ソーヌ川の対岸から眺めたフルヴィエールの丘
ガイドさんは「リヨンの街はフルヴィエールの丘から始まりました」と言った。
その言葉から、若い頃の冬のある日、まだTGVがなく、長々と列車にゆられながら、雨期で水嵩が増して、平らな土地に川の水が溢れているのを見ながらリヨンにやって来たことを思い出した。もちろんリヨンの街は浸水はしていなかったが。
その当時はフルヴィエールの丘の上にローマ時代の劇場があるのをみてもピンとこなかったし、その後も高いところに古代ギリシアやローマの劇場があるのを知ったが、リヨンの丘の上のローマ劇場を思い出すこともなかった。
20世紀後半でさえ雨期になれば水浸しになるような平らな土地である。その頃はまだ制御できることもままならなかっただろう。そうなると、人が住めるのは高い場所しかない。
でも、ローヌ川とソーヌ川という大きな川が平行して北から南へと流れる場所に、人が安全に暮らせるような土地があったのだろうか。
ガイドさんは言った、最初に街をつくったのはローマ人です。
あれ、ケルト人ではなかったの?
『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』によると、前500 年頃のハルシュタット時代の遺構は、ゴルジュドル-(オオカミの喉 Gorge-de-Loup)というものがリヨン西部で発見されているが、フルヴィエールの丘にはない。ラテーヌ時代(前450年頃-前1世紀頃)のものは見つかっているという程度で、街としてのまとまりのあるものはローマ時代を待たなければならなかったようだ。
同書は、リヨンの公式な歴史は、前43年にカエサルの副官が植民地を設立したことから始まる。ルグドゥヌム(リヨンの古名)とラウリカ(スイスのアウグスト)の2つの植民地をガリアに設立したことを後世に伝える碑文があるという。
ローマ時代のリヨンの街の模型
やはりソーヌ川とローヌ川は川の氾濫によって気ままに流れを変えたり、中州ができたりという状態だったのだ。
①ローマ劇場、前15年頃に着工 ②ローマの音楽堂、後1世紀末-2世紀初頭に建造 ③クロワルッスのローマの闘技場、後19年に建造
① 劇場
同書は、劇場の上には、総督の住居であると考えられている豪華な宮殿が建てられており、おそらく前16年-13年にリヨンに滞在していたアウグストゥスの住居であると考えられている。
古い仮説によれば、この原始的な建物には当初、屋根付きギャラリーに囲まれた2段分の階段しかなく、その収容人数は5,000人の観客を超えなかった。ハドリアヌス帝の治世下、120年頃にに拡張され、3列目の観覧席が追加され、収容人数は1万席に増加した。
1980年に行われた建物の再読により、別の仮説が提唱され、最初の劇場には当初から3段の観覧席があったが、もともと木造だった上部のギャラリーは後から石段に置き換えられたという。
で、今回は見学しなかった同書のローマ劇場。この劇場の左奥下にオデオン(音楽堂)がある。
ローマ劇場と音楽堂の復元模型
フルヴィエールのローマ劇場と音楽堂の復元模型 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
ローマ劇場の復元模型
今はなくなってしまった舞台壁。最後の状態では、直径108mのこの劇場はガリア最大の部類にランクされているという。
フルヴィエール、ローマ劇場の復元模型 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
アウグストゥスの治世中、ローマとアウグストゥスに捧げられた帝国崇拝の偉大な連邦聖域が創設され、前10年に発足したという。
アウグストゥスとローマに捧げられた聖域の復元模型
同書は、行政と宗教の中心地であるルグドゥヌムは、アウグストゥス時代から偉大な経済の中心地としての地位も確立した。ローヌとソーヌの軸上に位置するこの街は、地中海と北部地方の間の交易拠点となっていた。リヨンは帝国全土から製品を流入させたが、ローヌやソーヌの航海士、河川貿易の船主、大企業のアトロンなどの偉大な商人の仲介を通じて、これらをガリア全体に供給したという。
リヨンがこんなにアウグストゥスと関わりの深い街だとは知らなかったが、その頃すでに物資運搬の要衝でもあったのだ。
そして、その後も多くのローマ皇帝はリヨンを訪れた。
同書は、その後何世紀にもわたって、街の繁栄がすべての地域で確認されている。街は拡大し、それまで頻繁に洪水に見舞われていたが徐々に安定し、1世紀後半から都市計画が発展した。
1世紀末-2世紀初頭に建てられたオデオンなど、新しいモニュメントを建設している。また、道路は花崗岩で舗装され、大規模な下水道が建設されていたという。
