ラヴェンナはたくさんの古いキリスト教会の残る町である。そしてその内部には当時の美しいモザイク壁画が残っている。
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ホノリウス帝が402年にミラノからこの地に西ローマの首都を移して、ライヴァル都市ミラノと競うようにして、ラヴェンナは多くの聖堂を5世紀に建造した。西ローマ滅亡(476年)後は東ゴート族によってイタリアの首都とされ、540年にはビザンティンがこの地を征服し、7世紀半ばにランゴバルド族の手に落ちるまでビザンティンの勢力下にあった。皮肉なことにラヴェンナは7世紀にビザンティン帝国領からはずれたために、5・6世紀のきらびやかなモザイクが今日に伝わることになったという。
ガッラ・ブラチディア廟堂天井 424-450年
『ビザンティン美術への旅』は、ラヴェンナに都を移したホノリウス帝の妹ガッラ・ブラチディアは、帝の死後、帝位を引き継いだ。その廟堂(マウソレウム)と考えられる建築は、十字形のプランを採り、424-450年の間に建立された。紺青の空には金色の星が散りばめられ、中央にはキリストの再臨を象徴する黄金の十字架が表されるという。
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ガッラ・ブラキディア(伊プラチーディア)の墓廟と通称されるが実際はそうではない。女帝によってサンタ・クローチェ聖堂(現存せず)付属の葬礼礼拝堂として建立されたが、女帝自身はおそらくローマに埋葬されたという。
この建物は5世紀の第2四半世紀というラヴェンナで最も早い時期に造られたためか、緑色は主要な場面の描かれた壁面にはあまり使われていない。むしろアーチの内側の花綱や幾何学的な文様に金と緑が多用されている。
アーチの内側のモザイク装飾はイスタンブールのアヤ・ソフィア(537年頃)、テサロニキのアヒロピイトス聖堂(5世紀)にも見られる。いずれもこのような周辺の面にさえ、1つ1つモティーフも替えて荘厳している。モザイクの壁面で更に感じるのは柔らかさである。それは『ゆらぎ モザイク考』で浅野和生氏のいうバラツキかも知れないが、壁面と壁面の境目が角が立たず、曲面になっていることで生まれる柔らかさではないだろうか。
四福音書家と天使 大司教館付属礼拝堂天井 494-519年
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス治下の494-519年の間に献堂された。トンネル型の穹窿が交叉する接線上に天使の立像が配され、中央部のメダイヨン(円形の枠)を支えているという。
それぞれの天使の足元に緑の大地が表されている。ガッラ・ブラチディア廟堂でも地面付近は少し緑が使われていた。緑は大地を表す色だったのだ。
キリストの洗礼 アリウス派礼拝堂ドーム 500年頃
東ゴート王国時代のもので、テオドリクスがアリウス派の信仰を有していたことから、アリウス派礼拝堂と呼ばれる。500年頃の建設。「空の御座(からのみくら)」を、使徒ペテロとパウロの間に配しているという。
十二使徒は緑の大地にしっかりと立っているが、中央のキリストの洗礼とは何の関係もないかのようだ。緑の大地の幅が広くなって金と緑の組み合わせが目立ってきた。
サン・ヴィターレ聖堂 内陣天井モザイク 547年
『光は東方より』は、アプシスとその手前の内陣は、壁から天井までの全面がモザイクで飾られている。天井の頂点では、4人の天使たちが子羊のメダイヨンを掲げるという。
天井を対角に花綱が4分割して、金地に緑あるいは緑地に金でアカンサス唐草を表している。
もうほとんど全面が金と緑に覆われているといっても過言ではない。緑はもはや大地を表しているのではない。それほど金と緑の組み合わせが好まれたのだろう。
マギの礼拝 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊 6世紀
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス時代の部分とユスティニアヌス時代の改変の部分が混在するという。
6世紀初頭か中葉か。緑の大地の面積が広い方が時代が下がるのだとすれば、マギの礼拝部分はユスティニアヌス時代になるが、花を見ていると聖母子と天使の方が後補のようだ。一概に緑の面積で時代を決められない。
キリストの変容 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 後陣 549年
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、身廊側面の装飾は後代のもので、東壁面のみに古いモザイクが残っている。アプシスのコンク(四分の一球形)と、その下の窓の間に立つ四司教が創建当時のモザイクであるという。
後代のものにしてもオリジナルに倣い明るい緑色がかった壁面装飾になっている。
『光は東方より』は、聖アポリナリス、ラヴェンナの初代の司教で、正面を向いて両手を挙げた、いわゆる「オランス」のポーズをとる。この出来事を私たちに語ると同時に信徒の祈りをキリストに取り次ぎ、いわば天上とこの世との仲立ちをしているようだ。その足元に歩み寄る羊たちは信徒を表しているのだろうという。
撮り方によってこんなに色調が違うものかと思う。緑の大地がかなりの部分を占めているのは、「キリストの変容」だけではなく、聖アポリナリスの業績を讃えるためだったのだ。
このようにラヴェンナの教会内は金色と明るい緑色が美しい。この色の組み合わせは、イコノクラスム以降ほとんど見られなくなるので、初期ビザンティン美術の特徴だろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」 赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「NHK日曜美術館名画への旅2古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」 1994年 講談社
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」 2009年 INAX出版
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/04/27
2010/04/30
イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
ラヴェンナにはイコノクラスム以前のモザイク壁画の残る聖堂が多く残る。そこには「バラツキ」あるいはゆらぎが存在するだろうか。
文様帯及びハトの図 ガッラ・ブラチディア廟堂、天井への移行部とその下のアーチ部分 424-450年
アーチ部分には緑色から紺色へグラデーションの帯に金のグラデーションが挟まっているが、縦にも1列に異なる色の線がある。
アーチから天井への移行部との境目は曲面になっていて、紺地に金の唐草文様が表される。
天井への移行部には明るい金色、暗い金色そして紺色へと変化して、地上から空への変化を表している。
早い時期に造られているにもかかわらず、ガラス・テッセラが整然と並んでいる。
