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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/07/26

三十三間堂 堂内


三十三間堂について『三十三間堂の佛たち』は、後白河上皇により、長寛2年(1164)に創建された千手観音を本尊とする千体観音堂です。
後白河上皇は、応保元年(1161)、この地一帯に設けた法住寺殿を院御所とし、その郭内にこの蓮華王院三十三間堂を創建したのです。
しかし、、当初のお堂は建長元年(1249)に焼失し、やがて文永3年(1266)にその本堂が旧規模で再建されました。
お堂は東向きで、南北が118m(外陣を含み三十五間、390尺)という非常に横長な建物ですという。
北の角から雷神と東側二十八部衆のうち12体が前面に並んで、その奥に千手観音が整然と重なり合って500体並ぶ。中央に中尊とそれを囲む4部衆、その南に二十八部衆の残りの12体と南角に風神、そしてその背後に500体の千手観音像が安置されている。

堂内へは北廊下から入って時計回りに拝観する。まず見えてきたのは、千体観音の北端の像の左側面だった。平たい板に着衣が線刻されたような背面の着衣から、たくさんの小さな腕が出ている。非常に薄い像だった。

十一面千手千眼観音立像 1001体 164-167㎝ 平安・鎌倉時代
同書は、正しい名称は十一面千手千眼観世音菩薩といい、仏教伝来とともに日本人の生活感情に密着して育った観音信仰も、世が末法に入ると意識された平安時代から、いっそう切実の度を加え、限りない慈悲の力を求めて、十一面や如意輪、馬頭といった変化観音への信仰が盛んになった。
殊に仏徳の慈悲性を分化、具象した多様な観音所尊の中、全方向を洞察する多面と千手千眼を備えた千手観音は、あらゆる慈悲を兼ね、無限の救済力を発揮する絶対者として「蓮華王」と尊称されて、この頃より確固たる信仰を根付かせることとなったという。
段々と体に膨らみを感じるようになる。
正面に回り込むと、全く薄さを感じさせないが、背面を薄く造ることで、1000体も密に、整然と並べることができたのだろう。

同書は、三十三間堂の壮観はこの千体の群像である。三十三身に応現するとの観音の慈悲を思えば、この一千一体を以て三万三千三十三体の観音さまと称しうるものであり、人をしてここに肉親の面影を慕い求めさせるほどの、親しみを感じさせる。
「千一」そして「三万三千三十三」という数字は、時間、空間の両面において観音の救済力が極まり無いことを表していることがわかる。お堂の中ほどに佇んで群像を仰観すると、千体仏は、拝む者の視野角を凌駕し、その外にまで拡散する。このことにより、群像の只中に抱かれた感覚、観音の限りない応現を実感することになるという。
何列並んでいるのだろうと数えようとしても、暗くて奥の方が見えないが、たぶん50体ずつ10列、階段状になった壇に安置されるのだろう。

同書は、千手観音像はいずれも等身大(167-7㎝)の立像で、寄木造りの漆箔です。その数1001体のうち、124体が創建時のもの、建長の火災時に救出された像です。復興像の脚枘には作者の記名のあるものがあり(504体)、中尊を担当した「湛慶」の9体をはじめ、康円・行快などの慶派仏師、また隆円・昌円・栄円・勢円などの円派仏師、さらに院継・院遍・院承・院恵などの院派仏師と、当時の奈良仏師と京都仏師とが腕を競ったことがわかります。
長寛・創建時の像はいかにも柔和な藤原彫刻の作風を示し、これにならった鎌倉復興像も、時代の特色と作者の個性的な違いを示していますという。
像には平安後期の創建時以来立っている「創建仏」や、火災の後に新しく造られた鎌倉時代の仏師の名が記された札が付いていたりする。慶派だけでなく、円派や院派なども協力して、迅速に再興させたのだ。
また、一見同じ様式に見えて、着衣や体軀の幅、顔貌などはそれぞれ異なる。湛慶作の千手観音像が4体ほど並べられていたが、四者四様に違うのである。
それどころか、正面から見て「いいお顔」と思った像を、通路を進んで振り返ると全然違って見えたりもするのだった。
拝観者、それも海外から来たグループにガイドさんたちがそれぞれの言語で説明していたりするので、そのグループが過ぎ去るまでの間、斜め先を眺めたりも斜め後ろを振り返ったりと、左右各500体ずつの観音像をじっくりと眺める時間ができる。

同書は、垂木と支輪板をみせる化粧屋根裏で、その下に簡素で堅固な二重虹梁が架かり、爽快で隔てない伸びやかな空間をつくっていますという。
前回は気付かなかったが、下側の各梁には等間隔で丸いものが並んでいた。堂内におられた僧侶に尋ねてみると、
丸い鏡が貼り付けられていたが、落下して仏像が損傷を受ける危険性があるので外したのだそう。
堂内は朝の光が入り、鏡に反射して千体の観音像を少しは照らしただろうとのこと。

外部では向拝の軒がある中央部の奥に中尊が安置され、二十八部のうち4体がそれを護っている。
十一面千手千眼観音坐像 鎌倉時代(建長6年、1254) 像高335㎝ 玉眼寄木造漆箔
同書は、八角七重の蓮華座に安置されています。「丈六」とは、「仏身の正規な法量」というもので、身長が普通人の倍寸に相当する「一丈六尺」というのです。この場合、坐像ですからほぼその半分の八尺になります。
中尊の、堂々たる体躯は、左右対称で、頭部と両膝で作り出す正三角形の安定した構図におさまるようにまとめられています。また円形に配された脇手と、これらを引き締める胸前の合掌手が力強く意志的で、みごとな対比を示しています。
像内の墨書によって大仏師・法印湛慶の晩年の作であることが確認されています。
湛慶は、建長元年(1249)の火災で焼失した三十三間堂の復興に参画して、この中尊の再興に当たるとともに、焼失した千体観音像の復興にも一門をひきつれてのぞんでいます。彼は有名な大仏師運慶の長男であり、この時期の慶派仏師の総帥でこの像を完成した2年後、84歳の生涯を閉じていますという。
残りの観音500体と二十八部衆の12体、そして南端の風神像まで進むと、また北端のC雷神像まで戻って見直そうという気が起きない。

そのまま南通路、西通路と進んで行く。中尊の裏側には開口部が設けてあり、そこにもの千体観音立像が1体、西を向いて安置されていた。中尊と千体観音で1001体の観音像と思っていたが、大きな中尊は数に入れず、表の1000体の千手観音と、中尊背後の1体とで1001体の観音像ということなのかな?

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※参考文献
「三十三間堂の佛たち」 2011年 妙法院門跡 三十三間堂