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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/04/25

山戸4号墳墓が3世紀前半、前方後円墳の瓢塚古墳が4世紀


③の横穴式古墳から京見山の尾根を西へと歩いて行くと、開けた場所があり、南の町が見えた。しばらく進むと春日神社の登り口との分岐があった。別の道に古墳があると立て札にあったので、そちらの方に行ってみた。
道というよりも藪の中を踏み分けて進むと、図解のある説明板があった。今までの古墳とちょっと違うみたい!

① 山戸4号墳墓 竪穴式 弥生後期・3世紀前半
円墳長さ1.6m巾1.6mの竪穴式方形石室の墳丘墓で、1号主体3段割石の石塁壁、壁石・底の河原石は朱塗りされており、乱掘で覆土・出土は不明である。複葬で階級差はなく、東西方向の埋葬であるという。 正方形に近いので石室という感じがしない。それに人が葬られていたにしては小さい気がするなあ。しかし、 説明板の図を見ると、死体が描いてあるので、妙にリアルだった。奈良ホケノ山、綾部山39号墳と同じ邪馬台国卑弥呼(3世紀初め)の時代のもの。ここより北方向にある丁・瓢塚古墳(よろ・ひさごづか、古墳発生期)より1世紀は古いという。

朝日新聞の播磨版『はりま遺跡探訪13 瓢塚古墳』には瓢塚の前方後円墳が上から写っていたが、木の枝に邪魔されて同じような写真を撮ることができなかった。全体が入る写真を撮りたいものだと、場所を探したが樹木に邪魔されて写すことができなかった。帰宅後確認したら、朝日新聞はヘリコプターから撮ったものだった。 結局春日神社の方に下山しなかったので、②の七つ岩古墳横穴式古墳は見損ねた。
せっかくなので、県道421号を少し北に歩いて瓢塚古墳も見に行った。家々の間に残っているといった感じだったが、一応史蹟の石碑が立っていた。前方部に上がって後円部を見る。
揖保川下流の平地では最大規模の前方後円墳であり、墳丘全長は104mと考えられ市内では檀場山古墳(御国野町)に次ぐ規模という。後円部より前方部を見る。
前方部の形態が撥形であり、古式土師器が採集されたことから、最古式の古墳と考えられ、前方後円墳の成立を知る上で重要なものという。そして横からみるとこんな感じです。
墳丘は後円部3段、前方部2段の可能性があり、葺石と埴輪が配されていた。後円部の南縁には竪穴式石室が露出しているが全長は不明という。探したがわからなかった。
説明板に瓢塚古墳の図解があった。後円部がパクパク囓られたようで悲惨やなあ。 低いとはいえ山の上にある山戸4号墳墓が3世紀前半、最古式の古墳と考えられている前方後円墳の瓢塚古墳が4世紀、突出部のある円墳の 有年原・田中1号墳が弥生時代後期(約1900年前)と、古い古墓・古墳が兵庫県南西部にはたくさんあるもんですなあ。
朝日新聞の記事は、姫路市がこの古墳を掘ろうとしたことがある。  ・・略・・  しかし、この時代の古墳は発掘例がほとんどないため技術が確立しておらず、現在の状況で掘ると貴重な情報が失われる恐れがあるという。  ・・略・・  人員確保や資金面の理由から現在まで実現に至っておらず、年2回の草刈りをするだけの状態が続 いているという。

※参考
山戸・丁山古墳愛好会作成の立て札・説明板
朝日新聞兵庫播磨『はりま遺跡探訪13 瓢塚古墳(姫路市)』(2007年9月9日)

※参考サイト
奈良ホケノ山古墳
現説公開サイト綾部山39号墳