聖者 正教徒洗礼堂内部 449-452年
『ビザンティン美術への旅』は、低い壁面のアーチとアーチの間にできる三角形の空間には、楕円の金の枠取りの中、聖者が表されているという。
おそらく小さな壁面のためテッセラが大きく見えるのだろうが、ガッラ・ブラチディア廟のテッセラと同じ大きさかと思うほどだ。
そんな少ない数のテッセラで、聖人の服には、衣文線も色を変え、白い布にもグラデーションのある色の変化をつけるなど、立体的な表現をしている。
そのような表現からすると、聖人の周囲を埋める金色のテッセラが色も形様々であるのは、意図的なものと考えられる。
ライオンと蛇を踏みしめるキリスト 大司教館付属礼拝堂 494-519年
壁面からヴォールト天井には黒い枠線があり、テッセラが整然と並べられている。アーチ形移行部は凹曲面となっていて、くりくりとよじれながら表と裏を見せるリボンは、グラデーションによって立体的に表現されている。この立体的な表現はキリストにも当てはまる。
しかし、キリストの背後やヴォールト天井にはそれが見られない。ただ空間を金色のテッセラで埋めただけのようで、返ってそこに「バラツキ」が感じられる。
また、ヴォールト天井の花文様のようなものは、よく見ると中央の赤い花から白い横向きの花が十字架のように出ていて、アヤ・ソフィアの天井の文様を想起させる。 アヤ・ソフィアのものが再建当時のものだとしても537年なのでこの花十字の方が早い。
テオドラと従者たち ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂アプシス 547年頃
上の人物像と同じく顔など細かい表現をしているところは小さなテッセラを使っている。ユスティニアヌスの皇妃テオドラは俗人であるが頭光が表され、その中は金色のテッセラが同心円状に埋め込まれている。
背景部分はモザイク職人が違うのではないかと思うほど、テッセラは適当に貼り付けられている。
最後の晩餐 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊側壁 5世紀末-6世紀初
テッセラの大きさがほぼ1㎝角だとすると、この絵はかなり小さなものだろう。
ローマ時代には食事は台の上に寝そべって中央のテーブルから取って食べていたらしいが、それがよく表現されている。
寝台は4つに区切られその一つ一つが色の違うテッセラが巡っている。金にもいろんな色があって、ほぼ大きさのそろったものを巧みに配置したようだ。
背景では、大きさも形も色もバラバラの金色のテッセラを水平に並べようとしてある。
変容部分 ラヴェンナ近郊、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 549年頃
『光は東方より』は、この画面の文字通り中心になっているのは、地平線の上に浮かぶ巨大なメダイヨン(円盤)である。円の中には無数の金銀の星がまたたき、それを背景に十字架が現れる。十字架とメダイヨンの縁は宝石で飾られている。十字架の交差部分にはキリストの顔が描かれている。が、その顔はいかにも小さく、この大きな画面の中ではほとんど目につかないという。
テッセラは十字架の外側数列を除いては整然とは並んでいない。特に金色のテッセラは形も色もバラバラで、乱反射してキラキラ輝いているようだ。
イコノクラスム以前の初期キリスト教美術では、テッセラは整然と並んだところと適当に貼り付けられたような部分とが混在する。整然と貼り付ける技術もあったので、適当に貼り付けたのではなく、意図的にそのように貼り付けていたのかも。
それを考えると、「バラツキ」が「ゆらぎ」を生むことを知っていて、テッセラの角度も意図的に変えて貼り付けたのだろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「NHK日曜美術館名画への旅2 古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」(1994年 講談社)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
文様帯及びハトの図 ガッラ・ブラチディア廟堂、天井への移行部とその下のアーチ部分 424-450年
アーチ部分には緑色から紺色へグラデーションの帯に金のグラデーションが挟まっているが、縦にも1列に異なる色の線がある。
アーチから天井への移行部との境目は曲面になっていて、紺地に金の唐草文様が表される。
天井への移行部には明るい金色、暗い金色そして紺色へと変化して、地上から空への変化を表している。
早い時期に造られているにもかかわらず、ガラス・テッセラが整然と並んでいる。
聖者 正教徒洗礼堂内部 449-452年
『ビザンティン美術への旅』は、低い壁面のアーチとアーチの間にできる三角形の空間には、楕円の金の枠取りの中、聖者が表されているという。
おそらく小さな壁面のためテッセラが大きく見えるのだろうが、ガッラ・ブラチディア廟のテッセラと同じ大きさかと思うほどだ。
そんな少ない数のテッセラで、聖人の服には、衣文線も色を変え、白い布にもグラデーションのある色の変化をつけるなど、立体的な表現をしている。
そのような表現からすると、聖人の周囲を埋める金色のテッセラが色も形様々であるのは、意図的なものと考えられる。
ライオンと蛇を踏みしめるキリスト 大司教館付属礼拝堂 494-519年
壁面からヴォールト天井には黒い枠線があり、テッセラが整然と並べられている。アーチ形移行部は凹曲面となっていて、くりくりとよじれながら表と裏を見せるリボンは、グラデーションによって立体的に表現されている。この立体的な表現はキリストにも当てはまる。
しかし、キリストの背後やヴォールト天井にはそれが見られない。ただ空間を金色のテッセラで埋めただけのようで、返ってそこに「バラツキ」が感じられる。
また、ヴォールト天井の花文様のようなものは、よく見ると中央の赤い花から白い横向きの花が十字架のように出ていて、アヤ・ソフィアの天井の文様を想起させる。 アヤ・ソフィアのものが再建当時のものだとしても537年なのでこの花十字の方が早い。
テオドラと従者たち ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂アプシス 547年頃
上の人物像と同じく顔など細かい表現をしているところは小さなテッセラを使っている。ユスティニアヌスの皇妃テオドラは俗人であるが頭光が表され、その中は金色のテッセラが同心円状に埋め込まれている。
背景部分はモザイク職人が違うのではないかと思うほど、テッセラは適当に貼り付けられている。
最後の晩餐 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊側壁 5世紀末-6世紀初
テッセラの大きさがほぼ1㎝角だとすると、この絵はかなり小さなものだろう。
ローマ時代には食事は台の上に寝そべって中央のテーブルから取って食べていたらしいが、それがよく表現されている。
寝台は4つに区切られその一つ一つが色の違うテッセラが巡っている。金にもいろんな色があって、ほぼ大きさのそろったものを巧みに配置したようだ。
背景では、大きさも形も色もバラバラの金色のテッセラを水平に並べようとしてある。
