お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/07/26

ムスリムの墓廟にある棺


久しぶりにムスリムの墓廟を巡ってきた。

これまでに、ムスリムの墓廟は幾つか見学してきた。そして、ムスリムの墓廟は地上に礼拝するための棺、地下の同じ場所に遺体を納めた棺を置くものと思っていた。

 
『トルコ・イスラム建築』は、サーマーン廟にもカーブス墓塔にも地下室はないが、アナドルのキュンベットの大半には地下室がある。地下室を納棺室、1階を礼拝室として使用するが、埋葬者が多数になると1階も納棺室として使用された。地下室がない場合は、1階が納棺室と礼拝室を兼ねているという。

ブハラのサーマーン廟(923-43)は内部に墓があるが、新しく設置されたものだという。
地下に埋葬されてはいないのだろうか。


エルズルム ウチュ・キュンベット
『トルコ・イスラム建築』は、トゥンジェリは、サルトゥク朝のイッゼディン・サルトゥクのために、1190年頃建てられたと推論している。
北の側面にある入口を入ると0.8ほど高い1階の床面と、1.8mほど地下の地下室に下りる階段がある。1階の天井は球形のドーム、地下室の天井はヴォールト構造であるという。
地下室は遺体を埋葬しているからだろう。


前回にスルタンアフメット廟を見学した時に、「中に入ると緑色の布とターバンのような白い飾りを載せた柩が大小隙間のないほど置かれている。イスラームでは遺体は土葬ということになっているので、実際は地下に、この位置のまま埋葬されている」と記している。
『イスタンブール歴史散歩』は、ブルー・モスクは、7年がかりで1616年に完成した。このモスクの建立に熱心だったスルタンはしきりと工事を急がせたというが、完成の翌年、27歳の若さで他界した。
廟内には緑の布で蔽われた巨大なアフメットⅠ世の柩を中心に、皇妃のキュセム・スルタンや、3人の息子、オスマンⅡ世、ムラトⅣ世、バヤジット皇子らの柩が30数基ずらりと並んで、墓とは思えない賑やかさであるという。
奥がキブラ(マッカの方向)になっていてミフラーブがアーチの奥に造られている。モスクで祈るためだけでなく、頭もマッカの方向を向ける。


イスタンブール滞在の旅の後にオスマントルコ三都の旅に参加した。その時の現地ガイドギュンドアン氏は、ムスリムの墓と埋葬について「イスラームでは、人は土から生まれて土に還るので、建物の中の棺には何も入っていません」と言っていた。
やはり私が思っていたことは正しかったのだ。


ところで、『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』にはスレイマン大帝(1566年没)を埋葬した時の細密画が記載されていた。

スレイマンの葬儀 『スルタンスレイマンの生涯』より(1580) 細密画家ナッカシュ・オスマン作
二つの墓廟の左側で、天幕を張って地面を掘っている。その下ではスレイマンの棺が担がれてきた。
オスマン画スレイマンの葬儀の細密画 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より

スレイマニエジャーミイでは墓廟も見学してきたが、ヒュッレム(1558年没)の墓廟とスレイマン(1566年没)の墓廟の二つしかなかった。この場面では、スレイマンが埋葬される穴と、その後建造される墓廟とを異時同図で描いているのだろう。

そしてまた、この絵であらたな発見! 廟の入口にはモスクランプが吊られているではないか。
オスマン画スレイマンの葬儀の細密画 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


ソコルルメフメトパシャ 1568-69年 細密画部分 ナッカシュ・オスマン画
スレイマン一世の死を悼む大宰相が描かれている。ソコルルメフメトパシャは、スレイマン、セリム二世、ムラト三世の三代の皇帝の大宰相を務めた。最終的には暗殺された。
『ISLAMIC ART』は、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝と同等とみなされていた大宰相ソコルルメフメトパシャの死は、停滞期(1579-1699)の始まりとなったというほどの人物だった。
トプカプ宮殿図書館蔵 ナッカシュ・オマン画 細密画部分 望遠郷より



