お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/05/25

東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁


大阪市立東洋陶磁美術館には定窯白磁の素晴らしい鉢があり、これまでにも記事にしてきたが、今回は撮影可ということなので、自分の写真を添付してみました😊

白磁刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
説明パネルは、器の内外に表された蓮花文は、定窯特有の牙白色(アイボリー・ホワイト)の白磁の中に浮かび上がっています。光を通すほど極めて薄くつくられており、ゆがみがなく焼成するために上下逆にして焼かれました。定窯白磁は宋・金時代に宮廷内でも用いられましたが、本作は宋代定窯白磁の優品の一つです。釉のかかっていない口縁部には銀製の覆輪がはめられていますという。
でも、定窯の白磁らしい牙白色には写せなかった。
見込には大きく蓮華が表されるが、葉は蓮ではなく蔓草のよう。
花弁はヘラ彫りで浮き出して彫られているが、その片側にだけ細い線が入り、花弁の中にも細い櫛掻きで葉脈表される。
外にも大きな蓮華が巡る。縦の蓮華は4つかな。
そして、内側にはないが、器の胴部から下に向かって縦に浅い凹みが認められる。一つの蓮華に凹みが2つあるらしい。

朝鮮半島でも白磁はつくられ、同館で常設展示されている。

白磁陰刻牡丹蓮花文瓶 高麗時代(12世紀) 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
説明パネルは、高麗白磁は青磁と同じ窯で焼かれ、形や文様の共通性も多く、高級品でした。本作は、頸が細く長く、胴がたっぷりとふくらんで、高麗の優美な造形感覚を示しています。胴面に陰刻された牡丹文と蓮花文にも、細緻で優雅な文様表現を見ることができます。全羅北道扶安郡柳川里窯址から同様の陶片が出土していますという。
『美の求道者・安宅英一の眼展図録』には、安宅氏が高麗陶磁の中で、もっともその取扱いに慎重を期していたもの。
筆者も修行時代のかなりの長期にわたって、直接手を触れることが許されなかった。
それは口から頸にかけて大きな修理があり、また釉薬が剥がれ易かったことに一因がある。
しかし、安宅氏のこの作品に対する思いが、それだけ深かったことにもよるだろう。
高麗陶磁に宿る美神を、この一点の中に見ておられたように思われるという文が添えられている。おそらく同展開催当時の館長伊藤郁太郎氏の文と思われる。
高麗で制作された白磁は牙白色ではない。
牡丹側を正面にして展示されていた。蓮華文はどんなだっただろう。
線刻による牡丹文は、頂点は大きな花ではなく、開きかけた蕾になっていて、高麗の花に対する美意識が現れている。
ただ、器体には細かい嵌入が見られ、完全な磁器ではない。そのためか、左下部や右側面にはシミが出ているが、これは雨漏とは呼ばない?できあがった時点ではこのようなシミはなく、酒器などに使っている間に出てきたのだろう。
高麗ではそのような景色を楽しんだのかな。それともそのような趣向は日本独自のものなのだろうか。
高台内にも釉薬がかかっている(説明パネルの写真より)。

白磁壺 朝鮮時代(16世紀) 高23.0㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
説明パネルは、朝鮮半島における白磁生産は高麗時代に端を発しますが、15世紀後半には京幾道広州市に官窯が設置され、本格的に白磁が生産されました。この壺は玉縁状の口、楕円状の胴体が横へ膨らんだ造形にあたたか味があり、その魅力を増しているようですという。
『美の求道者・安宅英一の眼展図録』は、「稀代の目利き」、とも称せられた青山二郎氏と、安宅コレクションとの関係を示す、ただ一点の作品。
箱の蓋裏に、青山氏が墨書した銘「白袴」と、「青山二郎」の角印を押したラベルが貼られている。この銘は、この壺の本質を見事についたもので、この壺に対する青山氏の眼の確かさを証明するという。
ずんぐりとした壺である。嵌入が入るその釉の色は青みを帯びている。
玉縁状の口縁が特徴的。膨らんだ胴の割に口は小さく、高台とほぼ同じ大きさに見える。
高台内も釉が薄く掛かる。もっとも、こんな大きな壺の高台に釉がかからないように掛ける方が難しいだろう。

白磁壺 朝鮮時代(18世紀) 新藤晋海氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
説明パネルは、胴の曲線のゆがみやひずみが、かえって表情を豊かにしている白磁の大壺です。落着いた乳白色の美しい釉色が厚くかかっています。こうした大壺は数少なく、韓国では「満月壺(タルハンアリ)」とも呼ばれ、朝鮮白磁の粋として珍重されていますという。
「白袴」とは似つかない形だが、口縁部が共通する。
これは安宅コレクションではなかった。
本作は志賀直哉から東大寺元管長・上司海雲師に贈られ、東大寺の観音院に飾られていましたが、1995年に泥棒が地面に叩きつけ、粉々になりました。その破片が、すぐれた技術による修復を経て、以前と変わらない姿でよみがえりましたという。
一見表面が傷だらけに見えるが、とても粉々になったものを修復したとは思えない。それほど技術と作品への思い入れの成果だろう。