変容部分 ラヴェンナ近郊、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 549年頃
『光は東方より』は、この画面の文字通り中心になっているのは、地平線の上に浮かぶ巨大なメダイヨン(円盤)である。円の中には無数の金銀の星がまたたき、それを背景に十字架が現れる。十字架とメダイヨンの縁は宝石で飾られている。十字架の交差部分にはキリストの顔が描かれている。が、その顔はいかにも小さく、この大きな画面の中ではほとんど目につかないという。
テッセラは十字架の外側数列を除いては整然とは並んでいない。特に金色のテッセラは形も色もバラバラで、乱反射してキラキラ輝いているようだ。
イコノクラスム以前の初期キリスト教美術では、テッセラは整然と並んだところと適当に貼り付けられたような部分とが混在する。整然と貼り付ける技術もあったので、適当に貼り付けたのではなく、意図的にそのように貼り付けていたのかも。
それを考えると、「バラツキ」が「ゆらぎ」を生むことを知っていて、テッセラの角度も意図的に変えて貼り付けたのだろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「NHK日曜美術館名画への旅2 古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」(1994年 講談社)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
2007/01/06
1月6日はキリストの公現祭(エピファニー)
昔々パリに住んでいた時、年の暮れにスペインを旅行した。バレンシアで街を案内してくれたスペイン人にクリスマスのことを聞こうとした「12月25日はノエル(フランス語でクリスマスのこと)で・・・」。すると「ノエルは12月25日ではなく1月6日だ」と言われ、それ以上話が進まなかった。後日スペイン通でカトリック信者の人にその話をすると怪訝な顔をしていた。
パリに帰って、当時習っていたドンテル(ボビンレース)の教室に行くと、みんなが「今日はガレット・デ・ロワの日だ」とうきうきしていた。聞くとケーキの中にコインを入れて焼き、切り分けてそのコインが入っていた人が王になる」などと教えてもらったように記憶している。そしてガレットを切り分けてもらったが、私の分にはコインは入っていなかった。入っていた人は紙で作った王冠を被ったように思う。 そういう風習があるのかと思ったくらいだった。
その後かなりの時が経ち、ロマネスクやビザンティン美術について勉強していると、どうも1月6日はキリストの公現日(エピファニー)になっているらしいことがわかり、上のことを思い出した。
キリストの公現日というのは、キリスト降誕についてで登場した東方に住むマギがキリストの誕生を知ってお祝いにはるばるやってきて、贈り物を手渡した日のことだ。
『黒マリアの謎』は、ローマ教皇リベリウスが、354年、それまで公現(マギの礼拝)の祝日とともに1月6日に祝われていた降誕の祝日(クリスマス)を、冬至の日であった12月25日に移した。
こうして、12月25日に降誕を祝う慣習が定着するに伴って、降誕図から分離していった「マギの礼拝」図は、西方キリスト教(ローマ・カトリック)圏において特に、キリストが全人類の前に救済者として姿を現したことを意味する「公現(エピファニー)」図として発展してゆくという。
また「マギの礼拝」図については、東方の占星術師たち(マギ)が星占いによって「ユダヤ人の王」の誕生を知り、この星に導かれてベツレヘムまでやってきて、嬰児キリストに黄金と乳香と没薬を献げて礼拝したというものである。この説話が図像として現れた歴史は古く、2世紀のプリシッラなど多くのカタコンブの壁画に描かれている。
カタコンブでは、地上の権力者カエサルの代わりに天上の王キリストを選んだ信者たちの象徴にすぎなかったと思われるマギは、かくして、10世紀頃には占星術師から王に昇格して王冠を戴き、最初は不特定だった人数も3人に確定して、そのそれぞれがアジア、アフリカ、ヨーロッパという3つの世界と、老年、中年、青年という3つの年齢層の代表者しいうことになっていくのである。その結果、図像の上でも最初は同じ服装をした類型的な群像であったマギたちの間に区別が生じ、それぞれ名前までついて(必ずしも一定ではないが)、ついには、王権の象徴である黄金を献ずる白髪のメルキオールはアジアと老年の代表、神性を象徴する乳香を献げる黒い顔をしたバルタザールはアフリカと中年の代表受難と死を暗示する没薬を献げるガスパールはヨーロッパと青年の代表ということになり、呼称も「マギの礼拝」から「三王礼拝」へと変わってしまうのだという。
そのようなマギの礼拝を、ビザンティン及びロマネスク美術から紹介します。
イタリア、ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊東端の壁面モザイク 6世紀
東ローマ帝国(後世ビザンティンと呼ばれるようになる)の皇帝テオドリクス時代とユスティニアヌス時代の部分が混在しているらしい。
マギが異邦人としてエキゾチックな服装で表されていて、背後の植物も少しだけ実を付けたナツメヤシだ。そのナツメヤシの右にマギたちを導いた星が輝いている。

東ローマ帝国(後世ビザンティンと呼ばれるようになる)の皇帝テオドリクス時代とユスティニアヌス時代の部分が混在しているらしい。
マギが異邦人としてエキゾチックな服装で表されていて、背後の植物も少しだけ実を付けたナツメヤシだ。そのナツメヤシの右にマギたちを導いた星が輝いている。

イタリア、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂後陣(アプス、アプシス)側壁 547年頃
ユスティニアヌス皇帝の妃テオドラのマントの裾にマギの礼拝が表されているのだが、実際にそのような衣装があったのか、壁面なので描くことができたのかはわからない。皇帝も妃も、都のコンスタンティノープルから遠く離れたラヴェンナ(すでに滅んだ西ローマ帝国の首都)には一度も来ていないのだそうだ。

ユスティニアヌス皇帝の妃テオドラのマントの裾にマギの礼拝が表されているのだが、実際にそのような衣装があったのか、壁面なので描くことができたのかはわからない。皇帝も妃も、都のコンスタンティノープルから遠く離れたラヴェンナ(すでに滅んだ西ローマ帝国の首都)には一度も来ていないのだそうだ。

フランス、 モワサックのサン・ピエール修道院回廊東側の柱頭彫刻 11世紀末
ここには花のような星が2つある。マギたちが大きく表され、聖母子は左端の玉座に座っている。壊れているので確かなことは言えないが、三人のマギたちが近づいてくるにもかかわらかず、その方を見ずに正面を向いている。しかも、幼子にいたっては反対側を向いている。
ここには花のような星が2つある。マギたちが大きく表され、聖母子は左端の玉座に座っている。壊れているので確かなことは言えないが、三人のマギたちが近づいてくるにもかかわらかず、その方を見ずに正面を向いている。しかも、幼子にいたっては反対側を向いている。
フランス、ショーヴィニーのサン・ピエール教会内陣柱頭彫刻 1100年以降
