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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/12/18

津山 衆楽園


津山城の北方に衆楽園という旧津山藩別邸の庭園がある。
津山城よりも紅葉が残っていると聞いて行ってみた。
説明パネルは、衆楽園は、津山藩主森長継が明暦年間(1655-58年)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23504坪と現在の三倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清游の場となっていました。津山藩では防備のうえから城内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので「御対面所」と呼ばれました。
その後、森氏にかわって入封した松平氏に引き継がれましたが明治3年正月、時の藩主松平慶倫が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。明治4年の廃藩後、多くの建物がとりこわされ規模も縮小して一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園池の主要部分は残り、大正14年再び「衆楽園」と改称し現在に至っています。
この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小4つの島を配し周囲の中国山地を借景とした構成は近世池泉回遊式庭園の典型であり、江戸初期の大名庭園のおもかげをよく残していますという。
小堀遠州は同じ岡山県の高梁にある頼久寺に元和5年(1619)まで住み、その庭を作っている。



すぐに大きな池が見えてきた。睡蓮の葉も色づき始めている。

背の高い松の木が一面に積もるほど葉を落としている。
それは永観堂にある松と同じ3本の葉の三鈷の松だった。

池の脇に桜の残り少ない葉
その落ち葉。真っ赤に染まらずに柿色に紅葉する。サクラは紅葉するまでに葉を落としとしまうことが多いが、こんな色の紅葉は好き。

紅葉島にも背の高い松と低く若い紅葉が。
藩主や家族はこの土橋を渡っていたのだろうなあ。
橋のたもとから池の北側

どうせ渡れない橋だろうと期待していなかったが、結界はなかった。
せっかくなので島に渡ってみると、若いながら見事なもみじの紅葉、
そして、かつては十三重塔だったと思われる石塔が置かれていた。
東岸は地味。

東側から紅葉島
池の向こうに余芳閣や迎賓館が見えている。池には小さな蓬莱(浮)島があって、
船着き場のような石板にカモがたくさんいた。池に浮かぶカモたちの羽ばたいて羽毛づくろいをする音だけという静かなところだった。

北側には池に突き出た風月軒。藁屋根で鄙びた家屋風に造られているが、窓が大きく、高欄がある。
内部には入れないが、入口から開け放たれた窓の外の景色を眺める。紅葉島を眺めるために建てられたよう。

風月軒の先には小さな流れに架かる石橋(真ん中がへこんでいる)を渡って北へ。
そこでは曲水が巡らされていて
浅い底にはたくさんのシジミがいるとじっくり見るとドンクリだった。

中島には渡らず池の土手の径をゆく。木の橋に続くのは霧島。
島に渡る前に余芳閣と迎賓館の正面に出た。

八ッ橋を渡って右手にいくと、
曲水の流れに再び遭遇。紅葉もみごと。
その流れの中に小さなクレソンが。
ここにも石橋があり、その先が明るく開けているが、西へと向かう。

一両?十両?

広い通路の両側は常緑樹の根が張っている。足元にも小さなドングリがたくさん落ちているのでウバメガシかな。

その先にはまた鮮やかな紅葉が。カエデはほぼおなじ高さなのに、
この一本だけが非常に高い。

北に目をやると若い紅葉なのに赤い葉が積もっている。
その奥は葉を落としたイチョウと裏門

同じ木でも見る方角で色も変わる。先ほどのカエデはここから見るともっと鮮やか
逆光で撮ると

山口誓子の句碑は三鈷の松の落ち葉に囲まれていた

先ほどの高い木
上の方にズームして、葉が3つに分かれていることが分かった。
その様々な色の落ち葉を並べてみたが、あまりきれいな葉はなかった。
この形の葉は、ハナノキという木らしい。
『日本の樹木』は、山地の湿地でまれに生え、大きいものは高さ20-25mになる。葉は対生し、長さ4-7㎝で浅く3裂し、ふちには不ぞろいな鋸歯がある。4月頃、葉がでる前に真紅色の花が咲き、特に雄花は多数集まってつき、美しいので花の木の名があるという。

表門へと向かっているときに、また若い紅葉に日が射していた。
まだ青い葉もあって、紅葉していく過程が見られる。

その後、津山藩主の墓のある本源寺へ。ナビに変な場所に導かれ、迷いながら辿り着いたら、
一本の道の北の方に本源寺の門と「本源禅寺」と刻まれた石碑を見つけた。奥の門付近に駐車場がある。
どうも拝観をやっている雰囲気ではなく、
説明パネルを撮影するに留まった。
臨済宗妙心寺派の寺院で、津山城主森家の菩提寺です。本堂は慶長12年(1607)に上棟され、方丈形式で、屋根は入母屋造、桟瓦葺です。柱や梁組などの主要構造は当初の様子をよく留めています。
慶長期にさかのぼる方丈型の本堂を中心として、庫裏、中門や森家代々当主を祀る霊屋など、江戸前期までに整備された建造物が一体で残されており、地方における大名菩提寺として建てられた臨済宗寺院建築の初期の遺構として価値が高いとされていますという。
代々当主の墓は東西に5基、南西に1基あるらしい。
それをどこから見たら良いのかわからず、とりあえず歩いて門まで戻り、その西側の通りを北上。車では通り抜けられないくらい狭い箇所もあったので、歩いて正解。
とうとう空き地から巨大な五輪塔が幾つかあるのが見えた。しかし、これでは北側は4基しか見えない。
空き地に入り込んで何とか5基写すことができた。

もう少し北に進むと突き当たりに小さなお寺があり、その前の道から東方を眺めると、確かに津山城の天守台や備中櫓が見えました。

津山 津山城(鶴山公園)

参考文献
津山市観光協会発行の衆楽園園内案内図
「山渓カラー名鑑 日本の樹木」 編者林弥栄 1985年 山と渓谷社