このランプは金属製のようだが、チニリキョスク(イスタンブール考古学博物館の一つ)に展示されていたモスクランプは陶器製だった。

モスクランプ 1485-1505 高27.2㎝口径19.4㎝胴径18.3㎝ イズニク
これを見て思ったのは、こんなもので照明になったのだろうかということだった。実際にモスクでは小さなガラスの器しかみたことがなかったし。
トルコの陶芸 チニリキョスクより』は、オスマントルコ初期の陶磁器ランプの形は、14、15世紀シリア、エジプトのマムルーク朝のガラスランプを手本としている。モスクや廟などで使われたものだが、このような宗教的な建物はほとんど石やレンガの耐火建築なので、たくさんのモスクランプが今日まで残されたのだった。
長い鎖で天井から吊り下げられたモスクランプは、照明器具としての実用性よりも、象徴としての意味が大きい。
コーランの24章34節・・・アラーこそ天と地の光。その光はミヒラプのランプのごとく・・・にそのヒントがあるという。 
陶器のモスクランプは特別なものだったのだ。


ついでにソコルルメフメトパシャジャーミイのものを

モスクランプ 1570頃 高47.5 口径28 胴径31 底径17㎝ イズニク
同館図録は、洋梨形の胴部と、上に広がった頸部は別々に作ってからつないだもの。白地に多彩色の絵を付けてから透明釉をかけてある。
トルコブルーの地のメダリオンの中央に小さな八弁の花を置き、その周りに黒のルーミが見える。この浮き出しのメダリオンは三つ葉のモチーフに囲まれ、同じものが頸の接合部の細いトルコブルーの帯の下にも使われている。
ランプは大宰相ソコルルメフメットパシャのために、高名な建築家シナンが建てたモスク(1571-72)の落成式の贈物として作られたものであるという。
モスクランプは贈答用などにも造られた。


また『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、この細密画の左隅にあるメジャー棒を持っている人物はスィナンであると考えられているという。
オスマン画スレイマンの葬儀の細密画 ミマールスィナン像 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

ギュンドアン氏の言葉も記憶に残したいが、このような細密画が残っていると、当時のさまざまなことがわかる。




関連記事
スルタンアフメット廟1 8つのペンデンティブ

参考文献
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士書房インターナショナル
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
「トルコの陶芸 チニリキョスクより」 1991年 イスタンブール考古学博物館
ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS」 ANATOLIAN CULTURAL ENTREPRENEURSHIP 2019
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版

2024/07/19

描かれたスレイマン大帝


スレイマン一世は46年間(1520-66)という長い治世で領土を拡大していったが、それだけではなく、タイルや陶器はイズニックの最盛期、ミマールスィナンというイスタンブールの建築大学の名にもなっている、素晴らしい、そして長命の建築家が現れて数多くのモスクとその複合施設を建て、イラン(タブリーズ)より連行された芸術家も新たな絵画をもたらすという、芸術面でもオスマン帝国の最盛期だった。

『世界美術大全集東洋編17 イスラーム』(以下『東洋編17』)は、オスマン帝国の絵画が全盛期を迎えたのは、スレイマン一世とムラト三世(在位1574-95)の時代であった。スレイマン一世は、オスマン帝国の最盛期を築いたスルターンであったが、自らの偉業を後世に伝えるために歴史書の制作に力を注いだという。

少しではあるが、スレイマン一世の治世を細密画でみると、

スレイマン一世の即位式 『スレイマンの書』第17葉 1558年 制作地イスタンブル 着彩 紙 31X20㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『東洋編17』は、『スレイマンの書』は、スレイマン一世の歴史書の代表作である。歴史書は、官職として設けられたシャーナーメジ(『王書』執筆官)が執筆し、宮廷工房の画家と書家の共同作業で制作された。本文のみでなく、挿絵も史実に制作されたので、これらの作品は歴史資料としても高く評価されているという。
『オスマン帝国外伝』の第一話は確かマニサにいたスレイマンのもとに使者が来てセリム一世の死を伝えるところから始まったが、イスタンブールの宮殿での即位式は覚えていない。
この絵はイスタンブールへ戻って即位式が行われた場面。場所はトプカプ宮殿の中庭のよう。現在では巨木が林立しているが、この頃はまだ木も若かった。
トプカプ宮殿博物館蔵 スレイマン一世の即位式 世界美術大全集東洋編17 イスラームより

『図説イスタンブール歴史散歩』は、1494年誕生。1520年セリム一世没し、第10代スルタンとして即位という。
26歳の若きスレイマンは玉座に坐している。その前でひれ伏しているのは誰だろう。
屋内を描いたらしく、壁面や床の文様も凝っている。
トプカプ宮殿博物館蔵 スレイマン一世の即位式 世界美術大全集東洋編17 イスラームより