ここでは柱頭の1面という限られた空間のせいか、3人のマギが聖母子を取り囲んでいる。星は大きく表され、神の右手が聖母子を祝福している。

ここでは柱頭の1面という限られた空間のせいか、3人のマギが聖母子を取り囲んでいる。星は大きく表され、神の右手が聖母子を祝福している。

フランス、ノアン・ヴィックのサン・マルタン聖堂、身廊東側の壁画 12世紀前半
キリストの上の方に星が描かれている。その星に導かれたマギは2名しか描かれていない。背後の馬に乗る3人はマギたちを異時同図的に描いたものだろうか。

キリストの上の方に星が描かれている。その星に導かれたマギは2名しか描かれていない。背後の馬に乗る3人はマギたちを異時同図的に描いたものだろうか。

フランス、クレルモン・フェランのノートルダム・デュ・ポール聖堂南扉口上部の楣石の浮彫 12-13世紀
上の聖母子はマギたちを見ることなく正面を向いていて「玉座の聖母子」風だったが、この聖母子は少し横を向いてマギたちを見ている。ここには星はない。
他にも「マギの礼拝」はいろんな教会を飾っていますが、私の手元の図版はあっても白黒です。くるーぞのお気に入りにも入れている「ロマネスク美術館」には、様々な教会のマギの礼拝が紹介されています。
また、マギたちは聖母子に贈り物を届けた後、天使からヘロデ王のいるエルサレムには行くなと告げられるので、前回の眠るマギの場面はクリスマスではなく、エピファニーの後のことだということに気がつきました。
※参考文献
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店
「NHK日曜美術館 名画への旅2古代2・中世1」 1994年 講談社
「ビザンティン美術への旅」 益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集8ロマネスク」 1996年 小学館
「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子他 2003年 河出書房新社
「磯崎新の建築講義4 サン・ヴィターレ聖堂」 2004年 六曜社
上の聖母子はマギたちを見ることなく正面を向いていて「玉座の聖母子」風だったが、この聖母子は少し横を向いてマギたちを見ている。ここには星はない。
他にも「マギの礼拝」はいろんな教会を飾っていますが、私の手元の図版はあっても白黒です。くるーぞのお気に入りにも入れている「ロマネスク美術館」には、様々な教会のマギの礼拝が紹介されています。
また、マギたちは聖母子に贈り物を届けた後、天使からヘロデ王のいるエルサレムには行くなと告げられるので、前回の眠るマギの場面はクリスマスではなく、エピファニーの後のことだということに気がつきました。
※参考文献
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店
「NHK日曜美術館 名画への旅2古代2・中世1」 1994年 講談社
「ビザンティン美術への旅」 益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集8ロマネスク」 1996年 小学館
「図説ロマネスクの教会堂」 辻本敬子他 2003年 河出書房新社
「磯崎新の建築講義4 サン・ヴィターレ聖堂」 2004年 六曜社
2014/03/11
窓にアラバスターの薄板
ロドスのヨハネ騎士団長の館の窓には、すべてではないがアラバスターの薄板が嵌め込まれていた。おそらく、14世紀に建立されてから1856年に火薬庫が爆発するまでは、窓ガラス全てがアラバスターだっただろう。
アラバスターは、日が射し込んでいる間は光を通すので、採光の役割は果たす。
それだけでなく、アラバスターの薄板は、縞模様が左右対称になるように並べられている。軍事拠点であっても、それくらいのゆとりはあったようだ。
そして、窓の中央の柱には線刻のような十字架が。
アラバスターの薄板が窓ガラスの代わりに使われていたことは、ギリシア美術に興味を持つよりも、ビザンティン美術を勉強するよりもずっと以前、ロマネスク美術に心を奪われていた頃に知った。
それでスペインやフランスの田舎に点在するロマネスク教会を巡って、アラバスターの窓を見つけた教会で、窓から日が差している間じっくりと眺めて、時の移ろいを感じたいという夢を抱くようになったのだが、なかなか実現せずに、今に至っている。
サンタマリア教会後陣 1123年献堂 スペイン、タウール
後陣側に日が差している時。
『ロマネスクの園』は、聖母子の向かって左にメルヒオール、右がガスパール、バルタザールの文字が見えるがこれはマギ(三賢王)の名である。これらの壁画は何十年か前に驢馬の背中にのせられて、はるばるバルセローナのカタルーニア美術館に運ばれて展示されている。現地には現在模作が飾られているという。
機会があれば、カタルーニア美術館も、タウール(現在はカタルーニア語のタウイとなっていることがある)にも行ってみたい。
それにしても細くて小さな窓。こんな窓から光が射し込んだとしても、教会堂内を明るくできたのかと思うほどだ。
夜または光の差していない時間帯
ミレニアムが過ぎても世界の終末はやってこなかったのは神のご加護があったからだということで、1000年以降信仰心が高まり、各地に教会堂が建立されたが、ローマ時代の建築技術は西ローマ帝国滅亡後失われてしまったため、アーチをつくることさえ困難で、ヴォールト天井を架けていて天井が崩れてしまうということも度々あったと、何かの本で読んだことがある。
『図説ロマネスクの教会堂』は、トンネルヴォールトでは横圧力と垂直荷重は下の壁体に均一にかかる(矢印)ので、壁体に大きな開口を設けることは難しいという。
そんな時代には、後陣でさえも小さな開口部を開くのがやっとだったのだろう。
壁画がコピーだとしても、このようなひなびた外観を見ると、ボイ渓谷には是非行ってみたいと改めて思う。
しかし、その短くはない年月には、他の時代にもアラバスターの薄板をはめ込んだ教会、あるいは墓廟があることもわかってきた。
ガッラ・プラチーディア廟 5世紀半ば イタリア、エミーリア・ロマーニャ州ラヴェンナ
地上階の奥壁と、リュネットそれぞれの中央に四角い窓がある。
ラヴェンナには、そして初期キリスト教時代にはもっと窓を大きく、たくさん開いた聖堂があるのに、この建物は数少ない小さな窓があるだけ。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、この建物はガルラ・プラチディアが自分の墓廟として建てたと従来考えられていたが、今日ではそれは疑わしく、むしろ聖ラウレンティスの記念堂であったのではないかと考えられているという。
どちらにしても、この建物は墓廟として建てられたので、窓を大きく開く必要がなかったのだ。
『イタリアの歓び』では、アラバスターの薄板から入り込む光のこの写真に1頁を割いていて、アラバスター(大理石の一種)の薄板を通過したやわらかな外光が、堂内をほのかに照らすという。
アラバスターの窓に注目した人が他にもいたのだった。
しかしながら、『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
これは板ガラスのことだろうか、それともロンデル窓かな?
