お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/05/29

メソポタミアの粒金細工はアケメネス朝へ

 
粒金細工は、現存する作品としては今のところメソポタミアが最も古い。だからといって決して遺品は時代による変遷を知るほどには多くない。少ない中からメソポタミアの粒金細工がメソポタミア及び周辺地域で、どのように受け継がれていったかみてみよう。

ブレスレット 金・ガラス カッシート時代(前13世紀) バグダード、イラク国立博物館蔵
カッシートとはどのような人たちだったのだろう。『ビジュアル考古学4メソポタミア』は、カッシート人の祖国は、現代のイランのルリスタン渓谷にあったと考えられている。
ヒッタイトの撤退後、カッシート人が権力をにぎることになった。カッシート人は、おおかた平和裡に4世紀にわたって権力を保持した。歴史ではよくみられることだが、外国の王たちはみずからが征服した国の文化に吸収され、古代メソポタミアの伝統を永らえさせつづけた
という。カッシート時代は前16-12世紀とされている。
ブレスレットは数も大きさも不揃いな金の粒で菱形を形成している。中には整然と並んだものもあるが、金の粒が飛び出してきそうなものもある。
その上下には二重の組紐文があり、どうも地金から浮いているように見えるが、ウル王墓出土黄金の短刀の鞘(ウル第1王朝、前2600-2500年頃)には一重の組紐文がすでにあるので、これもその流れをくんでいることになる。また、文様あるいは文様帯の両端に粒金細工を並べるというのも鞘にすでに見られる。
この浮いているあたりをじっくり見ると、当時どのように金の粒を鑞付けしていたのか、少しはわかりそうな気がする。 金帯 長51.2㎝ メソポタミアまたはイラン西部出土 前8-6世紀 MIHO MUSEUM蔵
『MIHO MUSEUM南館図録』(以下『南館図録』)は、外向きに粒金細工の三角形を2列並べる端飾の金板を有する。この三角形の列は、おのおの3本の金線を巻いた3条の組紐文で縁取りされており、その外側には各1条のまっすぐな金線がある。金板の縁には、現状では断片になっているが、一筋の見事な粒金細工がある。粒金細工を区切るために二重の組紐文を使用することは、紀元前2千年紀半ばのメソポタミアおよび紀元前12世紀のイランに作例があるという。
カッシート時代のものよりも地金によく貼り付いていて、金の粒の大きさもそろっている。 金製首飾り 重45.0g 前1千年紀 ギーラーン州キャルーラズ出土
『ペルシア文明展図録』は、円筒形56珠、卍形3珠、球形31珠のビーズを綴った首飾り。前1千年紀のイラン北西部ギーラーン州では金製品の出土が数多く報告されるという。
1千年紀というと前1000から前1年と非常に幅広いが、図録は、アケメネス朝ペルシア(前550年建国)以前の作品とみているようだ。
円筒の列点文は裏から打ち出しているが、卍形は周縁に金の粒を一重に並べている。その中に9個の金の粒による菱形を各3つ配置しているが、あまりこなれた技術のようには見えない。卍の中心には金の粒を円形に並べ、中央には貴石ではなく金の半球をかぶせ、その周囲にも金の粒か打ち出しによる7個ほどの出っ張りがある。
4頭立て戦車模型 金製 オクサス遺宝 幅18.8㎝ 前5-4世紀 大英博物館蔵
手綱をとる御者と腰をかけた人物を乗せた馬4頭立ての二輪戦車
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、中央アジア南西部のオクサス中流域(タジキスタン南部、タフティ・サンギーン?)の神殿の奉納品(いわゆるオクサス遺宝)の一部と考えられているので、実戦用というよりもむしろ儀礼用の戦車であろう。
戦車方形の板の中央にはベス神の頭部が災いを防ぐために表されている。御者および王侯はイラン式の丈の長い長袖の衣服をまとい、頭巾(帽子)をかぶり、首輪をつけている。この王侯はアケメネス朝の帝王ではないので、バクトリアなどの総督か地方貴族であろう
という(他の図版は御者の左手側に王侯が立っているので、この図版は左右反転したものだろう)。
大きな車輪の外側に等間隔で丸いものがついている。それが戦車にどのような機能があったのかわからないが、粒金だろう。双獅子頭装飾ブレスレット 金、貴石の象嵌、ガラスの練物 高約4.5㎝幅約6.2㎝重27.4g アケメネス朝ペルシア(前4世紀頃)
『南館図録』は、カフスの装飾的な左右対称の渦巻き文の横には小さな舌状文が並び、色ガラスの練物の象嵌によって飾られている。この象嵌の技術は黒海沿岸のグレコ・ペルシア様式の金属工芸品では一般的である。竪琴のようなモティーフは、アケメネス朝時代後期のみならず、ヘレニズム時代初期にまで達する。ギリシアないしは少なくともヘレニズム化された技術によって作られた、動物の頭部をもつブレスレットの多くにみられる。
この作品がどのような文化に属するかといえば、黒海周辺の地域にあったと想定されるグレコ・ペルシアの工房と同じ文化圏に帰属しよう。西アジアの特徴である鋸歯文を用いた例は黒海北岸の金属工芸品には知られておらず、ライオンの頭部の細部はアケメネス朝の作例の細部に似ているから、前4世紀の小アジアの工房の作とするのが最も適切であるとみられる
という。
アケメネス朝はどんどん拡張し、アナトリアもその領土となっていたので、これもペルシアの作品となる。  アケメネス朝ペルシアの粒金細工は、メソポタミアから受け継いだ意匠が洗練されていったが、それだけでなく、拡大して新しく版図となった地域でも、それぞれに地域性を残しながら存続していったようだ。アレクサンドロス大王がペルシアを滅ぼした後は、粒金細工はどうなっていったのだろう。