私が大学生の頃安宅産業が倒産した。その後安宅コレクションは住友グループが買い取ったため散逸を免れた。住友グループは全て大阪市に寄贈し、大阪市立東洋陶磁美術館が開館したのが1982年のことだった。家族で鑑賞に出かけたが、その時の図録よりも、2007年に開催された『美の求道者・安宅英一の眼展』の図録の方が解説が細かいので、その図録で白磁をもう少し見てみると、

白磁角杯 高9.5㎝ 李氏朝鮮時代(15世紀) 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
同展図録は、リュトンとも呼ばれる角杯はもともと遊牧民族が酒などを飲むのに使っていた容器です。中央アジアでは金属器のリュトンがあり、これらの造型が朝鮮半島にも伝わったのかもしれません。リュトンは三国も高麗時代にも制作されています。
-朝鮮時代の初期、15世紀には、白磁は国王の御器として専用されていた。
雪白色に輝くような焼き上がりを見せるものがあるが、この角杯は、少し焼成温度が低かったためか、つやや輝きはない。
それがかえって潤いを与え、成形も丹念に厳粛に作られ、いかにも国王の器に適わしいという。
韓半島角の形のリュトンは見たことがあるが、三韓時代の硬質土器だった。その形がずっと半島で残り、王の威信材として伝わっていたのだった。
角形リュトンについてはこちら

白磁象嵌「楽」銘碗 李氏朝鮮時代(15世紀後半) 径12.8㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
同展図録は、朝鮮陶磁の神様と呼ばれた浅川伯教氏(1884-1964)は、この碗が「詩」「書」「禮」という銘を黒色で象嵌した白磁盃3点とともに出土したと記しています。柔らかい質の白磁で、慶尚南道・西部地方の製品と見られます。
-朝鮮時代の前期、15世紀のある時期、短い期間、この技法が現れた。
遺例は決して多くなく、とくに「楽」字銘をともなうものは、ほかにはないという。
この器が定窯白磁の牙白色に似ているかな。

白磁祭器 李氏朝鮮時代(16世紀) 高20.0㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵 
同展図録は、「簋(き)」と呼ばれる祭器で、本来あるべき複雑な装飾を省略し、かえって造形の力強さを増しています。15世紀後半-16世紀にかけて慶尚南道西部地域で焼かれた柔らかい質の白磁ですという。
焼成時に胎土から気体が出たピンホールが目立つ。器壁のおおざっぱな削り方や柔らかい雰囲気は、白磁というよりも、粉引のよう。

白磁面取壺 李氏朝鮮時代(18世紀後半) 高21.9㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
同展図録は、全体を8面に面取した壺で、口作りの様子から本来は蓋を伴っていたと思われます。
かすかに黄みを帯びた釉色が穏やかな印象を与え、胴裾の貫入より生じた染みが景色となっていますという。
面取しても角がそれほど目立たず、牙白色の優美な壺だ。
「白袴」の外に捻った口縁部とは異なり、上に立ち上がっているのも器体によく合っている。
高麗時代(12世紀)の磁陰刻牡丹蓮花文瓶と同じくシミが見られるのも、日本人好みかも。



東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史← →東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白っぽい陶磁

関連項目
角形リュトン
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった

参考文献
「美の求道者・安宅英一の眼-安宅コレクション展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編集 2007年 読売新聞大阪本社

2018/05/22

岡山天満屋で田上惠美子特集


コアガラス作家の田上惠美子氏から、久々に個展の案内をいただいた。
岡山の天満屋で2018年5月23日から29日までとのこと。
岡山市というのは珍しいのではないかな。岡山市立オリエント美術館の講座や講演会を聴きによく出かけた街だが、駅と美術館の往復路しか知らないので、天満屋がどこにあるのかわからない・・・


田上氏の作品を見る度に、私と変わらない年齢なのに、よくこんな細かい細工を続けられるものだと感心する。外れたボタンを縫い付ける糸を通すのにも難儀している私にとっては、それだけで尊敬に値する作業である。

一番上の帯留めに鏤められた、サクラの花弁形の箔は、これまでとはまた違ったテイストで、その小ささに驚く。それがまた曇りガラスの中にあるので、遙か彼方の天の川を蜻蛉玉に閉じ込めたような奥行き感がある。

左より
蜻蛉玉源氏物語三十四帖若菜に似ているが、幅広に甲高の形で帯留めの形だろう。
次のは春の野シリーズかな。その上のプチプチの付いたかわゆい玉、次の手鞠のような玉、そしてレースガラスを駆使した透明な玉、それぞれ素晴らしい。
それだけでなく、蜻蛉玉の取り合わせや、それを付けるものとの配置など、このはがきそれだけで一つの作品である。
などと見ていて気がついた。この葉書は縦に見るのだったのだ。

ところで、田上惠美子氏は今年、第47回日本伝統工芸近畿展に入選されたという。
実は「蜻蛉玉源氏物語」で何か受賞されるだろうとは思っていたのだが、それが日本伝統工芸展とは!でも、去年ではなく今年というのも驚きだ。
その「蜻蛉玉源氏物語」五十四帖の写真も同封していただいて、感謝!