ポンペイ、スタビア浴場控え室の円窓 前2世紀
『完全復元ポンペイ』は、天井は半円筒形で、複雑なスタッコの浮き彫りが施されている。写真の奥にみえるのは運動場への出入り口、その上にガラスをはめこんだ小さくて円い採光窓があるという。
吹きガラスが誕生したのは前1世紀第3四半期頃とされているので、ロンデル窓はまだ登場していない。前2世紀では鋳造で平たいガラスを作っていたのだろう。
アラバスターの窓があることを知って以来、まず窓には光を通す石の薄板が嵌め込まれ、後に板ガラスができたのだと思っていた。
ところが、その後、ポンペイのガラス窓や吹きガラスのロンデル窓の存在を知り、必ずしもアラバスターの窓が歴史的に古いというわけではないことがわかってきた。
関連項目
ロドス島6 ヨハネ騎士団長の館1
ロドス島7 ヨハネ騎士団長の館2
ポンペイでスタビア浴場を見学したかった理由
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」 谷一尚 1999年 同成社
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス
「ロマネスクの園」 高坂知英 1989年 リブロポート
「中世が見た夢」 小佐井伸二 1988年 筑摩書房
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「イタリアの歓び 美の巡礼 北部編」 中村好文 2003年 新潮社
「図説 ロマネスクの教会堂」 辻本敬子 ダーリング・益代 2003年 河出書房新社
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂 静なる空間の輝き」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社
2013/08/09
ローマ時代、色ガラスの舗床モザイクがあった
ペロポネソス半島のコリントス遺跡は、ローマ軍に徹底的に破壊されたため、古代ギリシア時代の遺構で残っているものはアポロン神殿だけで、古代コリントス遺跡というのは、その後ローマ時代に築かれた街を指す。
舗床モザイク 古代コリントスの西アナプゴラ村出土 5X9m 後2世紀末-3世紀初
博物館の説明板は、ローマ時代の邸宅の食堂に比定されている。
中央の3つのパネル(現状は2つ)は鳥と果実が描かれ、立体的に見えるように構成した、複雑なメアンダー文に囲まれている。
その周囲をケンタウロス、花々、走る野生獣の入り込んだ唐草文が巡っている。
外側の円周の重なり合う装飾帯(七宝繋文)は、食事用の寝台の位置を示し、おそらく9台が置かれた。舗床モザイクに、一般的な石のテッセラに加えて、ガラスのテッセラが多く使われているのは注目に値するという。
別のカメラで撮ったアップの写真。色が悪くて色石のように見えるのが残念。実際はもっと鮮やかな色だった。
色ガラスというのは、当時は非常に高価で、人が踏み歩く床ではなく、壁面に使ったと何かの本で読んだ。だから、キリスト教が公認され、教会堂が建立されるようになると、壁面やドームを荘厳するようになった。
ところが、ここでは個人の邸宅の床に使われている。それも、食べかすを落とすことになっていた食堂の床に。
『ギリシア都市の歩き方』は、コリントスは、古代ギリシア時代以来、地峡に西のコリントス湾に面するレカイオン港と、東のサロニコス湾のケンクレアイ港という2港を擁すおかげで、アジアとヨーロッパを安全かつ迅速に結ぶことのできる地理的条件を備えていることに変わりない。それに加えて、地中海世界がひとつの海となったローマ時代には、首都ローマと東地中海を容易に結ぶコリントス経由航路は、はるかに重要な意味を担うようになり、エフェソス、ミレトス、アフロディシアスのような属州アジアの重要な拠点都市とローマを結ぶ、大動脈路のひとつとなった。
このような経済的な繁栄は、ギリシア時代と同じように、コリントスの市民に特異な性格を形成させた。それはギリシアの諺で、「コリントスへ赴くことは誰彼の差別なくなしうるにあらず」と言われるほどのこと人の贅沢、奢侈そして放蕩であるという。
その限りない贅沢への希求が、床に色ガラスでモザイクを作らせたのだろう。
この立体的に見える卍繋文は、ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にあったと記憶している。
ガッラ・プラチディア廟(425-450年頃)は、小さな建物の壁面、ドームそしてその移行部までがガラス・モザイクで埋め尽くされている。
十字交差部の大きなアーチの一つに卍繋文のモザイクがある。
卍繋文は2列に構成されているが、その立体感を目指した色ガラスの配置は変わらない。
ところで、ポンペイ遺跡(-後79年)には、色ガラスのテッセラを使ったモザイクがある。
一つはアウグストゥス帝期(前27-後14年)に邸宅の奥庭に造られるようになったらしい、泉水堂に使われた(『完全復元ポンペイ』より)。
それについてはこちら
そして、もう一つは、邸宅の庭園に作られた蔓棚の円柱だった。
それについてはこちら
このように、宗教施設を荘厳するためでもなく、人々は、金に飽かして色ガラスであちこちをモザイクで飾っていたのだった。
関連項目
メアンダー文を遡る
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
卍繋文の最古は?
コリントス遺跡3 博物館2
ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にペンデンティブの前身
壁面モザイクはポンペイの泉水堂(nicchie dei ninfei)が最初?
