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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/05/23

リヨン カテドラル・サンジャンの隣の建物


リヨン旧市街地図
リヨン旧市街地図 LYON TOURISME ET CONGRÈS より


リヨンの旧市街にあるサンジャン司教座聖堂へ向かっていると、サンジャンの手前に古そうな壁が現れた。

お~お、この壁面!
白い切石に薄いレンガのアーチ。コルドバのメスキータを思わせる。それが横に3つ並んだり、上下に2つ積み重なったり。古い建物のアーチ列を石材で塞いだのか。長方形の扉も左端に2つ積み重なっている。
この続きにそんな建物があったのだろうか。気になる、気になる。

それはマネカントリ(少年聖歌隊養成所 La Manécantrie)と呼ばれるサンジャン司教座聖堂に付属する建物だった。
MÉMOIRE DE LYONというリヨンの歴史的建造物の説明パネルは、最初はサンジャンの参事会の食堂で、続いて聖歌隊の宿舎となったので、その名前が付けられた(マネ・カンターレ=早朝に歌う)。これはリヨンで唯一のロマネスク時代の世俗建築物である。15-16世紀に作られた開口部によって外観は損なわれていない。
南側にはカロリング朝時代の石とレンガの壁が残っていて、おそらくレイドラーデ司教によって建てられた教会関連の建物の名残と思われますという。
リヨン、サンジャン司教座聖堂と少年聖歌隊養成所 Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon より 

上図では、切石積みの建物のように感じられて、現在のものは雰囲気が違う。
15-16世紀に作られた開口部というのは、一階に並んでいる四角い、おそらく十字架状の仕切りのある窓のことだろうか。
Lyon Historique のla manécanterie に修復前の写真があります。

Wikipedia によると、西側のファサードはロマネスク様式で、彫刻の様式から12世紀初頭に遡ることができる。ゴシック、ロマネスク、ビザンチンを混合したスタイルも見られる。西側ファサードの扉には、サンマルタンデネ聖堂の後陣に見られる装飾に匹敵する装飾があるという。
え、この日の午後に訪れたサンマルタンデネ教会と同じ時期に造られた?

この建物は、特にサンジャン広場の道路網のかさ上げにより、中世後期から近代にかけて変化した。
マネカントリと南側の建物の最も古い記述は、1568-1572年にかけての Anonyme Fabriczy として知られる文書にある。マネカントリに隣接するこの南側の建物は、ドムス・プエロルムと呼ばれていたが、1809年に破壊された。
16世紀から18世紀にかけて、この建物は窓が開けられ、17世紀には床が追加され、特定のアーチが埋められるなど、大規模な建築上の改修が行われた。マネカントリの下の部屋は「聖職者の大広間」として指定されている。
18世紀にこの建物はマネカントリになったが、1768年から小さな回廊の南棟と東棟が破壊されて「新しいマネカントリ」が建設された。西棟は仮保存されているという。
ロマネスク様式の時期の貴重な建物だった。


細部をあれこれ写してみた。
1562年にプロテスタントがリヨンを占領した際、マネカントリはアドレ男爵フランソワドボーモンの軍隊による破壊行為の犠牲となり、聖人の彫刻が損傷したという。
破壊を免れた像が今も数体あるが、顔はほぼ見分けが付かない。

3つの円文と菱文はレンガを埋め込んでいるように見える。
元はアカンサスだったと思われるこの葉文様は石を浮彫したのだろう。柱頭も葉と葉の間から真っ直ぐ伸びる蕾を表していて、やっぱりアカンサスに由来するモティーフだ。


同心円が並ぶ半円アーチ。赤で表された円文や正方形は、レンガというよりは、滲みがあって、赤く塗ってあるように見える。


半円アーチの葉文様は、先ほどのものより簡略化されている。

中央は厚い衣を纏ったキリストだろうか。4人の弟子が寄り添っている。

柱頭の上には渦巻と同心円が並ぶが、茎で繋がらず、2本の線でつないである。


円文で表された十字架、そして半円アーチの内側の連続菱文

そして、上にこの1体のみ。大きな翼のある天使だった。


サンマルタンデネ教会の赤い石の装飾もまとめます。


参考サイト

参考文献
「Guide de la colline de Fourvière et du Vieux-Lyon」Edition aux Arts 2000