ロードス島を攻める若きスレイマン トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
『図説イスタンブール歴史散歩』は、25歳で即位したスレイマンの第2回目の親征の目標は、ロードス島であった。1522年のこの遠征で、東地中海航路の安全を確保するのに成功した。本図上方の城内では、聖ヨハネ騎士団が防戦につとめている。右下、羽飾りのついたターバンをかぶった若きスレイマンが、馬を進めている。左手中程では、イェニチェリたちが、城兵に銃撃を加えている。左下では、地下道を掘って城内に突入すべく、作業が進められつつあるという。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より

若きスレイマンは丸顔で、他の兵士たちと似たような顔に描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


モハーチの戦い ナッカシュ・オスマン画 トプカプ宮殿博物館蔵
『望遠郷』は、オスマン帝国の細密画家はスルタンをたたえる式典や大遠征の祝賀会、豪華な宮殿の様子などを思うままに描いた。メフメット二世の時代には面家の数は少なかったが、シュレイマン一世の時代(16世紀)には有名な画家だけでも 28人もおり、17世紀には100ほどのアトリエがあり、そこで働く画家の数は数えきれないほどまでになっていた。
細密画の画風は画一的ではあるが、その時代ごとに何人かの個性ある画家が現れた。彼らは協力して、まさしくオスマン風といえるスタイルを生み出したという。
トプカプ宮殿博物館蔵ナッカシュ・オスマン画 1526年のモハーチの戦い 望遠郷2イスタンブールより

仏伝図などでも釈迦が他の人よりも大きく表されたが、このスレイマン大帝も他の人よりも大きく描かれている。これは「ロードス島を攻める若きスレイマン」との違いでもある。数あるアトリエの特徴か、それともナッカシュ・オスマンだけのものなのか、それがわかるほど『スレイマンの書』を見てみたい。
トプカプ宮殿博物館蔵ナッカシュ・オスマン画 1526年のモハーチの戦い 望遠郷2イスタンブールより

スレイマン一世の肖像画 インスブルック芸術史美術館蔵
ハセキ・ヒュッレムの肖像 ジャック・カイヨール画 『望遠郷2イスタンブール』より
インスブルック芸術史美術館蔵スレイマン一世の肖像画とジャック・カイヨール画ハセキ・ヒュッレムの肖像 望遠郷2イスタンブールより


壮年のスレイマン 画家不明 写真 大村次郷 
『図説イスタンブール歴史散歩』は、スレイマン大帝は、黄金時代の君主であったばかりでなく、容姿の上でも、オスマン朝歴代中屈指の好男子であった。若年時には、色白でふっくらした貴公子であったらしいが、壮年期から老年期に入ると、面長で厳しい風貌をそなえるようになった。晩年のスレイマンは、公式の席ではほとんど表情を変えることもなく、顔色は青白かったという。
若い頃は色白でふっくらしていたのだったら、即位式の図はスレイマンの顔を良く描いていることになる。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 壮年のスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


その後は老齢のスレイマン一世
スレイマン一世立像 16世紀中頃 ニギャーリー画 着彩 紙 約26X20㎝ トプカプ宮殿博物館蔵 
『東洋編17』は、スレイマン一世の治世に肖像画家として活躍したハイダル・レイス(雅号ニギャーリー、1494-1572)は、オスマン帝国海軍の軍人であったが、絵画にも才能を示した。簡潔な描写法で巧みに写実性を追求した肖像画法は高く評価された。「スレイマン一世立像」や「オスマン帝国海軍大提督ハイレッディーン・バルバロス像」はその代表作であるという。
ハイレッディーン・バルバロス像は何時の日にか。
スレイマン一世の背後に控えている赤い帽子を被った若い二人は小姓である。
トプカプ宮殿博物館蔵ニギャーリー画スレイマン一世立像 世界美術大全集東洋編17 イスラームより

スルタンの私室つき小姓 
『オスマン帝国の時代』は、彼らは一般の小姓のなかから選択され、将来のエリート候補であった。多くのミニアチュールで、赤い被りものをつけた私室長と太刀持ち(シラフタール)の二人がスルタンのそばにいるのが描かれているという。
トプカプ宮殿博物館蔵「スレイマンナーメ」より小姓たち 世界史リブレット19 オスマン帝国の時代より  
 