斜めに撮った「蜻蛉玉源氏物語」の写真と、
正面から撮った写真。
二十二帖玉鬘の置き方が違っているけど、甲乙付けがたい良い写真。

それぞれの裏面
賑わいを感じる配色。それぞれのものが成長し出す5月かな。
そしてもう1枚の裏
こんな風に涼しげな玉が並んでいるのを見ていると、茹だる夏もしのげるかも。
写真計画さんの図録が段々と厚くなっていく。また送って下さいませ~(←厚かましい)

きのわさんに田上惠美子氏の蜻蛉玉展を見に


2018/05/15

中国の唐時代の三彩と各地で模倣された三彩


唐時代の俑と言えばまず唐三彩が思い浮かぶが、大阪の東洋陶磁美術館に展示されていたのは、『唐代胡人俑展』も常設展示の作品も、ほとんどが加彩俑で、三彩俑はわずか2点(撮影した作品の数)だけ。
同館の説明は、唐三彩は褐釉や緑釉、白釉(透明釉)など複数の低火度鉛釉が掛け合わされた器物や俑に対する総称です。色釉の組み合わせや白斑などを効果的に用いられた華やかさが特徴です。唐三彩は女帝則天武后の治世(690-705)に都洛陽を中心に全国的に流行し、鞏義窯はその代表的な生産地でしたという。


三彩胡人俑 唐時代・7世紀 高30.8幅8.7奥行6.9㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
胡人とは、中国の北方や西方の異民族の人々を指す総称です。唐時代の胡人俑には、シルクロードを通じて活発な商業活動に従事した中央アジアのイラン系のソグド人が多く見られます。この胡人俑も彫りの深い顔で、鼻が高く、あごひげや口ひげをたくわえた特徴からソグド人かもしれません。右手を胸前で握り、左手は腰のベルトをつかんでいるようで、馬や駱駝の馭者かもしれません。都長安や洛陽をはじめ唐の領域に定住した胡人も多くいたようで、異国情緒あふれる胡人の文化は唐でも流行しましたという。
7世紀というと、三彩誕生後間もない頃につくられた作品。
そういうと、色釉の掛け方が、衣裳は褐釉、襟と裾付だけが緑釉と単純である。

三彩侍女俑 唐時代・8世紀初頭 高26.3幅6.3奥行5.4㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
長いショール(披帛)をかけたこのタイプの侍女俑は8世紀初頭の洛陽地区でしばしば出土しています。カオリン質の白い胎土などから、この俑も鞏義窯の製品と考えられます。顔には三彩釉が施されていないのは、繊細な表情の描写にはやはり加彩が適していたからでしょう
唐三彩の初期の作品だが、色釉が流れたり、まだらに混じり合ったりする唐三彩の特徴がすでに現れている。

このような俑ばかり見ていたので、昔は唐三彩といえば副葬品だと思っていた。しかし、副葬品という用途に限られると、日本に将来されることはなく、奈良三彩などが作られることもなかったはずである。
唐三彩をまねて日本で奈良三彩が作られただけでなく、唐時代以降も中国では作られたし、西方でも作られた。

緑釉帯の壺 初唐期(618-712年) 高34.0口径11.5胴径23.0㎝ 洛陽龍門出土 洛陽博物館蔵
『大三彩展図録』は、穀物の種を入れ来世にとどける明器であったので、俗に万年壺とよばれた。
緑を地色とし黄と藍色の線に連なる白い点々の線をたて縞とし、緑の帯文様をはば広く器身を飾り水瓜に似せた壺である。また胴の下部に釉をかけず素胎のままとし、上半の装飾をきわだてているという。
副葬品は避けたつもりなのに、これも副葬品として作られたものだった。

真珠文の獣足壺 盛唐期(712-765年) 高19.5口径15.0胴径23.0㎝ 洛陽井溝朱家湾出土 洛陽博物館蔵
『大三彩展図録』は、散りばめられた黄色と緑色が鮮やかな真珠文様を飾る唐三彩壺の珍品。
胴底に蹄のある三足の獣足がつく。壺全身を緑色の地でおおい、黄と白色を不規則に点文様とした真珠文をつくる。肩に小さな三輪の蓮華文のメダイヨンを貼り付けている。
唐三彩には貼り付け装飾が多く、三色の釉とあいまって華麗さを生んでいるという。 
真珠文がそのまま焼成される場合もあるが、釉薬が流れてそれが別の表情を作ることもある。それが唐三彩の特徴でもある。
鞏義地区の黃冶窯でも真珠文の容器が出土している。