ポンペイの円柱にガラスモザイク(Colonne a mosaico in pasta vitrea)
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川選書
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
2011/08/12
ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にペンデンティブの前身
ハドリアヌスの別荘(118-134年)に建造された大浴場は交差ヴォールトとはいえ、四角い平面に天井が架構されていた。
その壁面はレンガ造りで、ヴォールト天井の起拱点に出っ張った白い石が嵌め込まれ、その下部も壁面よりは出ている。おそらく上の荷重を支えるため、補強の意味があったのだろう。
交差ヴォールトは、四方の起拱点から対角に出たアーチを交差させるため、1つの起拱点から2つの曲面が立ち上がっている。起拱点から鋭角の三角曲面が2つ出ていることになり、それが滑らかな1つの三角曲面、ペンデンティブへと発展していくのではないかと考えるようになった。
今まで大きな建造物ばかり探してきたが、5世紀半ばに造られたというラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にも小さなドーム天井があった。
グーグルアースでは解像度が悪く、下の画像の中央にある墓廟は陰になってほとんどわからない。
大きな地図で見る
外観は瓦屋根で、ドームとは思えない。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、この建物はガルラ・プラチディアが自分の墓廟として建てたと従来考えられていたが、今日ではそれは疑わしく、むしろ聖ラウレンティスの記念堂であったのではないかと考えられているという。
同書は、ガッラ・プラチディアは信念と信仰の人だったといわれる。彼女は数多くの聖堂を建設したが、その一つ、サンタ・クローチェ聖堂の入口前室(ナルテクス)に付されていたものが、この建物である。ナルテクスは後に前面道路建設のために取り壊されたが、この小建物だけは切り離され、独立した建物として残った。
長辺が12.5m、短辺が10.25mのラテン十字平面をなしているという。出入口のあるのが北。
しかし、中から見上げると確かにドームだった。ドームの始まりのわかる箇所はなく、四隅へと狭まりながら続いた一つの曲面のようだ。
ただ、四隅はかなり凹面になっている。
いったいどんな構法でドームを架構したのだろう。ドームの延長のように四隅に垂れ下がったものは途中で消滅し、両側の浅いアーチの縁を飾る赤い文様帯だけになってしまう。2本の文様帯も互いに近づいていき、やがて太い1本の帯となる。正方形の四隅は90度に凹んでいるはずなのに、私の目には四隅から迫り出しているように見える(矢印)。
かなり凹んだ曲面だが、ひょっとして、これがペンデンティブの最初のものではないのだろうか。交差ヴォールトの対角線となる横断アーチが途中からなくなって、ドームという凹凸のない曲面へと繋がっていくように見える。
横断アーチをなくした分、四隅から出た浅いアーチでドームからの荷重を分散させているのではないだろうか。
それにしてもドーム部の壁体の分厚いこと。日本的にいうと宝形造り(ほうぎょうづくり)のような屋根にすることで、ドーム頂部はやや薄く仕上げてある。
しかし、ペンデンティブを支える稜線のようなものは柱ではなく、壁面から出ているのだった。
四隅が柱になるのはいつのことだろうか。
どうもペンデンティブを用いたドームは、正方形からどのように円形に持って行くかという工夫ではなく、ドームからいかに正方形平面に持って行くかということではなかったかと考えるようになった。
関連項目
11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「NHK名画の旅2 光は東方より」 1994年 講談社
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂 静なる空間の輝き」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
その壁面はレンガ造りで、ヴォールト天井の起拱点に出っ張った白い石が嵌め込まれ、その下部も壁面よりは出ている。おそらく上の荷重を支えるため、補強の意味があったのだろう。
交差ヴォールトは、四方の起拱点から対角に出たアーチを交差させるため、1つの起拱点から2つの曲面が立ち上がっている。起拱点から鋭角の三角曲面が2つ出ていることになり、それが滑らかな1つの三角曲面、ペンデンティブへと発展していくのではないかと考えるようになった。
今まで大きな建造物ばかり探してきたが、5世紀半ばに造られたというラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にも小さなドーム天井があった。
グーグルアースでは解像度が悪く、下の画像の中央にある墓廟は陰になってほとんどわからない。
大きな地図で見る
外観は瓦屋根で、ドームとは思えない。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、この建物はガルラ・プラチディアが自分の墓廟として建てたと従来考えられていたが、今日ではそれは疑わしく、むしろ聖ラウレンティスの記念堂であったのではないかと考えられているという。
同書は、ガッラ・プラチディアは信念と信仰の人だったといわれる。彼女は数多くの聖堂を建設したが、その一つ、サンタ・クローチェ聖堂の入口前室(ナルテクス)に付されていたものが、この建物である。ナルテクスは後に前面道路建設のために取り壊されたが、この小建物だけは切り離され、独立した建物として残った。
長辺が12.5m、短辺が10.25mのラテン十字平面をなしているという。出入口のあるのが北。
しかし、中から見上げると確かにドームだった。ドームの始まりのわかる箇所はなく、四隅へと狭まりながら続いた一つの曲面のようだ。
ただ、四隅はかなり凹面になっている。
いったいどんな構法でドームを架構したのだろう。ドームの延長のように四隅に垂れ下がったものは途中で消滅し、両側の浅いアーチの縁を飾る赤い文様帯だけになってしまう。2本の文様帯も互いに近づいていき、やがて太い1本の帯となる。正方形の四隅は90度に凹んでいるはずなのに、私の目には四隅から迫り出しているように見える(矢印)。
かなり凹んだ曲面だが、ひょっとして、これがペンデンティブの最初のものではないのだろうか。交差ヴォールトの対角線となる横断アーチが途中からなくなって、ドームという凹凸のない曲面へと繋がっていくように見える。
横断アーチをなくした分、四隅から出た浅いアーチでドームからの荷重を分散させているのではないだろうか。
それにしてもドーム部の壁体の分厚いこと。日本的にいうと宝形造り(ほうぎょうづくり)のような屋根にすることで、ドーム頂部はやや薄く仕上げてある。
しかし、ペンデンティブを支える稜線のようなものは柱ではなく、壁面から出ているのだった。
どうもペンデンティブを用いたドームは、正方形からどのように円形に持って行くかという工夫ではなく、ドームからいかに正方形平面に持って行くかということではなかったかと考えるようになった。
関連項目
11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「NHK名画の旅2 光は東方より」 1994年 講談社
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂 静なる空間の輝き」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
2014/01/24
ドームを持つ十字形プラン聖堂の最初は?