ステファン王子との会見図 ハンガリー遠征記挿絵 1568-69年 『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』より
『東洋編17』でヤマンラール水野美奈子氏は、オスマン帝国では、スルターンの業績を記述した歴史書の編纂が盛んであったが、この『スィゲトゥヴル遠征記』は、アフメト・フェリードゥーン・パシャ(1583没)が著した。この戦記は、スレイマン一世の13回目にして最後の遠征となったハンガリー南部のスィゲトゥヴル要塞攻略と、スレイマン一世のスィゲトゥヴルでの病死、皇子セリムの即位など、1569年までの歴史を含んでいる。
という。
 トプカプ宮殿博物館蔵ステファン王子との会見図 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より

同書は、この接見の場面で、スレイマン一世は、陣営用のスルターンの豪華なテントの前に置かれた、黄金の玉座に座し、オスマン帝国の庇護下にあったエルデルの皇子を接見している。
スレイマン一世は、遠征出発時にはすでに馬に跨ることもままならないほど病に冒されており、無理を押しての遠征であった。王座のスレイマン一世は、特色ある大きな頭衣をかぶり、右手には最高権威者の象徴であるハンカチーフを握り、威厳に満ちた姿で描かれている。しかし、目は落ちくぼみ、その顔や首筋には深い皺が克明に刻まれ、死期の迫ったスルターンの姿が、過酷なまでに写実的に描かれている。オスマン帝国の画家が、スルターンの写実的な肖像画を歴史書の場面に表現する伝統は、後世に継承されたという。
トプカプ宮殿博物館蔵ステファン王子との会見図 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より

この遠征先でスレイマン大帝は亡くなった。
どの本の記述か失念してしまったが、1566年にスレイマン大帝が死去すると、大宰相ソコル・メフメト・パシャは死去の知らせを隠し、遺体をイスタンブールに運び、スレイマニエジャーミイの複合施設内に埋葬した。墓は後に息子のセリム二世がミマールスィナンに建設させ、スルタンの死後2年で完成したという。
スレイマニエジャーミイの中庭にスレイマン大帝の棺を運び、テントを張って墓穴を掘っている細密画が残っている。その絵の片隅にはミマールスィナンもえがかれている。
それはムスリムの墓廟にある棺に掲載した。


関連記事

参考文献
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木董 1993年 河出書房新社
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 責任編集杉村棟 1999年 小学館
「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光図録」 編集:東京国立博物館・中近東文化センター・朝日新聞社 1988-89年 発行:中近東文化センター・朝日新聞社
「世界史リブレット19 オスマン帝国の時代」 林佳世子 1997年 山川出版社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版

2024/07/12

トプカプ宮殿 御前会議の間と謁見の間


トプカプ宮殿平面図
① 中門(儀礼の門) ② 第二の中庭 ③ 厨房 ④ スルタンの馬屋 ⑤ ハーレム入口 ⑥ 御前会議の間 ⑦ 元宝物庫 ⑧ 幸福の門 (白人宦官の門) ⑨ 謁見室 ⑩ アフメット三世の図書館 ⑪ ハーレム出口 ⑫ アーラル・ジャーミイ(Ağalar Camii) ⑬ 元小姓の学校 ⑭ メフメット二世の建造物 ⑮ 第三の中庭 ⑯ 聖遺物室 ⑰ レワン・キョシュキュ(現アルメニアの首都エレヴァン) ⑱ バーダット・キョシュキュ(バグダ-ド) ⑲ イフタリエ(小さい東屋) ⑳ ソファ・キョシュキュ ㉑ 第四の中庭 ㉒ メジディエ・キョシュキュ ㉓ ハーレム
トプカプ宮殿平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


②第2の中庭の㉓ハーレム側に⑥御前会議の間がある。

右端の入口
説明パネルは、最初の評議会ホールは、征服王メフメト(1451-81)の治世中に建設された木造の建物だった。現在の柱廊付きの議会ホールは、スレイマン大帝の治世中の1527-29年に主任建築家アラエディンによって再建されたという。
まだミマールスィナンは活躍していなかった。