※参考文献
「ビジュアル考古学4 メソポタミア」(編集主幹吉村作治 1998年 NEWTONアーキオ)
「ビジュアル考古学11 大帝国ペルシア」(編集主幹吉村作治 1999年 NEWTONアーキオ)
「世界美術大全集東洋編16西アジア」(2000年 小学館)
「ペルシア文明展 煌めく7000年の至宝 図録」(2006年 朝日新聞社)
「MIHO MUSEUM 南館図録」(監修杉村棟 1997年 MIHO MUSEUM)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい) 

2009/05/26

エジプトの粒金細工よりも

 
粒金細工について『知の再発見双書37エトルリア文明』(以下エトルリア文明)は、紀元前2000年代初めのエジプトにもこの技術は見られるとあったので探してみた。

ラムセスXI世の銘入り耳飾り 金 幅4.8㎝長16.0㎝ アビドス出土 新王国第20王朝時代(前1170-1070年) カイロ考古学博物館蔵
「四大文明エジプト文明展図録」(以下エジプト文明展図録)は、アビドスにあるオシリス神殿の至聖所の下の石棺に埋葬された、女性のミイラとともに発見された。デザインは、日輪を戴く聖蛇ウラウエスを組み合わせたもの。上部は5匹のウラウエスが付けられた円盤と、有翼日輪を線刻で表した長方形の部分からなり、裏面には、新王国第20王朝10代目の王ラムセスXI世の王名が刻まれているという。
残念ながら、粒金についての記述がないが、金の粒を組み合わせて三角形を形成しているのは明らかだ。三角形の頂点の金の粒が浮いているものもある。地金に金の粒を1つ1つ鑞付けしていったのではなく、金の粒どうしを鑞付けしながら三角形を作って、それを地金に鑞付けしたのだろうか。
また有翼日輪は、図版を見る限り土台に線刻したのではなく、金を薄くのばした板を透彫にして土台に貼り付けているようだ。上側の翼の端が浮いているのが見えるのだが、この程度の厚さのものは当時金箔と見なしていたかはわからない。  ティイ像頭部 アル・ファイユームのグラーブ出土 
『ビジュアル考古学1ファラオの王国』は、アメンヘテプ3世の妃であり、アメンヘテプ4世の母という。
『エジプト文明展図録』も『黄金のエジプト王朝展図録』も、前1400年頃、アメンヘテプ3世の頃王朝の絶頂期を迎える としているので、ティイ像は前14世紀前半だろう。
何故か左右非対称で、左耳の耳飾りだけが見えるように作られている。耳飾りには2匹のウラウエスが付けられていて、髪に見え隠れする日輪の前にウラウエスの小さな頭部があって、それが金の粒のように見える。  ハトホル女神のブレスレット 金 径7㎝ 出土地不明 新王国第18王朝(前1567-1320年頃) カイロ考古学博物館蔵
『黄金のエジプト王朝展図録』は、古代エジプトの人々は、上腕部や手首にさまざまな腕輪をつけていた。当時の装身具職人たちの腕前は一級であり、金属の板を輪にして作ったものもあれば、ビーズを連ねたものもあった。この腕輪は、2本の中空の金管をねじり合わせて作られている。両端は、角の間に日輪を頂く雌牛、すなわたハトホル女神の頭部をかたどっているという。
角と日輪の間に金の粒がならんでいる。中央に稜線が通っていて、額の左右に3つの丸い輪を作ってそれぞれに金の粒を1つずつ鑞付けしているように見える。そして大きな日輪を戴く 小さなウラウエスの頭部もひょっとして金の粒ではないだろうか。
結局エジプトでは前2000年代初の粒金細工を確認できなかった。しかし、もしその図版が見つかったとしても、ウル王墓出土の黄金の短刀の方が前2600-2500年頃とずっと古いので、今の段階では、粒金細工はメソポタミアで発明されたということになる。

※参考文献
「ビジュアル考古学1 ファラオの王国」(編集主幹吉村作治 1998年 NEWTONアーキオ)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「世界四大文明 エジプト文明展図録」(2000年 NHK)
「黄金のエジプト王朝展図録」(1990年 ファラオ・コミッティ)