三彩洗 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年) 河南省鞏義市小黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 
真珠文はもっと小さく密に施されている。『まぼろしの唐代精華展図録』では点彩と呼んでいる。

牡丹文の枕 宋時代(北宋:960-1127年、南宋:1127-1279年) 高10.6長32.5厚11.0㎝ 洛陽出土 洛陽博物館蔵
『大三彩展図録』は、宋朝は北方に起った遼朝におされ、ついで興った金朝に破れ、首府を開封から華中の杭州に移し南宋となる(1138年)。宋代は中国陶磁が本格的に開花した時期である。唐三彩は宋三彩として継がれた。
枕の正面には刻花の褐色大牡丹とそれをとりまく緑色の葉を飾る。彫りと色彩の濃淡で立体感をもたせた見事な花文様である。実用枕であったが、唐三彩とくらべると落ち着いた色彩であるという。

波と蓮文の三彩花皿 遼時代(契丹族、916-1125年) 高2.7口径13.7底径8.8㎝ 遼寧省博物館蔵
『大三彩展図録』は、このような円形花皿のもとはキッタン人の用いていた木器であった。八弁の花びら形である。器形も文様も型を用いて作っている。底は平たく口は外に開く。いずれもうすい赤の胎土に化粧がけをほどこす。
細い水波文を地文にして、その中心に満開の蓮の花一輪がゆったりと浮かぶ。内壁のまわりを八朶のつぼみで飾る。皿の内側を黄、緑、白色で色どり、外側には白色釉をほどこしているが、その釉色は実にあっさりとして美しいという。

蓮文の三彩小皿 金(女真族、1115-1234年)-元(1271-1368)時代 高2.4口径13.2底径8.5㎝ 遼寧省博物館蔵
『大三彩展図録』は、文様はまさに北方の民族のキッタン、女真あるいはモンゴルの人々がもっとも好んだ図柄。蓮は高貴さを象徴している。
あきらかに遼三彩とは異なり、小皿ながら一種の落着いた雰囲気をたたえている。そして小さな皿の中にデザイン的にも洗練された文様を飾るところに、遼三彩を継ぎつつも、前代を越える作品を生む努力が見てとれる。
丸い口で口縁を外側に折ってやや上に巻く。この口縁づくりに遼三彩と区別される特長を見出す見解もあるという。

牡丹と蓮文の三彩花鉢 元(モンゴル族、1271-1368年) 高15.1口径10.2胴径12.5底径7.4㎝ 遼寧省博物館蔵
『大三彩展図録』は、花鉢は筒形に近い。底に圏足がつき、足壁は厚い。足の内側に等距離で三角形に並べた円形の排水孔があく。
胴に突起した弦文を貼り付けて一周し、その上部に枝をまとう牡丹と蓮花を彫り、圏足の上に仰ぐ蓮の花びらを彫る文様はまことに簡素で、たいへんおおらかな元代的風格を具える鉢である。
元代の陶磁は、大ぶりで厚みがあり、文様もあっさりとし、極めて野趣的な雰囲気である。広大なモンゴル草原に生きた人々の好んだ風格であろうという。
排水孔があるので、植木鉢として作られたものだろうが、それが15㎝ほどのものということになると、かなり小さな花しか植えられなかったのではないだろうか。

中国から将来された三彩容器は、各地で模倣された。

三彩有蓋短頸壺 奈良時代(8世紀) 陶製 総高21.3口径13.6㎝ 伝岡山県津山市出土 岡山県倉敷考古館蔵
『大遣唐使展図録』は、奈良三彩は、中国の唐三彩の影響を受け、日本で作られた三彩陶器である。坏や盤、鉢、壺など様々な器種があり、主に寺院における法会、神への奉納など非日常的な場所で使われることが多かった。
奈良中期頃の須恵器壺にも一般的に見られる姿である。唐三彩にこのような器形はなく、この製作には明らかに伝統的な日本の須恵器工人が関わっていることか分かる。釉薬は緑釉を基調としながら、褐釉と白釉を寄り添えた斑文を、胴部におよそ4段、上下で互い違いになるように点じているという。
点彩は大まかだが、釉薬が流れる唐三彩の特色が出て、当時施釉という技術のなかった日本では、完成度の高い作品だ。
しかしながら、用途が限られていたためか、後の時代には伝えられなかったのだった。

西方でも三彩は模倣された。しかし、好まれたのは、釉の色彩と、それが器体を流れる点だったようだ。

白地三彩流れ文把手つき水さし 9-10世紀 高26.3口径19.5㎝ イラン、ニーシャープール出土 ペルシア・ニッポン・カンパニー蔵
ペルシャ三彩陶器というが、把手側を下にして窯に入れたので、釉薬が横に流れてできあがった。陶工の意図したものだったのかな。

