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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/12/19

丁山の西麓には瓢塚古墳と丁古墳公園

 
もう一度瓢塚古墳に行ってみた。草が刈ってあったので、ところどころに石が出ている。墳丘は後円部3段、前方部2段の可能性があり、葺石と埴輪が配されていたというが、ごろごろと出た石が葺石とは思えない。  今回も後円部の南縁には竪穴式石室が露出しているというのはわからなかった。墳丘上のあちこちに石はあるが、古墳の時代よりも新しそうだったりもする。後円部の墳丘の向こうに見えるのは壇上山で、古墳はないようだ。 墳丘全長104mと考えられているという。少し離れて西の方からやっと全体をとらえることができた。
平地に4世紀の前方後円墳、南側の尾根には3世紀前半の山戸4号墳墓があるものの、その他の古墳群は瓢塚古墳よりも時代が下がる。
この付近の海岸部の平地は海退して陸地になったのが平安時代という。瓢塚古墳付近はそれよりも以前から陸だったのだ。ということは、京見山から丁山と山戸の尾根に分かれるこの山系は当時から島ではなかったのだ。 瓢塚古墳と丁山の間にもたくさんの古墳があるらしい。
瓢塚古墳の北側の道を東進していくと、緩い勾配で上り坂になっていた。奥まったところの左側に丁古墳公園はあった。
説明板は、このあたりの山の尾根から谷全体に「ひさご塚」をはじめとして90余りの古墳があった。
昭和36年から43年までに、そのうちの17基が発掘調査され、土器や鉄刀、やじり、馬具、耳飾、などが数々発掘された。
これらの古墳は、5世紀中頃から7世紀中頃までにつくられたものであることがわかった。
この公園内には、5基の古墳がもとのまま残され、当時の様子をよく伝えている
という。たぶん地図のひさご塚と山頂支群の間の古墳群から5つが残されたのだろう。 階段を上って公園に入り、南側にあるものから反時計回りにみていくと、

1 南側 墳丘は低く小さな古墳 時代不明 2 南側 もっと墳丘が低く小さい 時代不明
3 北側 南側に開口部がある。羨道入口にしたら高いところにあるなあ。 柵の中を写すと、かさの高い楣石が見えた。南側が後室で北側に羨道がついているのか?  4 北側中央 大きな墳丘 たぶん南側に斜めにある大きな石が羨道をふさいでいるのだろう。 5 大きな墳丘。南側に開口部があるが、柵で立ち入り禁止になっている。西端の1基は奥行き9m余ある大規模なもので、内部に家形石棺を安置し、石積みも丁寧で横穴式石室の典型的なものであるというが、その典型的な石室が見られないとは残念だ。 墳丘はどれも人が上った跡が深い溝となっていて、荒れている。どうも私が想像していた古墳公園ではなく、児童公園のようだ。 韓国慶州でも古墳に人が登っているのを見かけることはあったが、芝生でしっかりと保護していて、ここまでひどい状態にはなっていない。この古墳公園では芝が役に立たないほど踏み跡がひどいなあ。有年原・田中遺跡公園のように整備されているのかと思っていたのに。

※参考文献
姫路市教育委員会作成の説明板