2009/05/22

メソポタミアの粒金細工が最古かも

 
メソポタミアにはどのような粒金細工があるのだろう。

王妃の頭冠 金 高16㎝幅16-19㎝ 新アッシリア(前9世紀) イラク、ニムルド北西宮殿第3墓室出土 
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アッシュルナツィルパル2世(在位883-859)がニムルドに建立した北西宮殿の南側の部分は、王族の私的な空間として使用されていたが、この部分に連なる区域の床下から、7基以上のアッシリアの王妃たちの墳墓が発見された。
これらの墓室は前9~前8世紀のもので、第3墓室と呼ばれている墓からは、アッシュルナツィルパル2世の王妃であったムリッス・ムカンニシャト・ニヌアの名前を記録したタブレットが発見されており、被葬者を特定することができた。彼女はその息子のシャルマネセル3世の時代まで生きたと思われる。
身体にさまざまな宝石類をまとった状態で銅の箱に葬られており、ブレスレットやアンクレットなど、この墓だけで25㎏以上もの金製の副葬品が出土している
という。
シャルマネセル3世の在位期間は前858-828年なので、前9世紀の遺品である。
金製頭冠については、このような冠が出土したのは、世界でも初めてのことである。この頭冠の枠組みは金製の繊細な管によって形成されており、他のすべての装飾はその上に取り付けられている。側面部には、開花文とアネモネのような植物の莟(つぼみ)が3列に並んでいる。赤いアネモネは、現在でもニネヴェ近郊でよく見かける花であるという。
粒金細工については記述はないが、アネモネの蕾の丸い先端の周囲に巡っているのは、打出しによる円文ではなく、金の粒であることが、ところどころ金の粒がなくなっているところから推定できる。  髪飾 金・黒曜石 鍛造 長1.8㎝幅1.2㎝ 前20-19世紀 トルコ、キュルテペ、カニッシュ・カールムⅡ層出土 カイセリ博物館蔵
『トルコ三大文明展図録』は、両端に三日月形装飾を付けた金管を螺旋状に巻き上げたもの。三日月形装飾の背には黒曜石が象嵌され、その周囲は金細粒の列で装飾されている。カニッシュ・カールムⅡ層における、一人のアッシリア商人に属する文書庫から発見された。アッシリアからの搬入品の可能性が高いという。 
アナトリアのどこかで作られたものではなく、アッシリアからもたらされたと見なされているらしい。
金の粒の大きさも一定せず、鑞付けも直線に並ばずバラバラだし、下側の黒曜石上部に並んだ粒金は溶けたのか、圧力を加えられたのか、へしゃがっている。前20-19世紀ともなると、技術はこの程度なのかも。
アナトリア最古の文字記録である古アッシリア業文書(前19、18世紀)にはすでにインド・ヨーロッパ語系の語彙や人名が少なからず認められる。このアッシリア商人がさかんに交易活動を展開していた前2千年紀初頭のアナトリアは、政治的には都市に拠る小王国、都市国家が分立し、互いに勢力を争う時代であった。アッシリアの商人達は地方領主の庇護のもと各地に居留地(カールムあるいはワバルトゥムと呼ばれる)を築き交易を行なった。なかでもカニッシュ(今日のキュルテペ、カイセリ市の北東約20㎞)はアッシリアの商人達のアナトリア交易の拠点が置かれ、経済的にも極めて重要な位置を占めていたという。
ヒッタイトがやってくる以前のアナトリアの様子がわかる。
アッシリアの商人たちが拠点を作ってでも交易をするほどのものがアナトリアにあったのか、アナトリアの小王国が豊かで、異国の珍しい物をほしがったのだろうか。  黄金の短刀 金、ラピスラズリ 長37.4㎝幅5.3㎝ ウル第1王朝時代(前2600-2500年頃) イラク、ウル王墓出土 バグダード、イラク博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ウルの王墓から出土した副葬品の一つで、初期王朝時代の工芸作品としては、もっとも精巧で美しいものの一つに数えられる。刀の柄はラピスラズリで作られており、金の刃との接合には金の釘が使われている。鞘の片面には金の糸を細かく巡らし金の粒をちりばめた装飾を施しており、当時の工芸技術の水準の高さと、優れたセンスを物語っている。なお鞘のもう一方の面は、まったくの平面であるという。
メソポタミアで紀元前3千年紀中葉の粒金細工を見つけた。さすがに剣の柄の球形のものは金の粒ではなく、釘の頭らしい。鞘の金の粒はどれも球がへしゃがった形をしているし並び方も整然としていない。 『シリア国立博物館』は、金の細粒細工はシュメール初期王朝のころにおこった西アジアの技術という。
『シュメル』は、メソポタミアの最南部シュメルの地で前4000年後半に開花した都市文明は前3000年紀にはさらに発展した。シュメル人は民族系統不詳だが、シュメル語は日本語と同じ膠着語に分類されている。前3000年紀はバビロニア全域に都市文明が広まるジェムデト・ナスル期(前3100-2900年頃)に始まり、初期王朝時代(前2900-2335年頃)、アッカド王朝時代(前2334-2154年頃)およびウル第3王朝時代(前2112-2004年頃)に分けられる。初期王朝時代はさらに第Ⅰ期(前2900-2750年頃)、第Ⅱ期(前2750-2600年頃)、第ⅢA期(前2600-2500年頃)、第ⅢB期(前2500-2335年頃)と細分されるという。
第ⅢA期にあたるウル第1王朝期のこの探検柄の粒金細工は、トロイアのプリアモス王の宝物(紀元前2350-2100年、『知の再発見双書37エトルリア文明』より)よりも遡ることがわかった。
更に遡る粒金細工はあるのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16西アジア」(2000年 小学館)
「トルコ三大文明展図録」(2003年 NHK)
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 (増田精一・杉村棟編 1979年 講談社)
「シュメル-人類最古の文明」(小林登志子 2005年 中公新書) 
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)