三彩釉刻線獣文鉢 9-10世紀 高11.8口径28.0㎝ シリア出土 岡山市立オリエント美術館蔵
ビザンティン陶器という。
刻線と三彩釉の組み合わせは唐時代から行われているが、伏せて焼成したために見込から口縁部へと流れる色釉が、走るウサギの躍動感に相乗効果をもたらしている。

三彩釉刻線流文大鉢 10-11世紀 高14.0口径44.0㎝ イラン、ニーシャープール出土 岡山市立オリエント美術館蔵
刻線で植物文様らしきものが表され、その上に掛けた三彩釉が、見込から口縁部へと流れている。その間には地の白い色が垣間見える。





関連項目
唐三彩から青花へ

参考文献
「大三彩 唐三彩・遼三彩・ペルシャ三彩・奈良三彩 展図録」 監修江上波夫 1989年 汎亜細亜文化交流センター・第一企画株式会社 
「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録」 2008年 飛鳥資料館
「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」 2010年 奈良国立博物館他

2018/05/08

俑を遡る2 群像編


俑の中には集団のものがある。

楽舞俑内楽人俑群 唐時代・大足元年(701) 土製彩色 高19.5㎝程度 河南省孟津県送荘西山頭村岑氏墓出土 洛陽博物館蔵
『誕生!中国文明展図録』は、発見時には墓主の棺近くに舞踏俑が置かれ、それと相対するように6人の坐楽俑が前後2列に並んでいた。坐楽俑が手にしていた楽器はすでに失われているものの、手の仕草と同時代の俑や敦煌莫高窟壁画などを参考に類推することができる。すなわち縦笛、琵琶、琴、排簫、笙などの管楽器や弦楽器を手にしていたと推測されるという。
初唐期のものなので、顔はふっくらしているが、体は細身。
上衣は長袖の襦に半臂を重ねるが、半臂の左から細長いストール状のものを出し、首へ回して前に長く垂らす。長裙の裾は花びらのように体の縁を巡る。
楽舞俑内舞踏俑群 高28.7㎝程度
同展図録は、舞踏俑の衣はいずれも袖が長い。腕をふったり体を回すたびに、袖がたなびいたことだろう。
当墓からは多くの俑が出土したが、宦官や男子俑の多くは墓室外に置かれ、墓室内は大型の鎮墓俑のほかは、男装する女性俑を含め、いずれも女性俑だった。出土した墓誌によれば、墓主は女性であり、当時女性主人が近侍者として多くの女性を従えていたことがうかがえるという。
後列の女性は双髻、半臂の上に幅広のストールを両肩から広げて垂らす。右手の長い袖は広げずに左手で持っている。
前列の女性は双環で、胡服を着て胸元で帯で締め、長い袖を広げている。

雑技俑 北魏(386-534年) 加彩釉陶 高25.3-27.4㎝ 山西省大同市燕北師院北魏墓出土 大同市考古研究所蔵
『中国★美の十字路展図録』は、雑技は貴人の宴席や市中で好んで興された。なかでも異国情緒あふれる踊りや歌は人気があり、多くの文献や壁画に記録をとどめている。彼らもその面貌から西域の一団と思われる。丸襟の上衣と縁布のある下衣とは中央アジアのペンジケントの壁画にも見出される西域の服装であり、これは雑技専用の衣裳ではなく、普段着として用いられるものであった。ある者は手に楽器を持ち、ある者は口笛を鳴らす。楽器はすでに失われているものの、軽快なリズムが聞こえるようである。中央には額に竿を立てた人物がおり、その上では軽やかな曲芸が繰り広げられるという。
どうやらこれはソグド人らしい。ソグド人がかつて暮らした中央アジアの壁画では見たことのない、楽しい場面だ。

伎楽俑 北魏(386-534年) 加彩陶 高20幅10㎝ 山西省大同市燕北師院北魏墓出土 大同市考古研究所蔵
『中国★美の十字路展図録』は、8体の伎楽俑が持っていた楽器は、今は失われている。手の形からみれば、それは琴、鼓、横笛、縦笛などである。上衣には、表面に花模様をあしらう様がよく見て取れる。彼女らが着ている筒袖の服、十字の縫い合わせがある帽子などは、典型的な鮮卑族のよそおいであるが、本例のように装飾性に富んだものは珍しい。この時期の伎楽俑には、本例のような女性による坐像と、男性による馬上楽とがあった。前者は貴人の邸宅で、後者は貴人の出行の際に登場するという。
柔らかな表情の女性たちは体型もふくよか。

牛車と従者 東晋時代(317-420年) 灰陶 俑:高23.5-31.5㎝ 江蘇省南京市象山7号墓王氏墓出土 南京博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、胡人は鼻が高く、髭を蓄えている。まだズボンを着用している。胡人が都市部にはかなり移住していたのであろう。これは東晋時代の貴族の出行の情景と考えられるという。
漢人の貴族に胡人(おそらくソグド)の従者たちが多数いたことを示している。

