本堂を出る時「今日は修二会があるので講堂は入れません。金堂へ進んで下さい」と言われた。
本堂とちがい金堂は南が正面になっている。入母屋造り、大同の下華厳寺と同じやね。大きさはだいぶちがうけど。

『美術ガイド奈良』で町田甲一氏は、文永5年(1268)の修理にかんする墨書があり、それ以前の建立であることが確かめられているが、正中3年(1326)に大修理を受け、一時流板(ながしいた)葺であったことも、発見古材から知られる。円柱上に和様の二手先を組み、尾棰(垂木)、支輪をつけているという。細かいところはともかく、本堂よりも組物が複雑になっていて、重熙7年(1038)創建の下華厳寺に近い気がする。


町田氏によると、本尊弥勒如来坐像の表面は、後につけた金箔がかなり剥げて印象をそこなうが、両手首先が後補であるほか、像容は当初の姿をとどめているかと考えられる。 ・・略・・ 堂々たる重量感や、豊満な頬張りある顔の部分など、唐代の彫塑感覚が充分にうかがえる。当麻寺創建の天武9年(680)の時の本尊とするより、天平時代に入ってからの作品と考えるべきではなかろうかという。彩色がはがれたので、荘厳(しょうごん)という意味もあって金箔で覆ったのだろうが、造立当時はどのような色だったのだろうか。

『當麻寺冊子』によると、多聞天は鎌倉時代の後補で木彫であるが、他の三天は脱活乾漆造りで白鳳時代の造像である。また、四天王としては法隆寺につぐ古像であるという。脱活乾漆像でも最古の部類に入るのではないだろうか。
町田氏は、周囲に立つ四天王立像は、その直立した形姿と、珍しい顎鬚をもった異様な表情に特色を示している。とくにその像の着ている衣服と甲冑の表現は、東大寺三月堂や戒壇院の四天王像が示す自由な動的な姿態のなかに、皮製甲冑のきしりが聞こえるかのような、きわめてリアルな表現に対して、この直立四天王像の姿は重くゆゆしげであり、法隆寺金堂四天王像のような袖の長いむしろ文官人の服制の踏襲がみられるのも面白いという。余りにも顔がすごいので、顔ばかり見ていた。
そういわれると服装は法隆寺金堂の四天王像に似ている点もあ。しかし裳裾の表現が全然違う。(前面には持国天と増長天が並び、増長天の背後に広目天がいますが、画像の配置の関係で前後しました)

興味深いのは、今この四天王像は四隅に東面して配置されてあるが、かつては将軍寺の例のように、横に一列にならんで配列されていたという。像容のみならず、配置までちょっと変わっていたことになるという。残念ながら新羅彫刻や将軍寺の四天王像についてはわからない。
増長天は甲冑の下に出ている衣装に亀甲繋文があった。


関連項目
白鳳展8 當麻寺四天王像は脱活乾漆
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
観無量寿経変と九品来迎図
当麻曼荼羅原本は綴織
当麻寺で中将姫往生練供養会式
※参考文献
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂
「週刊古寺をゆく35 当麻寺信貴山」 2001年 小学館ウイークリーブック
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
※参考サイト
日本すきま漫遊記用語集組み物の各部の名称