本来は葦や木材などの朽ちやすい材料で造られていた王宮の外観をファイアンスタイルを使って模したのであろう。葦は古代エジプト人にとって来世の楽園である「イアル(葦)の野」とも象徴的に関連しており、さらにタイルの青色は水、生命や再生といった概念とも結びついているという。
どちらのパネルも階段ピラミッドの地下にあったようだ。
その後エジプト旅行に出かけた。カイロではエジプト博物館の見学も含まれていたので、本物のファイアンスタイルの壁面が見られるものと思っていた。
ところが、現地ガイドが説明しながらの見学にはファイアンスタイルは含まれていず、1時間弱の自由時間に館内を探して回ったが、見つけることができなかった。タイルのない、王が棍棒を振り上げる場面が浮彫された、目立たない壁面はあったが、ひょっとするとそれが先ほどの偽扉の1つだったのかも知れない。
館内は石製のものが多いため、全体に色としては地味だった。そんな中で青い色のものがれば目立つので、すぐに見つけられそうなものである。現在館内には展示されていないのではないかという結論に達し、諦めることができたのだった。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」(2000年 INAX出版)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
2010/06/04
エジプトにもファイアンスの器
エジプトと言えば彩釉タイルよりも青いファイアンスだ。
魚図鉢 新王国第18王朝(前1400年頃) テーベ、ディール・アル=マディーナ1382号墓出土 ファイアンスまたは陶器 青釉 口径17.0㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、ファイアンス製あるいは陶製の青い釉薬を施した鉢形容器は、中王国時代に作られた外面にロータスの花弁の装飾をもつ碗型容器から発展して、新王国時代の初頭からしばしば製作されるようになった。器自体に塗られた釉薬の明るい青を背景に、マンガンを使った濃い紫色あるいは暗褐色で描かれた装飾は、通常ナイル川の水や自然になんらか関連しているという。
マンガンは釉薬に溶けたり滲んだりしないことが経験的にわかっていたため、このような細かい絵柄の絵付けに使われたのだろう。
器ではないが、置物のファイアンスもある。
カバ 中王国第12王朝(前1985-1773年) テーベ出土 高さ10㎝ 国立カイロ博物館蔵
『原色世界の美術12エジプト』は、第11王朝頃から、施釉のファイアンス製のカバが副葬品として現れ、第12王朝まで盛んになったが、以後すっかり姿を消した。
本図は、青色釉のかかった上に、顔から頭にかけてスイレンの花と蕾、横腹に2本のパピルス草とその茎に休む鳥が描かれている(反対側にはチョウがとまる)。おそらくカバの住む沼沢地の光景を表したものであろうという。
絵柄は簡素だが、やはり黒い線で描かれている。中王国時代に作られた外面にロータスの花弁の装飾をもつ碗型容器というのも黒い線で連弁のようなものが描かれていたのだろうか。
ファイアンス製品 初期王朝時代(前3000-2686年頃) アブ・シール丘陵南斜面岩窟遺構出土 2.8-5.5X2.0-2.7㎝
『早大エジプト発掘40年展図録』は、下図左より、葦の祠堂をモデルにしたもの、4面に長い顎鬚のある外国人の顔を表現したもの、縦横の線が刻まれた円筒形のものや円錐形のビーズなどが発見されている。本来の用途は分からないが、同じようなビーズは、アビドスのオシリス神殿に納められたものに見られる。他のファイアンス製品と同じく、奉納品として使用されたのだろうという。
装飾品ではなかったようだ。器よりも先にこのような小さなものが作られていたようだ。
初期王朝時代には黒い線はなく、線刻または鋳型で凹みを作ったように見える。
ところで、ファイアンス製品が最初に作られたのは、エジプトかメソポタミアか。
『ガラスの考古学』は、ガラスの起源は、釉の存在と結び付けて考えるのが一般的である。何故なら、ガラスとは、釉が陶器など施釉製品の表面から離れて、独自で形態を持ったものだからである。釉とは、粘土やその他の物質を核として、その表面にガラス質の膜を被せたものをいう。
施釉石 施釉形態は、加工した石の表面に、銅鉱石であるマラカイト(孔雀石)の粉などを施して焼成したもので、マラカイトの場合、銅が着色剤となり青緑色を呈し、これにカルシウムなどが作用すると白色を呈した。
メソポタミアにおいては、アルパチアの子供墓から出土した凍石製白色環状珠(Mallowan 1935)がウバイドⅢ期(前41世紀前後)に属するとされ、現在知るかぎりもっとも古い。