テッサロニキのアギア・ソフィアは、アギオス・ディミトリオス聖堂や近くのアヒロピイトス聖堂のようなバシリカ式ではない。バシリカにはないドームが、がっしりした建物の上に載っている。
小さな袖廊ながら、身廊と共にドームに集中する十字形プランは、この聖堂が最初なのだろうか。
しかし、『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、方形ギリシア十字式プランの起源を見るとき、テサロニキの5世紀末のオシオス・ダヴィド聖堂が現存する最も早期の作例となるという。
同書は、「方形ギリシア十字式」cross-in-square、また「内接十字式」cross-inscribed などとも呼ばれる。集中式の特殊な形態で、中央にドームを戴き、そこから東西南北にヴォールトの腕を伸ばす。腕部の長さが基本的に等しいプランによって、「ギリシア十字」(四本の腕の長さが等しい十字)の名がある。東端にはアプシスに加えて、側祭室を設けることが多い。プランがギリシア十字を含む正方形になるように、四隅に小室が作られる。9世紀以降ビザンティン聖堂建築の主流となり、その起源に関してはビティニア(小アジア北西部)などの説があるという。
ビティニアはカルケドンやニカイアなど、最初期のキリスト教の重要な公会議が行われた都市のある地方だが、教会建築は確認できない。
テッサロニキにもっと早い時期の十字式プランの聖堂があったが、その平面図も外観の図版もなく、あるのはアプシスのモザイクだけだった。
玉座のキリスト 5世紀末? モザイク オシオス・ダヴィド聖堂アプシス
『世界歴史の旅ビザンティン』は、アプシスには全面に天国の4本の川、岩を含む地面、建物、木々、雲が描かれ、「神の顕現(テオファニア)」の場となっている。四福音書記者の象徴に囲まれた円形の輝かしい光背には、髯のない若いイエスが座って右手で祝福をする。左で耳に手をあてるのは旧約の預言者エゼキエル、右に座して物思いにふけるのは預言者ハバクク(もしくはエリヤ)といわれるが、異論も少なくない。年代も主題解釈も論議の多い作だが、豊かな自然描写は5世紀のものだろうという。
玉座のキリストは若い。キリスト教でも仏教でも、その美術の初期のものには、キリストやブッダが若く表現されるという共通点がある。
同著者は『地中海紀行ビザンティンでいこう!』で、5世紀の、銀を多用した神秘的なモザイクのアプシスという。
銀箔のサンドイッチガラスは経年変化で黒くなるのかな。それとも写し方で黒っぽく見えているだけかな。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、旧市街の北、つまり街の高台は20世紀初頭に建てられたトルコ・マケドニア様式の民家が並ぶ、風情のある地区である。道は狭く錯綜し、はじめて歩く者が目的地にたどり着くことは難しい。
今日オシオス・ダヴィドと称される小さな聖堂はかつてラトモス修道院の主聖堂(カトリコン)であった。正方形に十字架を内接させたプランの建築であったが、西半分がなくなって奇妙な形になっているともいう。
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂と同じ内接十字形の平面のようだが、交差部にドームはなかったのだろうか。
浅野和生氏のフォト・アルバムのテサロニキ、アヒロピイトス聖堂、オシオス・ダヴィド聖堂には、もとはギリシア十字型でドームがあったようですが、ドームや建築の一部は失われていますとある。
このアプシスの上にわずかに写った構造から、十字形からドームへどのように移行していったかを想像するのは難しい。スキンチかペンデンティブか。
ペンデンティブだとすると、コンスタンティノープルのアギア・ソフィア以前の物になり、最古ということになるし、スキンチとなると、東方からこんな早い時期に請来されたことになる。
ひょっとすると、ガッラ・プラチディア廟(425-450年頃)のように、どちらでもないドームへの移行部だったのかも。
ガッラ・プラチディア廟は十字形の交差部にドームがのっているが、ギリシア十字式プランではない。
その外観。とても内部にドームがあるようには見えない。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、この建物はガルラ・プラチディアが自分の墓廟として建てたと従来考えられていたが、今日ではそれは疑わしく、むしろ聖ラウレンティスの記念堂であったのではないかと考えられているという。
ガッラ・プラチディア廟ではなく聖ラウレンティスの記念堂(マルティリウム)だったとしても、建造当初の目的は教会ではなかったのだ。
クズル・キリッセ 5-6世紀 カッパドキア、シヴリヒサール
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、この円蓋を支える柱をもたないプリミティヴな構成は、コンスタンティノポリスの9世紀のアティク・ムスタファ・パシャ・ジャミイにも見られる。オシオス・ダヴィドとほぼ同時代に建立されたカッパドキアのシヴリヒサールのクズル・キリッセ(赤い聖堂)に、方形ギリシア十字式プランへの移行形を示す興味深い建築構成が見られる。コンスタンティノス・リプス修道院のように円蓋を4本の円柱が支え、微妙なリズムのある、調和した内陣の構成は、コンスタンティノポリスの聖使徒聖堂に見るような単純なギリシア十字式プランとバシリカ式との結合によって完成される。
5世紀末のクズル・キリッセ聖堂にもスキンチ工法が見られるという。
クズル・キリッセのドームがスキンチで載せられたとしたら、オシオス・ダヴィド聖堂のドームの四隅にもスキンチがあったのかも。
バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ←
関連項目
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる
ペンデンティブの起源はアルメニアではない
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にペンデンティブの前身
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ
※参考サイト
浅野和生氏のホームページのテサロニキ、アヒロピイトス聖堂、オシオス・ダヴィド聖堂
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「地中海紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 1996年 東京書籍
『世界歴史の旅ビザンティン』 益田朋幸 2004年 山川出版社
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂 静なる空間の輝き」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
2011/08/16
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
コンスタンティノープル(現イスタンブール)にはアヤソフィアと呼ばれるアギア・ソフィア大聖堂の他に、もう一つアヤソフィアという名の建物がある。キュチュク・アヤソフィア・ジャーミイ KUCUK AYASOFYA CAMII と呼ばれている。
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平面が八角形で円ではない。しかし、ドームは壁体ではなく、8本の柱で支えられている。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、マルマラ海に面して建つのがキュチュック・アヤソフィア(小アギア・ソフィア)とよばれるアギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂である。ユスティニアヌス帝夫妻によってホルミスダス宮殿の中に建立された集中式の建築であるという。