2009/05/19

小アジア・近東の粒金細工


『エトルリア文明展図録』は、黄金製装身具は上流階級の間に広く普及した。おそらく小アジアのような遠い産地から交易を通じてもたらされたこの貴重な金属は、延棒もしくは半製品としての薄板のかたちで取引された。この原材料を加工する打出しや、粒金細工、細線細工も近東からもたらされたに違いない。また、シリア・フェニキア起源の装飾法もティレニア海域にもたらされたという。
小アジアや近東の粒金細工を探してみると、

ブレスレット 金 径8.0㎝ 前4世紀 シリア、アムリット出土 ルーヴル美術館所蔵
『ルーヴル美術館展図録』は、三角形と菱形の真珠の文様に飾られたコルレット(飾襟)から、牛頭が飛び出している。ただし安全用の小鎖と留金のくさびに関しては、近世に付け足されたものに違いないという。
粒金細工は飾襟の三角形や菱形だけでなく、各節の部分に一列に並んでいるが、どれも他の地域で前4世紀より前にあった文様であり、技術である。 耳飾り 金・トルコ石 長6㎝ 前14世紀 ウガリット出土 ダマスカス国立博物館蔵
『シリア国立博物館』は、金を打ちだし、一端を木葉形にした耳飾りは、シュメール初期王朝のころにおこり、前2千年紀には西アジアに普及している。これは金の細粒を蠟づけしたうえ、花のつぼみのようなトルコ石の垂れ飾りをつけた豪華な作品となっている。金の細粒細工もまた、シュメールのころにおこった西アジアの伝統的な技術であるという。
かなり細かい金の粒をたくさん用いて三角形を作っている。エトルリアよりもずっと以前にこれだけの小さな粒金が作られていたのなら、西アジアからエトルリアへその技術が伝わって、エトルリアの地で更に細かな粒金が作られるようになったとも考えられる。
すでにクレタ島マリア出土蜜蜂のペンダントで、前1800-1600年頃のミノア文明に粒金細工があるのを見た。しかし、粒金細工はシュメールの初期王朝のころに発明されていたとは。
粒金細工について『知の再発見双書37エトルリア文明』は、トロイアのプリアモス王の宝物(紀元前2350-2100年)にも、この技術は見られるという。しかし、「プリアモスの財宝」は発掘したシュリーマンが夫人に身に着けさせて撮った写真はテレビでよく見たが、図版になるとなかなか見つけられなかった。

垂飾り付き耳飾り 金 重10.46g鎖の長7.25㎝ 前3千年紀後半 トロイ宝物庫A出土 モスクワ、プーシキン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、トロイの宝物庫のなかでも最大規模の「プリアモスの財宝」と通称される宝物庫Aからのもの。しかし、シュリーマンが「プリアモスの財宝」と名づけた金属製品は、その後の調査でトロイ戦争の時期のものではなく、それより1000年近く古い青銅器時代前期のものであることが明らかにされたという。
この耳飾りに粒金細工があるのかどうか、写真ではわからない。他に粒金細工の図版が見当たらないのでこれをあげた。上方の籠形飾りのようなところに7つずつ2列ある丸い物が、粒金を幾つか積み上げたようにも見える。クレタ島出土のもののように粒金を線状に配置するようなことはまだ無理だったのかも。
「プリアモスの財宝」に粒金細工が使われていたとして、それもシュメールで発明された粒金細工が、小アジアの西端、トロイの地にまで伝わっていたのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16西アジア」(2000年 小学館)
「エトルリア文明展図録」(青柳正規監修 1990年 朝日新聞社)
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 (増田精一・杉村棟編 1979年 講談社)
「ルーヴル美術館展 古代ギリシア芸術・神々の遺産展図録」(2006年 日本放送網株式会社)