中央の入口
修復工事では、アーチの間の隙間が金色の格子で覆われ、ロココ調の浮き彫りの扉が追加されたという。

その続きの部屋への入口

中に入ると、色の異なる大理石の板が壁に貼られていただけでなく、金ピカでロココ調。

天井ドームは平たく、

さまざまな時期に修復が加えられた。この建物は、スルタンセリム三世の治世中の 1792年の修復工事を経て現在の形になったという。

続きの部屋から振り返るとこんな風に見える。

次の間もドーム

説明パネルは、これらの会議では、オスマン帝国の政治、行政、財政、慣習の問題、および国民に関する重要な事件が議論された。さらに、このホールは大宰相による大使の接待やスルタンの娘たちの結婚式にも使用された。クベアルトゥの会合に個人的に参加したスルタンは一人もいなかった。むしろ、正義の塔の一室の格子窓の後ろから会議を眺めていた。 間違った決定が下された場合、彼らは窓のカーテンを閉め、会議を終了した。その後、大宰相と宰相は速やかに謁見の間へ移動し、当面の問題を解決するためにスルタンの前に出廷したという。
この向こうは正義の塔(ディワン)になるのか。

スルタンが会議を眺めていた格子窓は、会議に出席していた政治家に自らの権限を委譲したにもかかわらず、国民に対して不正が行われないよう個人的に確認するためにそこにいたことを示しているという。
「オスマン帝国外伝」では、スレイマン大帝が、最初は自分が会議に出ていたが、ある時大宰相イブラヒムパシャに会議をまかせ、格子の向こうで聞くというシーンがあった。
その時イブラヒムパシャは、スレイマン大帝と同じように、正面向きに坐ってから、斜め向きになって会議を仕切っていた。


南側はこんな窓


⑧至福の門 Bâbüssaâde(第3の中庭側)
『図説イスタンブール歴史散歩』は、トプカプ宮殿の第2の中庭と第3の中庭をへだてる屋根つきの門は、「至福の門」と呼ばれた。「至福の門」は、スルタンの私生活の場への正式の門口であり、この門を出入できる者は、ごく少数に限られていたという。

門の中では白人宦官が監視していた。
説明パネルは、白人の宦官はバビュッサデ門の警備や宮殿でのその他の重要な役割を担っており、白人の宦官長は宮殿の階級の最高位の役人だったという。 


門を出て⑮第3庭園より
説明パネルは、新しいスルタンの即位を祝う式典、宗教上の祝日、遠征開始時の軍最高司令官への聖旗の授与式などはすべてこの門の前で行われたという。

至福の門(説明パネルより)
『図説イスタンブール歴史散歩』は、第2の中庭で、スルタン臨席の下に儀式の行なわれるときには、スルタンの玉座は、この門のまん前におかれたという。

この小さな出っ張りがスルタンの玉座を置く目印


至福の門を出ると柱廊を挟んで謁見のための建物がある。ここからは⑮第3の中庭


⑨謁見の間
説明パネルは、謁見の間は 15世紀に公式の披露宴会場として建てられ、16 世紀に現在の形になった。これは謁見評議会ホールとしても知られ、勅令には「主権者の執務室」を意味する「makam-ı mualla」と記載されているという。
意外と質素

巨大なベッドのようなソファ、いや玉座
ここでスルタンは玉座に座り、外国大使や帝国議会での決定をスルタンに提示する宰相らを迎えたという。
トプカプ宮殿の暖炉は金属製。こんな風に部屋に突き出ている方が、部屋が暖まり易かっただろう。

古い本には現在と異なった玉座の図版があった。『世界美術大全集東洋編17 イスラーム』より
トプカプ宮殿謁見の間 世界美術大全集東洋編17 イスラームより


柱廊の床は大きな大理石のオプス・セクティレ




参考にしたもの
トプカプ宮殿の説明パネル

参考文献
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木董・大村次郷 1993年 河出書房新社

2024/07/05

チンテマニ Çintemani という文様


タイルにチンテマニ Çintemani という文様がある。

『TURKISH TILES』は、チンテマニのモティーフは、三つの玉と、その隣の2本の波線で構成されている。ティムール朝時代の作品では、このモティーフが三つの玉として登場するため、「ティムールのバラ」という名前が付けられている。
2本の線は、皮膚、稲妻、雲、龍などさまざまな解釈があり、三つの玉は、円盤、ヒョウの斑点、月、玉、または聖なる真珠として解釈されている。
サンスクリット語の「チンタ」には、考え、願い、注意などの意味があり、「マニ」は宝物または真珠に似た玉です。チンテマニは、三つの精神的属性を強調するシンボルとして知られている。
テュルク系ウイグル人はかつて仏教を受け入れており、チンテマニモティーフの概念は以前は仏教に関連していたものの、大セルジューク朝やティムール朝などのテュルク系イスラム国家では仏教の意味を失い、はるかに強力で英雄的なシンボルとして使用された。

