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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/12/11

津山 津山城(鶴山公園)


岡山県津山の城跡、鶴山公園に紅葉と石垣を見に行った。
地図の現在地の観光センターの駐車場に車を置き、お城へ。
説明パネルは、津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山(鶴山)を利用して築かれた「平山城」といわれる形式の城郭です。山頂を平坦に削って本丸とし、本丸を囲むように二の丸、三の丸が高い石垣によって階段状に配置され、南を大手、北を搦手としています。
三の丸下段の南、西、北側は総曲輪を形成し、その周囲を土塁と堀で固めています。一方の東側は急な断崖であり、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御線としています。
本丸への通路は、大手、搦手とも鍵の手状に曲がる「枡形虎口」が繰り返し形成されており、きわめて防御を意識した構成となっています。
城内には建造物がひしめき合うように建ちならぶ堅固な構成をなしていましたという。
右の石垣が妙に膨らんでいる👀

石段の上は横長の石垣が視界を遮っていた。
忘れられた石
説明パネルは、平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました。
石の重さは約2.3t、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴(石を割るためにノミで穿った穴)と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています。津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。
平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻-築城大石曳き-」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(巨石などを運ぶ木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400mル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました
という。

この石を二つに割って、平たい割り面を石垣の表側にするつもりだった。
同じ大きさでなくても、矢穴跡のある石幾つ見つけられるかな?
左方向は石垣が切れている。
右方向は長々と続いている。
津山市観光協会発行の見取図
今は失われた表門から続く石段より撮影。右の建物が①の入場券売場
この道の南側にもきれいに紅葉した木々が見えたが逆光だった。
というか、逆光だからきれいに感じたのかも。

売場の壁にあったありし日の津山城の写真
そして復元図
本丸へ繋がる通路と門は全て東側にある。

表門からはコの字形に回り込む。桝形になって完璧な防御。
あの横長の石垣の端。切り立った壁面がかっこいい。
北側の壁。
枡形虎口とは言うが石段は広い。
歩きやすいように一つの段に土を固めた浅い段が付けられている。
枡を振り返る。
三の丸前の石垣
ソメイヨシノの間に若い十月桜が咲いてた。
説明パネルは、コヒガンの園芸品種。花は白-淡紅色で小輪、半八重咲です。10月ごろから咲き始めますという。
半八重って?

すごいのはこの石垣の重なりだ。津山城をよく知っている人が、姫路城よりも櫓の数では勝っていますといっていたが、建物がなくなったままなのでこのような造形美も見られる。あの自販機さえなければ・・・
ここには表中門があった。
説明パネルは、三の丸から二の丸にいたる通路の正門にあたります。門の形式は、一階部分が城門、二階部分が櫓となる、いわゆる櫓門で、城内に存在する門の中で最大です。櫓の東側は袖石垣上に載り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていました。門の櫓部分の長さは16間(約32m)もありました。これは大阪城や江戸城の城門に匹敵するほどの規模です。発掘調査により、東西方向に3列、南北方向に5列(東端5石、西端4石)の礎石が確認できましたという。
ここも広い。歩きやすいように、左端には石段の間に角材が置かれている。
石段脇の石垣がここも膨らんでいる👀

右にも別の石段が。こういうのを袖石垣というみたい。
三の丸を振り返る。
ここもコの字形に石段がついていて、
その二の丸の東端の櫓跡から、先ほどの袖石垣が左が三段に右が二段になっているのが見えた。
更にその上にも複雑に入り組む石垣。
二の丸は広く、
西側は楓の紅葉がよく残っていた。
高い石垣の上に復元された櫓があり、窓の下に石落や矩形の穴もつくられている。
やっぱりこの石垣も膨らんでいる👀
その膨らみを正面から写していると、
矢穴跡が密に入った石を発見👇
二の丸からは再び石垣沿いの長い通路を歩いて行く。石畳というわてけでもなさそうだが、四角い石が二列に並んでいる。
この角の石垣も膨らんでいる👀
本丸下の長~い石垣の傍を通って振り返る。やっぱり石垣の下の方は膨らんでいて、上の方の石よりも黒ずんでいる。

切手門
説明パネルは、切手門奥(東側)の雁木(石段)は、一段の段差が70-80㎝もあり、この高低差を少しでも解消するため、段と段との間はスロープ状の斜面にしていたと考えられます。
現在の雁木は、高低差をなくすため、本来の石段の上に部分的に盛り土を行い、新たな雁木を付け加えています。雁木に使用された石をよく見ると、本来の雁木がそのまま使われているところ(大きい石のある段)と、雁木があらたに付加された箇所(小さい石のある段)のあることが分かりますという。
段差の少ない楽な方を上っていく。
切手門の発掘状況(説明パネルより)
平成20年度から21年度にかけて発掘調査を実施したところ、門の礎石が良好に残っていました。櫓門は通常梁間(奥行き)二間ですが、切手門では、その奥にさらに礎石が1つみつかり、梁間三間となる珍しい形式の門であったことが分かりました。
また、豊島石製のU字溝を使用した門の雨落溝や暗渠排水など、雨水を処理するための施設も確認されましたという。
ひょっとして、通路の二列に並んだ石の下は暗渠になっていたのかも。
 切手門の想像復元図
二の丸から本丸表鉄門へ至る間の通路を仕切る大型の「櫓門」です。二階部分は南側にある「弓櫓」に接続していますという。
左の石垣の中程に
石工衆の印のようなマークを発見

