ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2018/04/27
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展
話は前後するが、大阪市立東洋陶磁美術館には開館35周年記念「唐代胡人俑展」見に行った。
長らくご無沙汰していたせいか、何と特別展も平常陳列も撮影可になっていた。
「唐代胡人俑展」は、同展図録によると、2001年に甘粛省慶城県で唐代の游撃将軍穆泰(660-729、730年埋葬)の墓が発見され、その中から彩色鮮やかで、写実的な造形の胡人俑などが出土して大きな話題となりました。穆泰墓出土の胡人俑は、ソグド人などの胡人の姿を生き生きと表現していて、胡人俑の中でも最高傑作といわれていますという。
墓室は横穴式
同展図録は、穆泰墓は緊急発掘であったため、すでにかなりの破壊や盗掘を受けており、俑をはじめとした副葬品の本来の配置状況などはほとんど分からない状況であるという。
これらは会場のパネルを写したもの。
せっかくなので、幾つかの俑を撮影した。
加彩胡人俑 唐開元18年(730) 高44.2㎝ 慶城県博物館蔵
同展図録は、躍動感あふれる劇的な表現となっており、その姿態は駱駝を牽く胡人俑に通じるものがあることから、これも牽駝俑と考えてよいだろう。もみあげと一体になった口ひげやあごひげは波打ちながらシャベル状となっており、太鼓腹を露出した胡人俑など穆泰墓出土の胡人俑の特徴的な表現となっている。円領で窄袖(筒袖)の黄色の胡服(長袍)を着ており、白地に朱や黒で宝相華のような半円形の花文があしらわれた縁取り装飾が見られる。腰にはベルトを巻き、右腰部分には黒色で円形のポシェットのような袋状のものを付けており、これは『旧唐書』にも記載のある「鞶嚢」と思われる。下には細身のズボンを穿いており、その模様から虎皮製であろうという。
この腰のベルトに提げたり取り付けて持ち歩く鞶嚢と呼ばれる小物入れについては以前に取り上げた。
それについては関連項目で
この胡人の履いている虎皮製というズボンは金彩されているように見えた。
加彩胡人俑・加彩駱駝 唐開元18年(730) 高 俑53.0駱駝77.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、この胡人俑と駱駝の組み合わせも当初のものであるかは不明であるが、その大きさや姿態のバランスを見る限り極めて自然といえる。胡人俑は、彫りの深い顔立ちで、目は大きく、鼻はかなり高く、立派な口ひげとあごひげをたくわえた典型的な中央アジア方面のイラン系胡人の特徴を見せている。袷部分には朱と白の半円形の花文の縁取りが見られる。下には赤褐色の虎皮のズボンを穿いており、足には先のとがった黒いブーツを履く。右手(欠損のため修復)を高く上げ、顔は右手先を仰ぎ見るようにし、左手は左腰脇で固く握り締め、まさに手綱を牽いている姿を劇的に表現している。一方、駱駝はフタコブラクダで、やや白い胎土に黄色の彩色が施されており、首周り、コブ、脚の付け根、尻尾等の部分には黒色による毛並みの表現が見られるという。
駱駝は肢を揃えて立ち止まっている。手綱を引っ張られ、牽かれて歩き出す前の瞬間を表しているのだろう。
前肢の膝上の鰭状のものが気になる。胡人のあごひげの表現と同じく、鰭状に表しているのかな。
その目が飛び出しそうなくらいで迫力がある。動くのが嫌そうだ。
副葬した時には手綱で繋がれていたかも知れない。
駱駝俑と言えば唐三彩では?