トルコの装飾におけるチンテマニというモティーフの意味は、中央アジアに住む半遊牧民のトルコ人が何世紀にもわたって強い動物に抱いてきた尊敬の念に基づいている。このモティーフは、トラやヒョウなどの強い動物の皮の文様と関係があるため、チンテマニの力強さと結びついて使用された。
チンテマニは、布地、刺繍、カーペット、祈祷用敷物、木工や石工、陶芸やタイル芸術に使用された。チンテマニも、他の多くのモティーフと同様に最初は布地に使用され、後にタイルに使用された。強さの象徴として、王座によく見られるモティーフであるという。
円の中に小さな円があると目玉に見えてしまう。
チンテマニ文様のタイル TURKISH TILESより


一方、イスタンブールのリュステムパシャジャーミイ(1562)の柱廊(ソンジェマアトイェリ)にある生命の木のタイルパネルの根元にチューリップがある。
ただしリュステムパシャジャーミイやそのタイルについては後日。

根元にはまるでリボンのようにサズの柱が左右対称に幹を巻いているが、その中にチューリップがひっそりと咲いている。


チューリップの花弁には三つの赤い丸と、二本の波線は枚の細い葉が文様帯をつくっている。これもチンテマニだそう。



子供用カフタン オスマン朝時代、16世紀中期 錦 長72.0cm トプカプ宮殿博物館蔵
『トルコ三大文明展』は、子供用の短い袖のカフタンで、儀式などの際には、全く同じ生地で作られた付け袖をつけ長袖様としたとみられる。金糸と絹糸で織るセレンク・タイプの織 物からなり、赤の地に鮮やかな金色の3つの玉の文様が用いられている。16世紀の最後の4半世紀に属しているが、どの王子のものかは確定し得ないという。
ただの円を三つずつまとめて文様にしている。これはヒョウ斑点を文様化したもので、力強く育つようにという願い、あるいは、子供でも皇子は強い存在であることを示すものだったのだろう。
トプカプ宮殿博物館蔵子供用カフタン トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より


物入れ 16世紀後半 ベルベット・銀糸刺繍 長44㎝幅72.5㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
小物入れかと思ったら、ずっと大きなものだ。旅に出る時に衣装を入れたのかも。
こんな目玉のようなものが三つ寄り合っているのはかなりインパクトがありそう。円の中に小さな円があるかないかで、印象が全く違う。
トプカプ宮殿博物館蔵物入れ トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より


ムラト四世(在位1623-40)が建立したレワン・キョシュキュ(1635)。
その戸棚の扉にもチンテマニはあった。

これに似た三つの円の文様はヒョウ文だと思っていた。

こちらは二つで大きさが異なっているが、豹文というよりも、先が尖っているので宝珠のよう。ここを造ったムラト四世はこの文様を何と思っていたのだろうか。



バーダット・キョシュキュ
同じムラト四世が1638年に建立した。やはり造り複数の付けの戸棚の扉にチンテマニがあった。

チンテマニはやはり宝珠形。

中央の扉の上部
宝珠形が三つでひとまとまりのモティーフになっている。

こちらは宝珠形ではなくなり、本来の円に戻っている。間はあいているが、やはり三つでひとまとまりのモティーフ。




関連記事


参考文献
TURKISH TILES」 Özlem İnay ERTEN,Oğuz ERTEN SILK ROAD PUBLICATIONS
「トルコ三大文明展図録」 監修:大村幸弘(財団法人 中近東文化センター主任研究員)、真室佳武(東京都美術館館長)、鈴木董(東京大学東洋文化研究所教授) 編集:ΝΗΚ、NHKプロモーション 2003年 発行:ΝΗΚ、NHKプロモーション