石段の上がると。正面には鐘撞き堂のある南北に長い石垣と、その右に薄い石垣がある。
ここは十四番門。その奥は現在はもみじの小道と呼ばれていて、風が当たりにくいせいか、紅葉がよく残っていた。
特にこの木は見頃の色で、その奥にはこれから鮮やかな色に染まろうとしている木もあった。
石の間に映えた草が赤くなった草紅葉だと思っていたが、落ちた紅葉した葉が風で飛ばされ、目地に付いているのだった。
お城の東側にかつての城下町が広がっていた。真下には宮川の石垣が見えている。

表鉄門
説明パネルは、表鉄門(おもてくろがねもん)は、本丸への入口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています。
表鉄門を北向きにくぐると、西向きに石段があります。石段を登り、南に180度方向をかえると、そこに本丸御殿の玄関があります。
この玄関は、先に門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたり、全体は北に向かってのびる「コ」の字形をしていました。
表鉄門は、城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていました。本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためにとられた手段のひとつであったのでしょう。
文化6年(1809)の火災により、本丸御殿のすべての建物及び表鉄門、裏鉄門などは焼失しています。表鉄門と両脇の石垣が再建されたのは、8年後の文化14年(1817)です。東側にある石垣を観察すると、熱を受けて赤く変色した石を確認できますという。
膨らんで黒ずんだ石垣は下の方にもあったが、それは江戸末期の火災によるものだったのだ。
表鉄門のCG画像
門の二階櫓内部を左から右に向かうと本丸御殿の大広間につながるという。

石段の幅がだいぶ狭くなってきた。
右手方向には鐘撞き堂

本丸東側の石垣。先ほどの鐘撞き堂は木が邪魔してよくは見えない。
北の方の石垣に上る石段が登り口から双方向へV字形に連続して築かれている。
本丸北方向と西の天守台。
津山城の見下げ図
天守台
その前にトイレがあるのが残念。

その南にある復元された本丸の備中櫓は中に入ることができる。
備中櫓から眺めた二の丸の紅葉
柵のある窓から眺めた二の丸南側には楓よりもソメイヨシノが多く、その葉は落ちてしまっている。
矢を射るためか石を落とすためか小窓が開いていた。
北側の連子窓から天守台が見えた。

備中櫓から天守台へはこの狭い門から
復元された塀には急な階段と矢狭間。
天守台
説明パネルは、津山城の天守は、地上五階建てで、最上階以外に破風を持たない質実な造りでした。高さは石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規のものです。形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものです。
天守をはじめ城内の建物は明治7-8年(1874-75)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたという。
西側を展望する。
備中櫓の中で、藩主森家の菩提寺本源寺が西の方にあって、そこから天守が見えるという説明があった。時間があれば行ってみたい。

天守台北側に回って見えた櫓跡の石垣の重なり。
おっとここで右折。
ここにも櫓に上がる石段が。
矢穴跡のある石が👇
ここには2つ?👇
近くに石工のマークもあった。

南北の通路へ。右が天守台、左は櫓のあった石垣。
天守台への石段。
石段を上ると見える石垣の構成。大きな石とその間に詰められた小さな石など。
天守閣への取り付きの石段。
説明パネルより(上から見下ろした写真。右が北側)
この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。上から見ると、平らな礎石が並んでいる様子が分かります。絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています。柱は、約38㎝角もある巨大なものであったことが分かっていますという。
天守閣の絵図
復元されず、このままの方がありし日を想像できる。
備中櫓と復元された土塀。
紅葉と石垣の重なり。

どちらかというと建物の残る城を見て育ったせいか姫路城に興味はない。城というものに興味を持てずにいたところ、あるとき、知り合いの爺さんの親友が、竹田城の写真(もちろんモノクローム)で賞をもらって、ザルツブルグ城での授賞式に行かれたと聞いたことがある。
一体どんな城跡なのか見たくなって、後年出かけてみると、石垣だけが残された山城だった。竹田城についてはこちら
以来城の建物よりも石垣に惹かれるようになった。
この竹田城は、その後天空の城などと呼ばれるようになり、観光客が押し寄せて、至る所にロープが張られているようだが、そうなる前に見ることができて良かったと思っている。
津山と同じ岡山県にある高梁市の備中松山城の岩を利用して築かれた石垣もかっこよかった。

津山観光センターの駐車場を利用したので、戻ってきて同じ建物にある「ホルモンうどん」の旗のあるお店に入ってみた。津山の名物がホルモンなのだとか。
ホルモンは苦手なので、焼き肉丼にした。
デザートはジャージー牛のソフトクリームのようなきめの細かいアイス。



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参考にしたもの
津山市観光協会発行の見取図