駱駝及び牽駝男子 唐、8世紀前半 三彩 駱駝:高89.0長68.0幅27.0㎝ 男子:高60.0幅21.0奥行20.0㎝ 河南省洛陽市関林120号墓出土 洛陽博物館蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、駱駝とそれを牽く男子の一対の俑。現在、手綱は失われているが、両手を引き絞り、腰をひねり、力を込めて掛け声を発するかのように開口した人物の姿には、首をもたげて嘶く駱駝を御そうとする瞬間の様子が、ありありと捉えられている。唐代(618-907年)の写実的な作風が如実に示された一例といえようという。
しかしながら、穆泰墓出土の駱駝の表情や、手綱を引っ張って駱駝を動かそうとする胡人の手の位置ほどの迫力は感じられない。
加彩馬 唐開元18年(730) 高64.0長55.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
『唐代胡人俑展図録』は、穆泰墓から出土した3点の加彩馬のうち、本作は最もサイズが大きなもの。剥落は激しいものの、全体に淡い黄色の加彩が見られる。馬体の肉付きは均整がとれており、四肢は細長くしなやかでエレガントである。首を左にひねり顔を左方に向け、口を開けて歯を剥き出し、いななく様を表している。鬣は両側にそって刻線を入れ、加彩の線と点で毛並みを表している。他の2点とは異なり、鞍を置かない「裸馬」となっている。躍動感を内に秘めたような芸術性の高い迫真的造形は胡人俑にも通じるものがある。当時、国営の馬の牧場が現在の甘粛省一体に多数あり、多くの軍馬が放牧されていたという。
体の表現は素晴らしいが、胴体に比べて頭部が小さ過ぎるように感じたのは、顔を遠くに、胴体を近くに写したからだろうか。
加彩馬 唐開元18年(730) 高48.8長34.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、この馬だけは唯一全体に赤い加彩が施された、いわゆる「赤馬」である。筋骨隆々の引き締まった馬体を見せ、首を伸ばして頭をやや左下方に垂れ、鼻息を荒くし、いなないている。唐代には加彩や三彩などにより様々な馬の模型がつくられたが、精悍な馬の躍動感を迫真的に表現したその造形力において、本作は名品の一つに数えられようという。
顔が極端に小さいのが、穆泰墓出土の馬俑の特徴の一つではないだろうか。
騎馬狩猟人物 唐、8世紀前半 灰陶加彩 高35.9長32.0幅13.6㎝ 陝西省西安市東郊豁口唐墓出土 西安市文物保護考古所蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、騎馬人物俑の一群中のうち。それぞれ、馬上や手に、犬、鷹、豹などの動物が表されていることから、狩猟を意味するものと考えられる。人物や動物の表情や肢体にみられるように、各種の形姿が活写され、躍動感あふれる唐時代の造形力の高さをよくうかがうことができるという。
馬上の人物は深目高鼻の胡人で、縮れたあごひげの表現がリアル。右腕にネコ科の動物を抱えているが、頭部などが欠失していて詳細は不明。
穆泰墓出土の馬俑の方が頭部が小さいように感じるのは、顔の向きのせいだろうか。
騎馬笠帽女子俑 唐、麟徳元年(664)頃 黄釉、加彩、貼金 高37.0長26.4奥行10.8㎝ 陝西省礼泉県鄭仁墓出土 陝西歴史博物館蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、唐の太宗の陪塚から出土した。
短衣(衫)のうえに半袖の上着(半臂)をつけ、裙をはいて馬にまたがる。右手は体側に垂れ、左手は手綱をつかむような仕草をする。頭巾様のかぶりものを付けた上に笠状の帽子をかぶる姿は、類例を見ず、斬新な形制である。馬は、前肢を突っ張り、下を向いて口を開け、その背には、雲文の飾られた鞍を負う。馬に乗る女性の姿には、時代の気風が端的に示されていよう。