アギア・ソフィアと同様ユスティニアヌス帝が建てた聖堂だった。彼らはバシリカ式聖堂をラヴェンナに建てているが、何故ドームのある集中式聖堂を宮殿内に建てたのだろう。宮殿内ということで、面積的な制限からだろうか。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、宮殿礼拝堂であったという説と、修道院とする説とがある。建物は外部がおよそ正方形、内部が八角形で、二重構造になった内側をドームが覆っているという。
ローマのサンタコスタンツァ廟を円形から正方形にし、ドームを載せる柱を円形ではなく八角形に置いたような聖堂だ。
小さいとはいっても、ドームの内径は15mほどありそうだ。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、内部は分厚く漆喰がぬられているが、大理石の柱頭や浮彫りの文様が美しいという。
美しいモザイクが漆喰の奥に眠っているかも。
柱の上にアーチが載る点や、アーチとアーチの間が三角形となっている点でペンデンティブに近いのでは。残念なことに、三角曲面ではなく、内側にくぼんでいるのだが。
この聖堂がアギア・ソフィアより前か後かわからないが(527年という説もある)、ひょっとして、このペンデンティブの前身とも思える形や、柱でドームを支えるという発想から、アギア・ソフィアの正方形の平面にドームを載せ、それを4本の大支柱(ピア)で支える、柱とドームの間はペンデンティブという形へと発展していったのではないだろうか。
ペンデンティブの起拱点となるピアのうち、南側の2本。北西のピア付近より
『トルコ・イスラム建築』は、アヤ・ソフィアは極めて複雑な構造をしている。後世のオスマン建築の4本柱集中プランモスクの構造にも関連する。
平面図で見ると中央に広大な身廊があり、その両側に側廊があって、3廊式になっている。3廊式のバシリカ式教会堂のプランを基としている、といえる。ナルテックスとアプシスの突出部を含めないと、身廊と両側の側廊の部分をあわせた室内の広さは、横幅約70mX奥行約75mで、かなり正方形にに近い長方形である。
建物の中心の身廊部の構造が前例のない独創である。まず4本の大支柱(巨大なピア)を立て、その上に直径31mの主ドームを「ペンデンティブ」を介して据えているという。
オスマン朝の大モスクのように4本柱集中式プランにした方が建物として安定が良いのではないかと思っていたが、バシリカ式を踏襲したために、主ドームの南北側を窓の多い平たい大タンパンにしたということか。
オスマン建築の4本柱集中式プランこちら
アギア・ソフィア大聖堂と同じ時にニカの反乱で焼失したアギア・イレーネ聖堂も、ユスティニアヌス帝が再建した。
こちらも正方形の平面にドームを載せていて、側廊側は半ドームを造らない。そして、アギア・ソフィアよりずっと長方形の平面となっている。
ここにも曲面となったペンデンティブがある。
アギア・イレーネ聖堂もユスティニアヌス帝によって再建されたのだが、アギア・ソフィアを大ドームの載った大聖堂に建設するために、試験的に造ったのがアギア・イレーネ聖堂ではないのだろうか。
ところが、コンスタンティノープルでペンデンティブが誕生したのではなかった。
『トルコ・イスラム建築』は、ペンデンティブは6世紀にアルメニアで発明されたという。このドーム架構技法を直ちに用い、ローマで実用化されていたコンクリート技法と融合させて、前例のない構造と規模のアヤ・ソフィアの主ドームが実現されたという。
追記:その後、アルメニア教会について調べたが、ペンデンティブの起源はアルメニアではないことが分かった。それについてはこちら
関連項目
11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 株式会社冨山房インターナショナル
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平面が八角形で円ではない。しかし、ドームは壁体ではなく、8本の柱で支えられている。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、マルマラ海に面して建つのがキュチュック・アヤソフィア(小アギア・ソフィア)とよばれるアギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂である。ユスティニアヌス帝夫妻によってホルミスダス宮殿の中に建立された集中式の建築であるという。
アギア・ソフィアと同様ユスティニアヌス帝が建てた聖堂だった。彼らはバシリカ式聖堂をラヴェンナに建てているが、何故ドームのある集中式聖堂を宮殿内に建てたのだろう。宮殿内ということで、面積的な制限からだろうか。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、宮殿礼拝堂であったという説と、修道院とする説とがある。建物は外部がおよそ正方形、内部が八角形で、二重構造になった内側をドームが覆っているという。
ローマのサンタコスタンツァ廟を円形から正方形にし、ドームを載せる柱を円形ではなく八角形に置いたような聖堂だ。
小さいとはいっても、ドームの内径は15mほどありそうだ。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、内部は分厚く漆喰がぬられているが、大理石の柱頭や浮彫りの文様が美しいという。
美しいモザイクが漆喰の奥に眠っているかも。
柱の上にアーチが載る点や、アーチとアーチの間が三角形となっている点でペンデンティブに近いのでは。残念なことに、三角曲面ではなく、内側にくぼんでいるのだが。
この聖堂がアギア・ソフィアより前か後かわからないが(527年という説もある)、ひょっとして、このペンデンティブの前身とも思える形や、柱でドームを支えるという発想から、アギア・ソフィアの正方形の平面にドームを載せ、それを4本の大支柱(ピア)で支える、柱とドームの間はペンデンティブという形へと発展していったのではないだろうか。
ペンデンティブの起拱点となるピアのうち、南側の2本。北西のピア付近より
『トルコ・イスラム建築』は、アヤ・ソフィアは極めて複雑な構造をしている。後世のオスマン建築の4本柱集中プランモスクの構造にも関連する。
平面図で見ると中央に広大な身廊があり、その両側に側廊があって、3廊式になっている。3廊式のバシリカ式教会堂のプランを基としている、といえる。ナルテックスとアプシスの突出部を含めないと、身廊と両側の側廊の部分をあわせた室内の広さは、横幅約70mX奥行約75mで、かなり正方形にに近い長方形である。
建物の中心の身廊部の構造が前例のない独創である。まず4本の大支柱(巨大なピア)を立て、その上に直径31mの主ドームを「ペンデンティブ」を介して据えているという。
オスマン朝の大モスクのように4本柱集中式プランにした方が建物として安定が良いのではないかと思っていたが、バシリカ式を踏襲したために、主ドームの南北側を窓の多い平たい大タンパンにしたということか。
オスマン建築の4本柱集中式プランこちら
アギア・ソフィア大聖堂と同じ時にニカの反乱で焼失したアギア・イレーネ聖堂も、ユスティニアヌス帝が再建した。
こちらも正方形の平面にドームを載せていて、側廊側は半ドームを造らない。そして、アギア・ソフィアよりずっと長方形の平面となっている。
ここにも曲面となったペンデンティブがある。
アギア・イレーネ聖堂もユスティニアヌス帝によって再建されたのだが、アギア・ソフィアを大ドームの載った大聖堂に建設するために、試験的に造ったのがアギア・イレーネ聖堂ではないのだろうか。
ところが、コンスタンティノープルでペンデンティブが誕生したのではなかった。
『トルコ・イスラム建築』は、ペンデンティブは6世紀にアルメニアで発明されたという。このドーム架構技法を直ちに用い、ローマで実用化されていたコンクリート技法と融合させて、前例のない構造と規模のアヤ・ソフィアの主ドームが実現されたという。
追記:その後、アルメニア教会について調べたが、ペンデンティブの起源はアルメニアではないことが分かった。それについてはこちら
関連項目
11世紀に8つのペンデンティブにのるドーム
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 株式会社冨山房インターナショナル
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