エジプトではバダリ出土の凍石製青緑色珠(Moorey 1985)(バダリ期、前41世紀)が知られているものの、これに続く先史時代の確実な出土例に乏しく、 略 エジプトは基本的には農業国で、その豊かな経済力を背景に、工業技術の進んだシリア・メソポタミアから、最新の製品や技術を取り入れていたものと考えられる。
ファイアンス 可塑性に富んだ石英微粒砂に少量のアルカリ溶剤(釉)を加えて焼結させたもので、一般にファイアンスと呼ばれている。初現はやはりメソポタミアにおいてである。
同一のアルパチアの子供墓から出土している。
これに対しエジプトでは、ナカダⅠ層(アムラー期、前38世紀前後)出土の緑色珠(Vandiver 1983)が初現とされるが、かつて考えられていたほどにはファイアンスは先史エジプトにおいて一般的ではなかったようであるという。
『古代ガラスの技と美』も同じように、メソポタミアからエジプトに導入されたものと考えられている。
前41世紀のアルパチアの子供墓から出土した凍石製白色環状珠やファイアンスが見てみたいものだ。どちらも発掘したマローワン(アガサ・クリスティーの夫)は英国の考古学者なので、大英博物館に行けば見られるかも。
※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展図録」(2006年 RKB毎日放送株式会社)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
「四大文明 メソポタミア文明展図録」(2000年 NHK)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(編者古代オリエント博物館・岡山市オリエント美術館 2001年 山川出版社)
2010/06/01
世界のタイル博物館8 エジプトのタイル
世界のタイル博物館にはエジプトのタイルもあった。
ヒエログリフ文施釉タイル エジプト出土 前13世紀頃 49~64X39~44 世界のタイル博物館蔵
『世界のタイル日本のタイル』は、前1400-1300年頃、エジプトで、さまざまな釉を用いたファイアンス、象眼タイル、多彩色タイルなどがつくられるという。
メソポタミアでみてきた彩釉レンガと比べるとかなり小さく薄い。どちらかというとタイルと聞いて思い浮かべる大きさで厚さだ。そして文様がヒエログリフだけで線刻して凹みに色釉を充填したような感じだ。
エジプトのタイルは他でも見たことがある。
捕虜の図タイル テーベ、ラメセス3世葬祭殿跡(メディネト・ハブ)出土 第20王朝(前1160年頃)
『世界美術大全集2エジプト美術』は、この多色ファイアンスのタイルは、テーベ西岸に築かれたラメセス3世の葬祭殿から出土した。元来、建造物の一部に嵌め込まれていたと思われる。これらのタイルには、エジプト周辺の異民族がそれぞれの民族衣装をまとい、自由を奪われた不自然な姿で描かれていて、異民族の捕虜たちを表す構図の一部であったと思われる。第19王朝時代になって多色ファイアンスのタイルにこの構図が描かれ、建造物、とくに玉座付近の王がしばしば踏みしめることになる足元近くに嵌め込まれるようになったという。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、捕虜の形を浮き彫りにした地タイルの上に色を載せて焼成したものだが、発色が美しく、かつ色同士のにじみが少ない。当時のタイル製作技術の高さ、とりわけ温度調節管理の妙を感じさせるという。
色釉を溶ける温度の高い順番に付けては焼き、付けては焼きを繰り返したということだろうか。
植物文ファイアンス装飾 カンティール出土 新王国第19王朝時代(前1279-1212年頃)
ファイアンスタイルを多用した建築物としてはラメセス2世(前1279-1212年頃)がカンティールに築いた王宮址。植物文様の壁面装飾がある。多色タイルを帯状に連ねて恐らく王宮のボーダー飾りとして使われたもので、青ロータス(蓮)の花は緑と青、赤、黄で彩色され、隣には薄青色の葡萄や白い花弁の花が黄色地のタイルに埋め込まれている。これは古王国時代から続く手法を踏襲しているもので、部分的に貼りつけたり、地タイルの上に他の色のファイアンスを焼きつけて製作しているという。
かなり複雑な工程があるようだが、黒い輪郭線は見られない。
葦間の仔牛タイル アマルナ出土 新王国第18王朝アマルナ時代(前1352-1336年頃) ルーヴル美術館蔵
アマルナ時代にとりわけ好まれたフリーハンドによるファイアンスタイル作りは自由な自然の美を観る者に訴えかけている。白い四角の地タイルに顔料を加えたファイアンス原料を絵画のように棒または筆状のもので描き、焼成している。構図の輪郭はマンガンで描かれ紫がかった黒色を呈しているという。