2009/05/15

ギリシアの粒金細工

 
ギリシア世界で粒金細工が発明されたのではなかったようだが、どのような作品があるのだろうか。

イヤリング 金 径2.2㎝ マケドニア、カヴァクリの墳墓出土 前4世紀 ルーヴル美術館蔵
『ルーヴル美術館展図録』は、前4世紀からは先端が動物頭部の、捻られた形のイヤリングがギリシア中で普及したという。
動物の頭部があるというと、スキタイ人などが好みそうに思ってしまうが、ひょっとして、黒海北岸のギリシア植民都市でギリシアの工人がスキタイ人の要望で作っていたという装飾品が、ギリシアへ将来されたのかも(『アフガニスタン遺跡と秘宝』より)。
黒海沿岸のギリシア植民都市の地図はこちら  さて、いわゆるギリシア文明時代にはどんなものがあったのだろうと探してみたが意外にも見当たらなかった。
同展図録は、クラシック時代のギリシアの装身具の数が少なく、地味であったのは、前5世紀にペルシア人が小アジアを占領したからで、このために最も重要な黄金ルートのひとつが閉ざされてしまった。黄金が再び流通し、彫金技術が再び隆盛するのは、ようやく前4世紀にマケドニア王によりパンガイオン金山の採掘が始まり、また、アレクサンドロス大王がペルシアを征服してからであるという。

黄金のロゼット 金 幅4.6㎝ メロス(現ミロ)島出土 前7世紀 アテネ、国立考古博物館蔵 
『世界美術大全集3』は、黄金のロゼット(花文様)に粒金細工と細線細工を施し、鳥とグリフォンの頭部を花弁上に飾った作品。青銅器時代クレタの高度な金工技術が、幾何学様式期、アルカイック期を通じてエーゲ海域で継承されたことを示す実例の一つという。
他に昆虫・人頭・花模様が装飾としてつけられているらしいのだが、真上からの写真のためか、人やグリフォンの頭部がどれなのか見分けられない。  ネックレス用金のビーズ テーベ、カドメイア出土 前14世紀 テーベ、考古学博物館蔵
『ビジュアル考古学3エーゲ海文明』は、金属細工はミケーネの職人が非常に卓越していた芸術分野であった。武器のほか、日常生活で使う農具や食器類もつくられた。最も華麗な金属細工は、身に着ける装飾品である。
ミケーネ職人の手になる金の装身具は非常に洗練されており、さまざまな高度な技法が駆使されている
という。
粒金を並べているが、それぞれに凹みをつくって、その中に1粒1粒鑞付けしていったように見える。下方の3つの円錐形のものがそれをよく示している。螺旋状に凹みを成形段階でつくり、そのままのものと、凹みに金の粒を配列したものとがある。  蜜蜂のペンダント 金 幅4.6㎝ クレタ島マリア出土 前1800-1600年頃 ギリシア、イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3』は、精巧な粒金細工(金の細粉を鑞付けする方法)を用いている。新宮殿時代初期の工芸品の傑作。クレタ島第3の規模を誇るマリア宮殿に隣接する、クリュソラコスと呼ばれる大規模な地下埋葬所の一画から出土。
ペンダントの構造は以下のとおり。蜜蜂2匹が紋章風に左右対称に向かい合う。中央に見事な粒金細工を施した、蜂の巣を想わせる円盤を抱えている。2匹の蜂の頭の上には、小さな球体が球形の籠のなかに収められている。蜂の羽と胴体の端から、三つの円盤飾りが下がっている。蜂の足部分と上方の球形の籠には細線細工(金の細線を鑞付けする方法)が用いられている。ペンダントの本体は金板の打ち出し細工によるもので、内部は空洞、背面は平滑
という。
こちらも蜂の目と胴体の粒金細工は、凹みを作って配列しているようだ。3つの円盤飾りは、粒金のとれた部分から、円盤の内側に細線を一周させ、その外側に金の粒を巡らせている。どちらも粒金を並べ易いように思う。中央の「蜂の巣を想わせる円盤」は隙間なく並んでいるので、凹みがあったどうかわからない。渦巻きにはなっていないことくらいしかわからない。 ギリシアで粒金細工を探すと、一気に紀元前1千年紀前半まで遡ってしまった。他地域にもっと古い粒金細工はあるのだろうか。いったいどこで発明されたのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック」(1997年 小学館)
「世界美術大全集5古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
「ビジュアル考古学3エーゲ海文明」(編集主幹吉村作治 1998年 NEWTONアーキオ)
「ルーヴル美術館展 古代ギリシア芸術・神々の遺産展図録」(2006年 日本放送網株式会社)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)

2009/05/12

粒金細工はエトルリア人の発明ではなかった

 
『知の再発見双書37エトルリア文明』(以下エトルリア文明)は、エトルリア人は、紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、地中海全域でもっとも富み栄えた民族であったと考えられるという。エトルリアの地図はこちら
『同双書35ケルト人』は、ケルトの粒金細工はエトルリア製品と驚くほど似ているという。エトルリアの粒金細工はどのようなものがあるのだろうか。
 
