朝日新聞朝刊に連載されている『はりま遺跡探訪』の2008年11月2日の記事は「養久山1号墳」だった。「過渡期の前方後円墳」 ということなので、見学に行った。
養久山は山陽自動車道の龍野インターと龍野西インターの真ん中あたりの南側にある、低い山だ。道路地図にも載っていたので、迷うことなく近づけたが、養久山にはどこから登っていけばよいのかがわかりにくかった。
やっと見つけた案内板で、養久山は稜線部に古墳がずらりと並んでいることを知った。

養久山19号墳 古墳時代後期
1つの墳丘に2つの石室をもつめずらしい形の古墳と案内板にあった。古墳近くの説明板は、2基の横穴式石室が確認できる。前方後円墳とみる説もあるという。通路から近い方の石室は両側の側壁が内側に傾くタイプで、羨道と石室の幅が同じでストレート式(丁山5号墳の説明に基づく)だった。




立て札は古墳時代前期(3世紀)の全長32mの前方後円墳。1967年(昭和42)の発掘調査により、前方部の墳形などから、最古形式の前方後円墳として注目されたという。
朝日新聞記事は、養久山1号墳の「外見」は古墳だが、「中身」は弥生時代の墳墓の特徴がある。後円部の中央に墓の主人の石室があり、その周辺を5つの石棺が取り巻く。弥生時代は、複数の遺体を1つの墓に埋葬するケースがよくみられるという。過渡期というのは、弥生時代から古墳時代への過渡期ということだったのだ。

岸本さん(たつの市教育委員会文化財課課長補佐)は、養久山1号墳と箸墓古墳はほぼ同時期に築かれたと推測する。「中央の大和と地方の首長らの間で『この形で造らなければいけない』という情報が共有化されていたのだろう」
養久山1号墳の形は、7.5㎞東にある全長104mの瓢塚古墳(姫路市)や東四国の古墳を同じ大きさに縮尺を変えると一致する。岸本さんと共同研究した東海大教授、北條芳隆さん(47)=考古学=は「同じ設計図を持っていたに違いない。播磨と東四国は政治的な同盟関係にあったのではないか」とみるという。くびれが曲線になっているというのはよくわからなかった。
4世紀とされる丁瓢塚古墳も複数の遺体が葬られている可能性はあるのだろうか。

調査団によると、ばち形の前方部を持つ箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。
禁野車塚は丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られたという。平地に造られたのは瓢塚古墳と共通しているなあ。
養久山1号墳や瓢塚古墳の主も、当時の大勢力者と政治連合を結んだ有力者だったようだ。
せっかくなので、養久山の古墳群を巡ります。(次回)

瓢塚古墳については丁山の西麓には瓢塚古墳と丁古墳公園・山戸4号墳墓が3世紀前半、前方後円墳の瓢塚古墳が4世紀をどうぞ
※参考文献
養久山古墳群の説明板
朝日新聞朝刊(2008年11月2日)『はりま遺跡探訪46 養久山1号墳』
朝日新聞朝刊(2008年12月12日)『枚方「禁野車塚」、奈良「箸墓」と同規格』