『図説中国文明史4』は、奴隷は荘園内で地位がもっとも低い人たちでした。彼らは土地を失っただけでなく、人身の自由も失っており、荘園主の私的な財産でした。奴隷の売買は、すでに戦国時代のはじめにはなくなっていたにもかかわらず、後漢になって再び見られるようになりました。
荘園における奴隷の仕事は直接的な生産とそうでないもののふたつに分かれた。直接的な生産にたずさわる奴隷はおもに手工業と農作業に従事した。そのほかに家のなかの仕事に従事する奴婢や歌妓・舞妓などがいたという。

最後解牛・解猪 後漢時代(25-220年) 緑褐釉陶 高9.5-11.5㎝ 
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、牛や豚は漢代の代表的な家畜であり、これらを屠殺する場面は画像石などにもみられる。手びねりで形成し、褐色と緑色の釉を掛け分けて焼成している。動物の造形のリアルさに対して、人物の表現は極めてシンプルであるが、緊張感のみなぎる一瞬の動きが見事に捉えられているという。
死後も豊かな食生活を送ることができるようにという願いだろうか。

童子 後漢時代 加彩 高20.0・14.0㎝ 
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、頭に一つ髷を結い、短い上衣に朱色の帯を締め、筒状のズボンを穿いた2人の童子は、手びねりで形成した後に、ヘラで削り、黒く、硬く焼成している。扁平な丸い顔に、黒で目や眉毛を描き、黒で目や眉毛を描き、鼻梁をわずかに隆起させて、窪ませた口に朱を差している。極めてデフォルメされた人体表現の中に、不思議な迫力が感じられるという。
質素な服装は荘園の子息たちではなく、奴婢の子供たち。荘園内で働く子供達が休憩しているらしい。

幼児の入浴 漢代 陶製 高11.7㎝ 陝西省西安出土 陝西省文物考古研究所蔵
『図説中国文明史4』は、農家の幼児が簡略な洗濯たらいで入浴し、楽しんでいるという。
荘園の一角で暮らす農家の日常風景さえ死後の生活の一部にしている。

食事を運ぶ俑 漢代 陶製 高37㎝ 四川省忠県出土 四川省博物館蔵
花飾りを付けた女性は坏と食べ物を盛った盆を持ち、帽子を被った男性は肉料理をのせた大きな台を膝の上に置き、右手でそれを説明しているようだ。どちらも口元には笑みを浮かべている。
中国でも当時は床に座して食事をしていたようで、2人とも正座している。

彩絵木管弦楽隊 前漢時代 木製 高32.5-38㎝ 湖南省長沙馬王堆1号墓出土 湖南省博物館蔵
『図説中国文明史4』は、漢代、民間にもっとも広く伝わったのは相和歌でした。それゆえ、これに伴奏する管弦楽もさかんになりました。
貴族が擁していた私有楽隊。典型的な小規模の管弦楽隊であり、2人の竽(大型の笙)の奏者と3人の瑟(大きな琴)の奏者からなるという。
粘土のように自由な造形とはいかなかったようだ。一定の太さの木材という制限の中で楽人を彫りあげている。

踏鼓舞踏俑 漢代 陶製 高さ14.9-16.3㎝ 河南省洛陽漢墓出土 洛陽博物館蔵
『図説中国文明史4』は、民間における歌舞の光景。漢代にたいへん評判の高かった「盤鼓舞」が披露されているところ。前列中央の女性は、地面に置かれた7つの盤鼓の上で跳ね踊りながら、リズム感のある音を鳴らしている。動作は難度が高く、舞妓の技と力が示される。盤鼓舞は雑技の技法を吸収して、舞踏の動作と結合し、独特の舞踏形式として漢代に流行していた。
①排簫を吹く伴奏者 ②盤鼓舞を踊る踊り手 ③歌を歌う楽人 ④伴奏に合わせて踊る踊り手という。
楽器も土で作っているので残っている。
全体にざっくりと作られているが、前列右の俑が片足立ちでバランスしているのはすごい。漢族の舞踏だったようで、女性の袖が長く翻っている。

漢代は前漢を指しているものと思われます。

         俑を遡る1 従者編

関連項目
東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展

参考文献
「中国★美の十字路展図録」 監修曽布川寛・出川哲朗 2005年 大広
「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物展図録」 編集愛知県陶磁資料館・町田市立博物館 2005年 愛知県陶磁資料館・町田市立博物館・岡山市立オリエント美術館他

2018/05/04

俑を遡る1 従者編


大阪の東洋陶磁美術館の平常陳列の解説で俑は春秋戦国時代からあるということを知った。
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、俑とは、陶、木、石、金属などで作られた人形のことで、死後の世界で墓の主人に奉仕するために墓室の中または墓の周辺に埋納された。
皇帝や王侯の墳墓に陶製や木製の俑からなる軍団を副葬するという葬制は、秦始皇帝陵ではじまった。秦による全国統一以前にも東方の斉国や南方の楚国などでは王侯の墓に木製や陶製の俑が副葬されることが少なくなかったが、それらの俑は、侍臣や侍女、楽人など主人の身近で仕える役割のものが大部分という。
主人に仕える俑を春秋戦国時代まで遡ってみると、