飾り金 金・水晶 高3㎝幅3.5㎝ 前5世紀初頭 ヴィニャネッロ第Ⅶ墓出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
『エトルリア文明展図録』は、打出しと粒金細工で装飾されており、連続する飾り珠で囲まれた半円形の部分には、台の上に横たわるサテュロスが表されているという。
サテュロスの背後や枠一面に砂のようなものがびっしりと覆っているが、どうも金の粒らしい。作品そのものが小さなものなので、金の粒は極めて小さいと思われる。  河神アケラオスの頭部を表すペンダント 金箔と金粒 前6世紀 ルーブル美術館蔵
『エトルリア』は、エトルリア金銀細工の高い水準を示すものである。
金の「粒」を金粉と言えるほど細かくしたのは、エトルリア人が初めてである
という。
上の飾り金ほどではないにしても、顎鬚部にびっしりと鑞付けされている金の粒はかなり小さい。「金粉」といえるほど細かく作れるようになったのはいつ頃だろうか。
『エトルリア文明展図録』は、粒金細工の中でも特に微少な粒金による微粒金細工pulviscoloはヴェトゥローニアを中心として発達したという。文面から前8-7世紀だろう。 飾り板 金 長3.5㎝ 前7世紀第3四半期 チェルテヴェテリ、バンディタッチャの墓地ドリイの墓アラーリの部屋出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
『エトルリア文明展図録』は、正面を向いた有翼の女性を表しており、その下半身は吼えるライオンの頭部になっている。装飾は打出しで表され、細部に粒金細工を用いている。南エトルリアの工房作という。
下の翼状のものが左右に広がっているのがライオンのたてがみで、両端に内側を向いたライオンが口を開いている。左右では顎が違っているが、そのように見ていると上の翼の先端も鳥の顔に見えなくもない。
これだけ細かい金の粒を並べながら、打出しで成形した部分の表現が完璧でないのは、東方から将来したモチーフが消化できていない時期のものであることを示している。上-蛭形フィブラ 金 長3.4㎝ 前7世紀第1~2四半期 ヴェトゥローニア、アクァストリーニ円形墓出土 フィレンツェ考古学博物館蔵
蛭形の弓は縦軸に沿って溶接した2枚の黄金製薄片からなり、表面に5個の半球状の飾り鋲が取り付けられている。溶接部の2列の線と外側の縁に沿って細い装飾帯が走っており、この装飾帯を一連の粒金細工の三角形の列が取り巻いている。飾り鋲の周囲ではこれらの三角形は放射状に配列されている。装飾帯の間には粒金細工の連続三角形文が見られる。
本作品は、豪華な粒金細工による装飾によってさらにいっそう見栄えのするものとなっており、その最も近い類品を南部エトルリアの遺例に見出すことができる
という。
前7世紀にすでに金の粒で三角形をつくるということが行われていたのだ。

下-フィブラ 金 長9.4㎝ 前7世紀中頃 ヴェトゥローニア、リポスティリオ・ディ・フィブローニ墓地出土 フィレンツェ考古学博物館蔵
溶接した1枚の薄片からなる蛭形の弓は、粒金細工で植物モチーフと紋章風に向かい合う動物文で装飾されている。
針受けは折りたたんだ細長い四角形をなし、右向きの四足動物が4頭、粒金細工で表されている。針受けの上面は不規則な間隔をおいて並ぶロゼット文で飾られている
という。
東方由来のモチーフをなんとか表現しようとしてしきれていない印象を受ける。金の粒を小さくしたのは、文様を粒金で描くためかも。 頸飾り 金・琥珀 円盤の直径6.1-6.5㎝ 前8世紀第3四半期 ビセンツィオ、オルモ・ベッロの墓地第2墓出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
小さな琥珀の筒でできており、その間に3枚の金の薄板の円盤が挟まれている。円盤は中央にあるものが一番大きい。円盤はティレニア海域、特にエトルリアで広く普及した幾何学文の打出しでできているという。
粒金細工だとばかり思っていたが打出しだった。このようにエトルリアの粒金細工を見ていると、ケルトの粒金細工でエトルリアのものに似ているというのは、粒で線を描いたもののようだ。しかも、ケルトの数少ない粒金細工よりも、ずっと時代が古い。
いったいエトルリアではいつ頃から粒金細工が行われていたのだろうか。
エトルリアにおいて、わずかではあるが金が初めて出現するのは、紀元前9世紀末であり、小さな金の薄板や細線が、衣服をとめるピンや頸飾りの部品などに使われる。しかし、東方化時代の紀元前8世紀から7世紀にかけて、豊かな首長たちの社会的地位の確立とともに、黄金製装身具は上流階級の間に広く普及した。おそらく小アジアのような遠い産地から交易を通じてもたらされたこの貴重な金属は、延棒もしくは半製品としての薄板のかたちで取引された。この原材料を加工する打出しや、粒金細工、細線細工も近東からもたらされたに違いない。また、シリア・フェニキア起源の装飾法もティレニア海域にもたらされたが、そこには贅沢品に対する旺盛な需要のあるギリシア植民都市と、ラツィオ地方やエトルリアが分布していた。
これらを装飾するモチーフは、初期の段階では幾何学文であったが、東方化様式の文様レパートリーを取り入れて、動物や植物を打出しだけでなく、粒金で表すようにもなった
という。
粒金細工はよく言われるようにエトルリア人の発明であったのではなく、また、スキタイ貴族の要請に応えてつくったギリシア人(『アフガニスタン遺跡と秘宝』より)の発明でもなかったらしい。エトルリアに将来したのはシリア・フェニキアの人たちだったようだ。