透明な薄茶色が釉薬なのか経年変化なのかわからないが、その色と緑色が輪郭線からはみ出している。
現在のところ、エジプトで多色ファイアンス・タイルは前14世紀のものが最も古い。
メソポタミアで最も古い例は、アッシュール出土の神殿前面を飾る彩釉煉瓦積みパネル(前12世紀)だが、『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、すでに長い経験を経た完成度を感じさせる作品であると、それ以前から行われていたことを示唆している。
どちらが早いのだろうか。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」(2000年 INAX出版)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
ヒエログリフ文施釉タイル エジプト出土 前13世紀頃 49~64X39~44 世界のタイル博物館蔵
『世界のタイル日本のタイル』は、前1400-1300年頃、エジプトで、さまざまな釉を用いたファイアンス、象眼タイル、多彩色タイルなどがつくられるという。
メソポタミアでみてきた彩釉レンガと比べるとかなり小さく薄い。どちらかというとタイルと聞いて思い浮かべる大きさで厚さだ。そして文様がヒエログリフだけで線刻して凹みに色釉を充填したような感じだ。
エジプトのタイルは他でも見たことがある。
捕虜の図タイル テーベ、ラメセス3世葬祭殿跡(メディネト・ハブ)出土 第20王朝(前1160年頃)
『世界美術大全集2エジプト美術』は、この多色ファイアンスのタイルは、テーベ西岸に築かれたラメセス3世の葬祭殿から出土した。元来、建造物の一部に嵌め込まれていたと思われる。これらのタイルには、エジプト周辺の異民族がそれぞれの民族衣装をまとい、自由を奪われた不自然な姿で描かれていて、異民族の捕虜たちを表す構図の一部であったと思われる。第19王朝時代になって多色ファイアンスのタイルにこの構図が描かれ、建造物、とくに玉座付近の王がしばしば踏みしめることになる足元近くに嵌め込まれるようになったという。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、捕虜の形を浮き彫りにした地タイルの上に色を載せて焼成したものだが、発色が美しく、かつ色同士のにじみが少ない。当時のタイル製作技術の高さ、とりわけ温度調節管理の妙を感じさせるという。
色釉を溶ける温度の高い順番に付けては焼き、付けては焼きを繰り返したということだろうか。
植物文ファイアンス装飾 カンティール出土 新王国第19王朝時代(前1279-1212年頃)
ファイアンスタイルを多用した建築物としてはラメセス2世(前1279-1212年頃)がカンティールに築いた王宮址。植物文様の壁面装飾がある。多色タイルを帯状に連ねて恐らく王宮のボーダー飾りとして使われたもので、青ロータス(蓮)の花は緑と青、赤、黄で彩色され、隣には薄青色の葡萄や白い花弁の花が黄色地のタイルに埋め込まれている。これは古王国時代から続く手法を踏襲しているもので、部分的に貼りつけたり、地タイルの上に他の色のファイアンスを焼きつけて製作しているという。
かなり複雑な工程があるようだが、黒い輪郭線は見られない。
葦間の仔牛タイル アマルナ出土 新王国第18王朝アマルナ時代(前1352-1336年頃) ルーヴル美術館蔵
アマルナ時代にとりわけ好まれたフリーハンドによるファイアンスタイル作りは自由な自然の美を観る者に訴えかけている。白い四角の地タイルに顔料を加えたファイアンス原料を絵画のように棒または筆状のもので描き、焼成している。構図の輪郭はマンガンで描かれ紫がかった黒色を呈しているという。
透明な薄茶色が釉薬なのか経年変化なのかわからないが、その色と緑色が輪郭線からはみ出している。
現在のところ、エジプトで多色ファイアンス・タイルは前14世紀のものが最も古い。
メソポタミアで最も古い例は、アッシュール出土の神殿前面を飾る彩釉煉瓦積みパネル(前12世紀)だが、『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、すでに長い経験を経た完成度を感じさせる作品であると、それ以前から行われていたことを示唆している。
どちらが早いのだろうか。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」(2000年 INAX出版)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
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