聖母殿を見終わったら左側に進んでいく。一部だけが赤い花の咲く桃の木の後ろから八角形の屋根の難老泉へ。奥の修復中の建物は水母楼。樹皮のねじれた古木が多いが、柳の木も晋祠のあちこちでみかけた。晋祠三絶の最後が難老泉。難老泉は決して涸れることはありませんでしたが、ついに涸れてしまいました。今では機械で水を出しています、屈さんは説明した。晋祠には大きな木がたくさんあったが、背後の懸瓮山は大きな木がないようだった。山に保水力がなくなってしまったのか、それとも雨が降らなくなったてしまったのだろうか。浅い底が見えているような。 難老泉の水は通路の向こうにある堀へと龍の口から滝のように流れ落ちる。その水に打たれる僧の像は由緒あるものではなく、誰かが勝手に置いたと屈さんが言っていた。堀はここで両側へ分かれている。左(東)の流れは、金人台の手前で渡った堀へと続いているのだろう。南の方を見ると、高い木の森の中に水路と建物が続いているような雰囲気だ。水路はアーチのところから狭くなるのだろうか。どこまで続いているのだろう。建物の向こうに塔の先が見えている。何の塔だろう?
山西省は中国で一番水の少ないところです。政府が黄河から水を引く計画を立てています、と屈さんが言ったが、晋祠では水の少なさを実感できなかった。 向こうを散歩している人たちは、木陰と水のある雰囲気を楽しんでいるのだろうか。
私も向こうまで歩いてみたかったなあ。晋祠の山門を出たところで土産物売りのおばちゃんから買った『晋祠塑像』という本の裏表紙に全景図がある。各建物に数字が打ってあるのだが、説明が抜けている。八角の七重塔が描かれているので、この塔だろう。
そして、グーグルアースで、晋祠はかなり詳しく見える。
大きな地図で見る
全景図とグーグルアースの画像と異なる点は、七重塔と水路の間にある山である。グーグルアースでは山と塔の間に池もあった。上の水路はその池に流れ込んでいるのだろうか。『山西古建築通覧』によると、塔は晋祠の敷地内にある奉聖寺の舎利生生塔で、清代の建立という。このお寺だけが山に隔離されている。そういうとここまでは宗教色が全く感じられなかった。いろんな建物があって、晋祠は不思議なところだ。 我々は東に向かう水路に沿って歩き、橋を渡った。そこから先ほどの難老泉と滝?のあったところを振り返ると、背後の懸瓮山も見えた。
二つの赤い柱の建物がなかったら、もっと落ち着いた景色なのに。地面をフワフワと転がる白いものが気になった。りゅうじょといいます。柳と如の下に糸という漢字、絮です、と屈さんが教えてくれた。数年前に西安で、「西安の春は柳の種がフワフワ飛んで雪のようできれいです」と聞いたのがこれだったのだ。地面という言葉を使ったが、全て磚が敷き詰められている。日本なら参道が石だったりするが、他は土のままである。磚を敷き詰めないと、雨が少ないので、土埃がひどいのかも知れない。
奥の建物は晋劇が行われた水鏡台。その向こうに山門がかすかに見えている。 実はこの水路の上には建物があった。流碧榭(木偏に射)といって、円柱だけで壁がない。人々が夏に涼をとる憩いの場なのだろうか。晋祠は良い水の出るところでした。晋祠の周りだけお米ができます。粘りのある美味しいお米です、と屈さんが言っていたが、水田の側の我々が通る道は拡張工事が行われていた。世界遺産に申請するために道を広げています、とのことだった。 そう言われると、向こうには新しいホテルが建っている。世界遺産は結構なことだが、このわずかの水田地帯が土産物屋や駐車場になってしまわないように願いたいものだ。
※参考文献
「晋祠塑像」 2002年 北岳文芸出版社
「山西古建築通覧」 李玉明主編 1987年 山西人民出版社
「地球の歩き方05-06 中国」 2005年 ダイヤモンド社