※参考文献
「エトルリア文明展図録」(青柳正規監修 1990年 朝日新聞社)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「知の再発見双書35 ケルト人」(クリスチアーヌ・エリュエール著鶴岡真弓監修 1994年 創元社)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)

2009/05/08

ケルトの粒金細工


『世界美術大全集東洋編15』で、独特な金属工芸美術をもつ文化の1つとされたケルトは、中央ヨーロッパの広大な地域に広がって住んでいた。  ケルト人の粒金細工はどんなものがあったのだろうか。

人面玉 径3.3㎝重さ11.2g 前2世紀末-1世紀初め ハンガリー国立博物館蔵
『ケルト美術展図録』は、人面玉は金の薄板による半球形を合わせ、合わせ目にねじり細線と太い玉縁細線をめぐらしている。装飾には3つのモチーフが見分けられる。4ヵ所に配された人面は額にディアデーマのようなねじり細線を着ける。同じく4回現れる円錐形には金粒・ねじり細線・無装飾細線を施す。中心に数個の金粒を溶着した同心円モチーフをその間にちりばめている。イリュリアの影響を受けたケルト人、またはケルトの注文を受けたイリュリア人によって制作されたと考えられるという。
『ラルース世界歴史地図』では、イリリアとされているアドリア海東岸の土地に住んでいたイリュリア人からの影響か、イリュリア人の制作というが、後世までケルトの特徴とされる人頭があるので、最もケルト的な作品だと思っていた。 金製トルク 径14㎝重さ79.18g 前3-2世紀 出土地不詳、ハンガリー ハンガリー国立博物館蔵
金の板による3つの部分からなる。球形の端末には細線細工、繋ぎ部分には金粒細工が施されている。これらの技術をギリシアからハンガリーのケルト人に伝えたのは、バルカン半島北西のイリュリア人であったと推定されるという。
こちらもイリュリア人が登場する。ケルト人は粒金細工を作れなかったのだろうか。 黄金製ペンダント イェーゲンシュトルフの墳丘(ベルン地方)出土 ベルン自然史博物館蔵
『知の再発見双書35ケルト人』は、エトルリア製品と驚くほど似ているという。
時代不明で参考にするには難があるが、ケルトでは思いの外粒金細工が少ないのであげた。球体に金の粒が蛇行しながら線を描いているところから、こなれていない技術の時代のものにみえる。
飾り玉と鎖 インスの墳丘(ベルン州)出土 ベルン自然史博物館蔵
こちらも時代不明だが、粒金でジグザグ文や渦文を構成するなど、上の作品よりは完成度の高い作品なので、時代は下がるものと思われる。
ケルトの地から出土する粒金細工には、ギリシアからイリュリア人を経由して伝わった技術か、あるいはイリュリアの工人がつくった系統のものと、エトルリアから伝わったか、エトルリアの工人がつくった系統のものがあるようだ。

※参考文献
「ケルト美術展図録」(1998年 朝日新聞社)
「知の再発見双書35 ケルト人」(クリスチアーヌ・エリュエール著鶴岡真弓監修 1994年 創元社)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい) 
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)

2009/05/05

トラキアでも粒金細工


『世界美術大全集東洋編15』は、前8世紀ごろから前4世紀にかけて、ユーラシア大陸西部には独特な金属工芸美術をもつ文化が各地に生まれた。まず、中央ヨーロッパを中心とする後期ハルシュタット文化、これはケルト人の残した文化と考えられている。つぎに、イタリア半島中北部のエトルリア文化、これを残したエトルスク人は民族も言語も系統不明の謎の民族である。さらに、バルカン半島には華麗な金製品や銀製品で知られるトラキア文化が栄えた。そして、そこから黒海を渡った南ロシアと北カフカス地方にはスキタイ文化が花開いていたという。 『トラキア黄金展図録』は、 トラキアはバルカンの古代民族で、勇猛果敢な騎馬民族として知られているばかりでなく、優れた芸術家でもあった。彼らの芸術の特徴はスキタイなどと同様の動物意匠に加え、ペルシアやギリシア美術のもつ人物表現の要素を取り入れた点にある。トラキア芸術は躍動感溢れる動物意匠と洗練された人物表現を合わせもつ、まさに「文明の十字路」と呼ばれるバルカン半島にふさわしい芸術と言える。
トラキア人は言語的特徴から印欧語族に属す民族とされているが、その民族性形成の要因や過程についてはわからない
という。
とりあえず、トラキア人は騎馬遊牧民であることはわかった。 ロゼッタ文飾り板 金 前4世紀末-前3世紀初頭 径3.5-3.7㎝ クラレヴォ村墳墓出土 トゥルゴビシュテ歴史博物館蔵
14弁のロゼッタが細粒細工でふちどられている。非常に繊細で、裏には金の環が付いており、馬面飾りの装飾であったと考えられるという。
私には細線に刻みをいれたように見えるが、各ロゼッタの先端部に1つずつ、中央には大きな金の粒3つの上に先端部と同じ大きさの金の粒を1つのせている。 首飾り 金 前4世紀 全長40.8㎝ シプカ近郊マルカタ古墳出土 カザンラク歴史博物館蔵 
カザンラク県シプカ近郊でトラキアの都市スヴェストポリスとその周辺に広がる古墳が発見された。方形プランの石室で、石棺が使われている。
止め具と金線を繊細に編んだチェーン、そして二つのペンダントが組み合わせてある。つなぎの部分には女性の顔の装飾が多用され、ペンダントにはさまざまな植物文の装飾がある
という。
2つのペンダントには大小の金の粒を鑞付けして文様が構成されている。
また図版が小さくてわからないが、人の顔がこのような装飾に使われるのはケルト的やなあ。首飾り 金 前5世紀前半 ソロバン玉の径0.9㎝ プロヴディフ県アラバジスカタ古墳出土 プロヴディフ考古博物館蔵 
8枚の花弁のロゼッタ文で装飾された17個の円形ペンダント付きビーズと、ソロバン玉形の19個のビーズからなっている。ソロバン玉形のビーズはトラキアに古くから伝わる意匠だが、金の細粒を散らす装飾は、紀元前6世紀末頃にはじまったものであるという。
円形ペンダント付きビーズもソロバン玉形のビーズも、中が空洞で型で打ち出したものだ。「金の細粒を散らす」ということだが、円形ペンダントには6つの金の粒で作った三角形もあるし、1つだけの金の粒も規則正しく鑞付けされている。
トラキアでは細粒細工が前6世紀末に始まったというが、近くのスキタイの地に住むギリシア工人によって伝えられた技術だろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「トラキア黄金展図録」(1994年 旭通信社) 