舞踏俑 北斉(550-577年) 加彩陶 高28㎝ 河北省磁県湾漳墓出土 中国社会科学院考古研究所蔵
『中国★美の十字路展図録』は、一つの墓から多数の舞踏俑が出土する例はほとんど無いが、磁県湾漳墓からは16体もの舞踏俑が出土した。そのうち、8体は本例のように頭に籠冠をかぶり、残りの8体は頭に小冠(平巾幘)をかぶる。広口袖の褶を右合わせて着用し、足先まですっぽり隠れる長裙をはいている。
袖を前後にたなびかせるように舞う姿は北魏平城期の舞踏俑と共通するが、本例の柔らかくしならせた腕や、軽く曲げた左脚などを見ると、より細部に注意した造形であるといえようという。
長い袖の先を人体に着けてバランスさせている。 

侍従俑 南朝(420-589年)・6世紀 灰陶 高19㎝ 陝西省安康県出土 陝西歴史博物館蔵 
『中国★美の十字路展図録』は、頭には幅広縁で中央部が細長く延び、その先端部が折りたたまれている帽子を被っている。頭部と手を別々に作り、焼成後に組み合わされたのであろう。陝西省南部では、南朝墓の様式を持ちながら、動きの見られる俑が多数出土している。やや高い位置で帯を締める合わせ襟の上衣で、袖は広く広がっている。膝から下が締まっているズボンをはいている。台座はない。揚げられた左手には何か楽器か旗を持っていたのであろうか。傾けた首とやや開いた口の様子から、何か唱っているのかもしれないという。
安康県は長安と長江の中間に位置する。
手先は欠失しているが、左腕の仕草が気になる。そして首をかしげて遠くを見つめるような目も。綱で牽いて連れる牛の歩みが遅いので、立ち止まって牛の方を振り返っているようにも思える。

女子立俑 南朝(420-589年) 灰陶 高37.5㎝ 江蘇省南京市西善橋南朝墓出土 南京博物院蔵
『中国★美の十字路展図録』は、静かで柔和な顔つきをした侍女俑で、5-6世紀頃の南朝期の人物に特有の穏やかな表情をしている。南朝の俑は北朝での大量の俑に比べて、出土例は少ない。この俑は「竹林七賢、栄啓期図」の磚室で著名な墓室の正面に置かれていたもので、他に5体の俑が置かれていた。顔の部分と胴部は型で成形されている。ヘアスタイルは特に異彩を放っているという。
髪型も異様だが、首が長過ぎるように感じる。細身の女性だが、南朝の服装なのか、俑を安定させるためか、裾が広がっている。

武士俑 東晋時代(317-420年) 灰陶 高32㎝ 江蘇省南京市石門坎東晋墓出土 南京博物院蔵
『中国★美の十字路展図録』は、右手に小さな盾を持つ武士の俑である。左手には武器らしきものを持っていたようで、投げた直後なのであろう。頭はやや上を見上げ、相手を窺っている瞬間をとらえた造形で、写実的である。合わせ襟の丈の短い上衣をまとい。下半身は長い裙を付けている。大きな目と目立つ鼻は外国人であることを示す特徴であり、墓室内でのこのような造形の俑は、西晋が崩壊したあと、江南へ避難してきた東晋時代に独特のものであるという。
南朝の女子立俑と同じく、衣裳の裾を広げて安定を図っている。

深衣を着た俑 前漢時代 木製 高79㎝ 湖南省長沙馬王堆1号墓出土 湖南省博物館蔵
『図説中国文明史4』は、貴族の家中にあって比較的身分の高い家臣の姿。家臣は規範や儀礼を重んじる職業である。深衣を着ているが、曲裾はすでに簡略化されており、体に一周巻きつけただけであるという。
木製の俑に布帛の衣裳を着せている。

踊る女性の俑 前漢時代 陶製 高53㎝ 長安城宮殿遺跡出土 陝西歴史博物館蔵
『図説中国文明史4』は、秦が天下を統一する戦争の過程で、始皇帝は数万人もの各国の後宮の美女や、音楽と舞踏を演じる妓女を首都・咸陽に連れて来た。その結果、全国各地の歌舞のエキスパートが首都に集まり、漢の宮廷のために優秀な人材をたくわえるひとになった。この舞俑は陝西省西安市の漢の長安城宮殿遺跡から出土したもので、前漢の宮廷の雅楽舞踏をあらわしているという。
細長い袖を翻しながら踊る。動きのある上半身に比べて、下半身はやや膝を曲げてバランスを取っているだけで、舞い自体は静かなものだったことを思わせる。

