お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/09/28

五重塔の起源をたどれば中国の木造楼閣


05・06年に日本各地で開催された『中国古代の暮らしと夢』展では、陶器で造られた建物(明器陶屋)がたんさん展示されていた。

1 水榭(すいしゃ、池中の望楼) 緑釉陶 後漢(25-220年) 高さ94.0㎝ 個人蔵 
同展図録は、池の中に建てられた望楼、つまり敵を発見するための見張り台を模した建築明器である。後漢には大土地所有者である豪族が大きな権力を握り、豪壮な館を営んだが、その一角に望楼を設けることが流行した。陶製の水榭や楼閣などは、豪族の権力や軍事力を象徴的に示した明器で、  ・・略・・  瓦屋根を持つ二層構造で、各層の欄干の四隅には弩(いしゆみ)をかまえた見張りが立っているという。

弩は緑釉がはがれたのか、オレンジ色なので目立っていた。私には三層に見えるのだが、屋根の数では二階建てである。二階の軒の四隅には座ったあるいはしゃがんだ人物が頭上の三斗を両手で支えているように見える。 2 水榭 緑釉陶 後漢 高さ86.5㎝ 個人蔵
楼閣は三層で、二層目と三層目は寄せ棟造りの屋根と欄干を持つ。二層目の欄干の下は三斗組の斗栱が置かれた支柱で支えられる。三層目の欄干の下四隅は二層目の屋根上の熊を象った組物で支えられている。熊は力強さ、勇敢さの象徴として、また辟邪駆鬼の役割として装飾されたものと思われる。二層目と三層目の欄干には弩を構える人物俑やしゃがんだ猿がいるという。

後漢時代に、建物に斗栱がすでに出現していた。一階の上部には、斗栱が軒ではなく、上の階を支えているような透かし彫りがある。
鴟尾鬼瓦はないが、魔除けとして強い動物を模したものが建物の部分に使われていることがわかる。屋根の上にはわかりにくいが正面向きの鳥がいる。 3 望楼(見張り台) 緑釉陶 後漢 高さ108.5㎝ 個人蔵 
壁に囲まれた中庭の付く四層の楼閣。外の門は大きく空き、寄せ棟造りの屋根が付く。楼閣には、寄せ棟造りの屋根と各層には欄干が付く。また、各層の屋根は前面二ヶ所の二重の斗栱は漢代より出現する。  ・・略・・  各層の屋根の端四隅には葉形の装飾が付き、鴟尾にも葉形の装飾が付く
と同解説にある。葉形の装飾も柿蔕と同様に吉祥の意味があったのだろうか。それとも鴟尾や鬼瓦のように魔除けという役目を担っていたのだろうか。ひょっとするとこの葉形の装飾が鴟尾になっていったとか。 4 緑釉陶楼 後漢墓出土 河北阜城桑荘
同展図録に「黄泉の暮らしと住まい-明器陶屋の世界」という文で京大人文科学研究所教授田中淡氏は、緑釉陶楼は五層楼閣で、基壇上に立ち、前門を開く。最上層が極度に小さく、四層の上に小さい頂層が載る形であることと細部装飾を除けば、外観はのちの楼閣式木塔と見まがうほどで、中国の仏塔の意匠的原型がそれ以前にすでに成熟していた木造楼閣を援用したものであることを如実に示す好例といえる。後漢末期の遺物であるが、この種の明器陶楼としては、四隅に丁頭栱(肘垂木)で双斗と数層の持送りを組み合わせた組物を跳ね出す構造や菱格子窓、欄干などの表現など、とくに精細な造形を特色とするという。

中国ではすでに一般的なものであった四角形の楼閣が、仏塔の形として用いられたことを指摘している。同展を見学していてそのことには全く気づかなかった。 このような重層の四角い建物があった中国で仏教が信仰されるようになると、インドの仏塔が入ってきて、それに近い形の仏塔が造られたことは、北魏時代(523年)に造立の嵩岳寺の塔が十二角形と、限りなく円形の平面に近い形のものがあることからも伺える。中国人の好みから、多角形の塔よりも中国風の四角い重層の仏塔となっていったのだろう。
そして、中国風の仏塔が朝鮮半島へと伝播し、やがてそれが日本へと将来されたのだ。 そのような過程の中で、石塔寺の石塔が造られたりもしたのだろう。

※参考文献
「中国古代の暮らし展図録」 2005年 愛知県陶磁資料館