2009/05/01

石山寺の多宝塔は日本最古


滋賀県の石山寺は山寺で、石段をかなり登ったところに毘沙門堂や蓮如堂があって、その段からやっと多宝塔が岩の上に見える。本堂は左の端にある。
この岩は硅灰石という石灰岩が花崗岩の熱変成をうけたもので、「石山」寺の名の由来になっているそうだ。  多宝塔にたどりつくには、更に本堂から硅灰石を回り込み、正面にある石段をあがっていく。 石段を登り詰めると多宝塔初層の扉が開いていて、人がのぞき込んでいる。薄暗い内部には大日如来が見えた。
『週刊古寺をゆく27石山寺と湖東三山』は、近年の調査で、頭部内から「アン(梵字で書かれている)阿弥陀仏」の銘が発見されて、安阿弥(アンナミ)時代の快慶の作であることが判明した。多宝塔は1194年(建久5)に建立されたが、この像もそのときに制作されたと考えられているという。  扉は正面だけが開いているので、写真のような角度からは見えない。『日本の美術77塔』は、初層平面は方三間で、ちょっと見ると二重塔のようでもあるが、よく見ると上層平面が円形をなし、そのため初層屋根との連接に漆喰の饅頭形を作っている。しかし下層に基壇を造らず板縁をめぐらし、心柱を二階に留めていることは藤原時代以降の五重三重塔と同じである。遺品は鎌倉時代以上に上がるものはなく、藤原時代末ごろから発生した塔型とすべきであろう。
石山寺多宝塔は建久5年の建立で現存木造多宝塔の最古の遺構である。もっとも河内金剛寺の多宝塔が文献的には古いが、慶長時代の修補が多く、遺構的には、石山寺のが最古といえる。
屋根は檜皮葺で、軒出は上層下層ともに深く、勾配は、緩やかにして低い饅頭形をおき、下層軒組には間斗束(けんとづか)を置き、その廻縁には勾欄を作るなどゆきとどいた造形である
という。
この塔が優美とという印象を与えるのは、全体のバランスが良いだけでなく、檜皮で葺かれた屋根の柔らかな曲線かも。  それにしても、正方形の平面から饅頭形という半球に近い形へとどのように移行していったのかと、スキンチ・アーチ(ブハラのサーマーン廟参照)や、ペンデンティヴ(イスタンブールのアヤ・ソフィア聖堂のドームから4本の柱へと移行する部分が有名)などに関心のある私としては興味のある箇所だが、断面図を見ると、屋根の上側だけのものらしい。
饅頭形を作ったために、欄干も円形にカーブさせたりしている。 しかし、多宝塔という名称は多宝如来から来たのではないのか?
現神戸大学名誉教授の田淵俊樹氏の講座を以前聴講した時のノートには、根本大塔が真言宗における新しい建築(五間多宝塔)であるが、三間多宝塔が最も多い。根本塔は、世界の中心に存在する大日をお祀りする建物だが、法華経に出てくる多宝如来のいる塔と習合して、このような多宝塔になったと書いている。

多宝如来のいる塔についてはこちら

※参考文献
「日本建築史図集」(日本建築学会編 1980年 彰刻社)
「週刊古寺をゆく27 石山寺と湖東三山」(2001年 小学館) 
「日本の美術77 塔」(石田茂作編 1972年 至文堂)