ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2019/07/30
三十三間堂の外側を巡る
前回三十三間堂に行った時は建物を正面から眺めていなかったので、京博の続きにもう一度拝観した。何と言っても京博の南側なので。
『三十三間堂の佛たち』は、三十三間堂はも後白河上皇により、長寛2年(1164)に創建された千手観音を本尊とする千体観音堂です。
後白河上皇は、保元の乱(1156)以降の武士台頭の動乱期にあって、30年の間、院政に当り、皇権維持につとめる一方、深く仏教を信仰し、諸寺の建立・諸山への参詣も多数に及びました。上皇は、応保元年(1161)、この地一帯に設けた法住寺殿を院政所とし、その郭内にこの蓮華王院三十三間堂を創建したのです。
しかし、当初のお堂は建長元年(1249)に焼失し、やがて文永3年(1266)にその本堂が旧規模で再建されましたという。
現在の京博は、北殿の南半分を占めていることになるのかな。学生時代はその裏手に下宿していた。法住寺殿の一部だったことも知らず。
その頃自転車でこの道を通り、
南大門をの先を右折し、鴨川沿いの道から東福寺の友人たちの下宿に遊びに行ったものだった。
法住寺殿はこの南にも池を造っていたとは。
さて三十三間堂へ。塀の内側から庭園と三十三間堂が少し見える。
一応南の端まで入るのだが、これでは三十三間という長さが感じるのは無理。
境内に入り、北面が入るように写すと全体を写せない。
塀と三十三間堂の間には池がある。これは上の地図にはないもので、後世に築かれたもののよう。
同書は、正式な名称は「蓮華王院」です。これは文字通り、「蓮華王」と呼ばれる千手観音菩薩の御堂という意味です。「三十三間堂」と呼ぶのは、お堂内陣正面の柱間の数(柱の間隔の数をいい、6尺1間の長さではない)から出た通称で、その「三十三」という数字も、実は観音菩薩が時に応じ、所に随って三十三に変化して人々の危機を救い、福徳を授けるという、いわゆる「観音の三十三応化身」の数にあやかっているのですという。
柱間の障子は内部の明かり取りに。
庭には斑入りのナルコユリがたくさん咲いていた。
楓も若葉と花の季節
三十三間堂は南北に長い。
同書は、お堂は東向きで、南北が118m(外陣を含み三十五間、390尺)という日条に横長な建物です。建築様式は和様、単層入母屋造りの本瓦葺きで、東側は正面中央の7間だけに向拝をつけ、そのほかはすべて各柱間に扉をたて、西と南北の側面に計8間の出入口の板扉があるほかは、西面の各柱間はいずれも連子窓とし、四周に広縁をめぐらした簡潔で明快な仏堂ですという。
北側
単層とはいえ棟の高さも約15mあり、それが目前から100mの彼方に向かってみごとなパースペクティブを展開しているのは壮観ですという。
非常にすっきりとした建物だ。
向拝のある中央部
南側
こんな風に正面から全体を1枚に写すのは無理
向拝部分は獅子などの透彫のある蛙又があるが、
そのほかは二重垂木に二手先組物のすっきりとした構造なので、向拝部分はかなり後世の補修だろう。
斜めから見ると、組物の力強さが感じられる。
白山吹は久しぶりに見た。
花弁は4枚
シャガの群生も。子供の頃裏の雑木林にシャガがポツポツ咲いていたので、日陰に咲く花だと思っていたが、日当たりを好むみたい。
修復作業中のところも。
境内南東隅より
振り返ると南大門が間近に。
南大門 桃山時代
説明板は、三間一戸八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものと伝えますという。
それに続く築地塀は高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構ですという。
南側から三十三間堂全体
真南より南面
南面と西面
西面南側
出入口の板扉があるほかは、西面の各柱間はいずれも連子窓という。
軒の反りも緩やかで品の良い建物である。
板塀に連子窓、二手先の組物、二段の角垂木がどこまでも続いている。
西壁の部分には板扉と障子。この中に西向きの千手観音像が一体安置されている。
三十三間堂 堂内←
関連項目
三十三間堂1 風神雷神の像
参考文献
「三十三間堂の佛たち」 2011年 妙法院門跡 三十三間堂