② オデオン
同書は、3000席の収容力があり、音楽演奏、朗読、さらには詩の朗読が行われていたようだ。発掘調査の結果、劇場とは異なり、青銅の板で覆われた屋根があったことは間違いないという。
同書は、床はすべての古代遺跡と同様に、装飾された石や大理石のほとんどが失わたが、オーケストラの床を覆っていた豊かな多色の舗装を復元することができた。エジプト産の赤斑岩、ギリシャ産の緑斑岩、灰色の花崗岩、紫とピンクの角礫岩、ピンク、赤、白、黄色の大理石、灰色の閃長岩など、11種類の石で文様がつくられたという。
『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
同書は、フルヴィエールで見つかった豊かなモザイクの住居の多くは3世紀のもの。同様に、碑文の多くはこの時代のもの。貿易は繁栄し続けた。市は地中海盆地全体からアンフォラを受け取り続けており、ローヌとソーヌの航海船員は今でも特権階級を占めていた。
ところが、丘は3世紀の間に住民が空になり始め、都市は次第に川のほとりに集中していった。その後、サンジャンなどのわずかに都市化された地区に集約していった。
293年のディオクレティアヌス帝の改革により、リヨンは単純な州都リヨネーズに格下げされ、トリ-アがガリアの首都となり、ガリア公会議は廃止されたという。
ガイドさんは続けた。
ローマ時代が終わると、異民族がやってきて、水道橋を破壊して丘の上に住めないようにしたために、人々は低い場所に街をつくり、住むようになりました。
水道橋の遺構は今も残っている。
リヨン、フルヴィエールの丘の水道橋の遺構 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
③ クロワルッス Croix Rousse の円形闘技場
同書は、リヨンとガリア人の最初の司教であるポティン司教は、177年に皇帝マルクスアウレリウスの下で、リヨンのキリスト教徒が逮捕され、迫害されたとき、虐待と高齢のため、刑務所で亡くなった。ブランディーヌ、ポンティーク、サンクトゥス、ビブリス、アレクサンドル、その他約40人は、フォロで裁かれ、クロワルッスの斜面にある円形闘技場で処刑され、その遺灰はローヌ川に投げ込まれたという。
そして初期キリスト教時代
同書は、コンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を発布し、信教の自由が確立されると、隠れ住んでいたキリスト教徒たちは去り、フルヴィエールの丘は荒廃したという。
ルグドゥヌム(リヨンの古名)の4-8世紀
たくさんの教会が低い土地に建立された。フルヴィエールの丘ではなく、ソーヌ川の近くにも居住区ができた。
大きな円で囲まれた居住区の中には、朝散歩で見たサンジャン司教座聖堂北考古学公園の2つの遺構と、現在のサンジャン司教座聖堂の地下に確認されている遺構がある。
ソーヌ川近辺の建物・居住区 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
フルヴィエールの丘南麓の建物・居住区
ガロローマン時代には南麓に居住し、極初期のキリスト教会が建てられたが、4世紀以降は居住区と教会がソーヌ川近辺のに造られるようになった。
ここのサンジャンは、現サンジャン司教座聖堂よりも古いもので、その下にサンイレーネ Saint-Irénée 聖エレナイオスの名が小さく書き込まれている。
同書は、5世紀から、サンジュストと同様にサンイレ-ネでも、聖人の墓の上または隣のネクロポリスに聖堂が建てられた。崇拝の場所としても、聖人たちの遺体の近くに埋葬されることを望む忠実な信者のための埋葬の場所としても機能した。
キリスト教徒は、6-7世紀まで、サンイレ-ネ-サンジュスト地区に埋葬を続けたという。
フルヴィエールの丘南麓の建物・居住区 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
マカベとサンジュスト教会の発掘調査の航空写真
サンイレーネ教会のクリプト 『Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon』より |
現在のサンマルタンデネ教会あたりには、サンミシェルデネ教会があったらしい。いつ頃サンマルタンに替わったのだろう。
関連記事
参考文献
「Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon」Editions aux Arts 2000