第11窟付窟 雲崗後期(494~)
洛陽遷都後の雲崗後期になると、平城に残った貴族や有力者は新たに大きな窟を開鑿するだけの資金もなく、石窟の前面の壁など余白に小さな龕を造るようになった。
後期の仏像は顔や身体が細い秀骨清像と呼ばれる様式で、似たような龕が幾つも並んでいたりして、それぞれに寄進者が異なるのだろうなあなどと思って眺めた。

曇曜五窟以降、平城遷都までを雲崗中期というようだ。もう見慣れてしまったが、清時代に彩色されたために、仏像本来の良さをじっくり見るには、この彩色が非常に目障りだ。
中期になると、仏像が中国風の衣服を纏うようになる。

しかし、この大衣のはおり方は涼州式偏袒右肩が右肩だけでなく右腕をすっぽり覆っているのか、よくわからないところがある。

雲崗には外からしか見られないので前室だけしか見られない窟がある。11窟がその1つで、この三重塔は見ることのできないところにある。初層に二仏並坐像が見られるが、三柱九輪塔とはなっていない。ひょっとすると飛鳥・白鳳時代の多宝塔磚仏のような法輪がないか1基の多宝塔の先駆けかもしれない。

これを見ると中に僧祇支を着けているが、双領下垂式ではないようだ。

明窓には石窟開鑿期以降に造られた仏龕があったりする。曇曜五窟の1つである17窟の明窓には、東側にも二仏並坐像があり、その下の銘文に太和13年(489)という題記があり、作風が似ているので、同じような時期に造られたものだろう。

初期窟は曇曜五窟とも呼ばれている。涼州式偏袒右肩で肩が張っている。

大中小の二仏並坐像が表されている。この壁面が石窟開鑿期に造られたものかどうかわからないのと、実際に見ても高いところにあるのでよく見えなかったので、一応初期としておく。

左脇侍頭上の龕に二仏並坐像、その下の小さな龕にも二仏並坐像が表されている。三尊像や、その光背の中に表された小仏などと比較して、様式的に同じ頃のものだろう。
こちらも高所にある。まるで下界の衆生に向かって語りかけているように身を乗り出している。

※参考文献
「雲崗石窟」(李治国・山西雲崗石窟文物研究所編・山崎淑子訳 1999年 人民中国出版社)
「中国文明史5魏晋南北朝 融合する文明」(稲畑耕一郎監修 2005年 創元社)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)