塑衣式女立俑 前漢時代(前2世紀) 加彩灰陶 高58幅24㎝ 咸陽市陽陵陪葬墓M130号墓出土 咸陽考古陳列館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、頭髪は漢代に流行した堕馬髺と呼ばれる髪型で、長い髪を肩の後ろで束ねて折り返し、一部をさらにそこから下に垂らしている。衣服は深衣と呼ばれる長衣。本品が出土した陪葬墓からは「周応」という人名が刻された印が見つかっており、景帝の時代に鄲侯と繩侯に封じられたふたりの周応のどちらかの墓と考えられるという。
陽陵は第6代景帝(在位前157-141年)の墓廟。
上の踊る女性の俑の長い袖を手首にまとめるとこんな風になるのだろうか。
顔は丸みを帯びるが、非常に細身の俑である。

侍女俑 前漢時代 陶俑 高41㎝ 陝西漢高祖長陵出土 陝西歴史博物館蔵
高祖は漢の建国者劉邦。その孫で第6代景帝の墓廟の陪葬墓から出土した侍女俑よりもずんぐりしている。膝を軽く曲げているせいかも知れない。 

侍女俑 秦帝国末期(前2世紀末) 陝西省西安南郊、茅坡郵電学院秦墓出土
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、戦国時代の秦国では俑を副葬する習慣はあまり見られず、咸陽北郊出土の騎兵俑のほかに数例が知られているだけであるが、最近、戦国・秦から秦帝国にかけて小形の俑の副葬が細々とではあるが、おこなわれていたことがわかってきた。始皇帝陵兵馬俑が生み出された背景には、このような小形俑副葬の習慣があったと思われるという。
大きさは明記されていないが、非常に小さな俑のよう。それでも頭髪、目鼻、衣裳の襟の盛り上がり、長い裾から沓の先だけが見える様子が浮彫で表されている。唇や襟、袖に赤い彩色が残っている。

『図説中国文明史3』は、春秋戦国時代、殉葬という習俗はだんだんと廃止され、俑を副葬するように改められました。これは人物彫塑作品の発展を促しました。副葬された俑は、主に生前の身分の高かった墓主に仕えるためのものでした。このため、ほとんどが召し使い・料理人・踊り子などとしてつくられていますという。

彩色の玉を佩びた木俑 戦国時代中期 木製 高66.7㎝ 江陵紀城楚墓出土 湖北省博物館蔵
『図説中国文明史3春秋戦国』は、木俑は白と黒を交えた方裙(裾が足首の上で止まったもの)を着て、彩色の玉璧と玉璜をつないだ組飾りを2本身につけているという。
玉の組飾りを着けることができるのは、よほど身分の高い人物だったことをうかがわせる。前漢時代の俑よりも高い、胸元の位置で帯で着衣を締め、身にびったりとそう狭い袖口から出た手は、やはり拱手している。
それにしても他の俑とは全く異なる、独特の人物表現である。

鋳型 戦国時代 陶製 山西省侯馬市出土 中国国家博物館蔵
『図説中国文明史3』は、直立した人をつくる陶製の鋳型という。
金属の俑の鋳型。
両手の先には爪が表され、手の甲が見えるように挙げているのはどんな意味があるのだろう。何かを担いでいたのだろうか。
胴部で紐で締めた短い上衣には文様がある。しかも、戦国時代の銅鏡の文様に似ている。
『中国の古鏡展図録』は、山字文鏡は前3世紀を中心に大量に製作され、中国の広い範囲で用いられた。幅広の凹面帯であらわされた山字形文は単なる漢字を表したものではなく、鉤連雷文など青銅祭器の文様モチーフの一部を転用したものであろうという。
それは当時の従者の衣裳の文様を再現したのではなく、青銅器の文様だったようだ。

侍従俑 戦国時代 陶製
『図説中国文明史3』は、斉魯地方の貴族墓に副葬されていた陶製の人形で、侍従の姿をしている。儒家の発祥の地であった斉魯地域では、儒家が殷・周以来行われていた残虐な殉葬制度の廃止を主張していた。このため、この地域では人の代わりとなる陶製の人形が最初に登場し、急速に伝播していった。漢朝になると、皇帝や貴族の副葬品の主要なものとなった。殉葬制度は戦国時代にはすでにほとんど見られなくなったという。
左の俑は女性で、長い袖で手先を隠し拱手している。とすると、半袖の服を着た右の俑は男性だろうか。共に鼻だけが表された顔と、片方に結った髷で、男女差はなさそう。

春秋時代の俑は見つけられなかった。

 東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史←   →俑を遡る2 群像編

関連項目
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展
中国の古鏡展2 「山」の字形

参考文献
「中国★美の十字路展図録」 監修曽布川寛・出川哲朗 2005年 大広
「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢-建築・人・動物展図録」 編集愛知県陶磁資料館・町田市立博物館 2005年 愛知県陶磁資料館・町田市立博物館・岡山市立オリエント美術館他
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 監修稲畑耕一郎 2007年 創元社 
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 監修稲畑耕一郎 2005年
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 監修稲畑耕一郎・鶴間和幸 2006年 TBSテレビ・博報堂