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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/12/23

養久山1号墳が過渡期の前方後円墳なら見に行かねば!


朝日新聞朝刊に連載されている『はりま遺跡探訪』の2008年11月2日の記事は「養久山1号墳」だった。「過渡期の前方後円墳」 ということなので、見学に行った。
 
養久山は山陽自動車道の龍野インターと龍野西インターの真ん中あたりの南側にある、低い山だ。道路地図にも載っていたので、迷うことなく近づけたが、養久山にはどこから登っていけばよいのかがわかりにくかった。
やっと見つけた案内板で、養久山は稜線部に古墳がずらりと並んでいることを知った。
せっかくなので、まず19号墳へ。19号墳だけが、養久山の他の古墳とは別の山に築かれて、竹林の中にあった。

養久山19号墳 古墳時代後期
1つの墳丘に2つの石室をもつめずらしい形の古墳と案内板にあった。古墳近くの説明板は、2基の横穴式石室が確認できる。前方後円墳とみる説もあるという。通路から近い方の石室は両側の側壁が内側に傾くタイプで、羨道と石室の幅が同じでストレート式(丁山5号墳の説明に基づく)だった。 もう1つの石室は崩壊していて、先ほどのものよりもずっと小さく、内部はどうなっているのか見えない。養久山を登って稜線に出たところに養久山1号墳の後円部があった。前方部の中央に踏み跡があるので、そこを通った。 養久山1号墳
立て札は古墳時代前期(3世紀)の全長32mの前方後円墳。1967年(昭和42)の発掘調査により、前方部の墳形などから、最古形式の前方後円墳として注目されたという。
朝日新聞記事は、養久山1号墳の「外見」は古墳だが、「中身」は弥生時代の墳墓の特徴がある。後円部の中央に墓の主人の石室があり、その周辺を5つの石棺が取り巻く。弥生時代は、複数の遺体を1つの墓に埋葬するケースがよくみられるという。過渡期というのは、弥生時代から古墳時代への過渡期ということだったのだ。 前方後円墳といえば、鍵穴のような形がよく知られているが、1号墳は前方部と後円部の間のくびれが曲線で「ばち形」をしている。この形の古墳は播磨と東四国に多く、卑弥呼の墓説のある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中ごろ~後半、全長280m)とも似ている。
岸本さん(たつの市教育委員会文化財課課長補佐)は、養久山1号墳と箸墓古墳はほぼ同時期に築かれたと推測する。「中央の大和と地方の首長らの間で『この形で造らなければいけない』という情報が共有化されていたのだろう」
養久山1号墳の形は、7.5㎞東にある全長104mの瓢塚古墳(姫路市)や東四国の古墳を同じ大きさに縮尺を変えると一致する。岸本さんと共同研究した東海大教授、北條芳隆さん(47)=考古学=は「同じ設計図を持っていたに違いない。播磨と東四国は政治的な同盟関係にあったのではないか」とみる
という。くびれが曲線になっているというのはよくわからなかった。
4世紀とされる丁瓢塚古墳も複数の遺体が葬られている可能性はあるのだろうか。12月12日付け朝日新聞朝刊に『枚方「禁野車塚」、奈良「箸墓」と同規格』という面白い記事があった。禁野車塚前方後円墳(3世紀末~4世紀初め、全長120m)が、箸墓古墳と同じ規格で造られた相似墳であることがわかった。枚方市文化財研究調査会などが11日発表した。淀川上流域を支配していた有力者の墓と考えられ、卑弥呼と政治連合を結んだ一国だった可能性があるという。
調査団によると、ばち形の前方部を持つ箸墓古墳の相似墳は、3世紀中ごろから4世紀前半までに造られたとみられる約20基が西日本で確認されている。
禁野車塚は丘陵を利用せずに平地に盛り土で造られた
という。平地に造られたのは瓢塚古墳と共通しているなあ。
養久山1号墳や瓢塚古墳の主も、当時の大勢力者と政治連合を結んだ有力者だったようだ。

せっかくなので、養久山の古墳群を巡ります。(次回) 
瓢塚古墳については丁山の西麓には瓢塚古墳と丁古墳公園山戸4号墳墓が3世紀前半、前方後円墳の瓢塚古墳が4世紀をどうぞ

※参考文献
養久山古墳群の説明板
朝日新聞朝刊(2008年11月2日)『はりま遺跡探訪46 養久山1号墳』
朝日新聞朝刊(2008年12月12日)『枚方「禁野車塚」、奈良「箸墓」と同規格』