淡い黄色の釉薬をほどこした上に、白・黒・緑・朱で彩色するという、新出の技法をいち早く採用し、一部に金箔も用いて、やや大味な造形を上手におぎなっているという。
女子は細身に表され、服装は中国の伝統的なものである。
馬も筋肉を誇張してはいない。その割に頭部が大きい。
馬俑の頭部を年代順にみてみると、時代が遡るほど頭部が大きく造形されていることがわかった。
山西省大同市宋紹祖墓出土の伎楽騎馬俑(北魏、太和元年、477)の馬は農耕馬のようにがっしりとして、頭部も大きい。
河北省磁県茹茹公主墓出土の馬に乗った文官の俑(東魏、武定8年、550)の馬は細身でその頭部も小さい。
山西省太原市賀抜昌墓出土の騎馬俑(北斉、天保4年、553)は肉付きの良い体だが頭部は小さい。
寧夏回族自治区固原県李賢墓出土の甲騎具装俑(北周、天和4年、569)の馬の頭部は小さいが、全体に他の俑よりも稚拙なつくりで、地方作ということばで表現して良いのかな。
でも、山西省太原市斛律徹墓出土の騎馬俑(隋、開皇17年、597)の馬にはやや筋肉の表現が見られるが、首が短く、その分頭部が大きく見える。
あまり頭部の大きさにこだわることもないのかも。
それよりも金箔はどこに。
馬のたてがみは加彩が剥がれて白く見えるだけで、金箔ではない。女子の衣装にも、鞍敷の雲文にも金箔は見られない。
そんな風に見ていって、面繋や尻繋の黒い紐に金箔が残っていることに気付いた。
穆泰墓にも金箔で装飾された俑がある。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高46.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
『唐代胡人俑展図録』は、頭に黒の幞頭をかぶり、額の部分には薄地の網目状の絹のような織物で覆われており、ふくよかな顔立ちで、眉は太めで凜々しく、鼻筋は通り、目は切れ長で細く、黒目は小さい。口は小さめで、朱の塗られた厚みのある唇は柔らかさを感じさせる。口の両側の頬には小さな黒い点が見られるが、これは「靨鈿」(ようでん、あるいは「廠靨」と呼ばれる一種の化粧法)であり、さらに両側から上瞼にかけてはピンクがかった化粧の彩色も見られることから、女性であることがわかる。目に鮮やかな朱色の円領(丸襟)のゆったりとした胡服(長袍)をまとい、朱地には中央が丸く抜けた白色の菱形状の文様があしらわれているという。
胡人ではなく胡服を着た唐人、しかも女性を表しているのだった。
『図説中国文明史6』は、唐代は開放的な社会であり、婦女は自由な境遇のもと、他の時代のような復古的な礼教の束縛を受けることはありませんでした。李氏唐王室は、もともと隴西(甘粛)の少数民族の出身で、礼教のタブーが少なかったのですという。
上の初唐期の女性と比べると、かなりふっくらとした体型である。
『唐代胡人俑展図録』は、胸前を大きく開き、襟を大きく折り返して翻領(折り襟)として、折り返された部分には花文とともに金彩(貼金)による豪華な装飾が施されている。長袍の衣紋は深い刻線で流麗に表され、衣の柔らかい質感が伝わってくるという。
貼金で植物文様を象っているようにも見えるし、植物文様の地に貼られているようでもある。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、唐代には各時期に様々な髪型が流行したことが知られているが、この俑は中央で環形状に結った髪を額前に垂下させており、両耳やうなじ部分は髪に隠れ、全体にボリューム感のある髪型となっている。かなりふっくらとした顔立ちで、目は細く切れ長で鼻筋が通り、口は小さめで、口元にかすかに笑みを浮かべている。奈良の正倉院伝来の「鳥毛立女屏風」に描かれた唐風天平美人像の源流ともいえる唐美人の気品を感じさせる優品といえるという。
胡服もいろんな着方をして楽しんでいたのだ。
腹前で合わせた袖口は左右対称で様式化されているものの、裙の左上から右下へと斜めに通る衣文線は体の微妙なねじりを表し、体に沿う柔らかな胡服の質感まで、非常に丁寧に表現している。
鳥毛立女屏風についてはこちら
後ろ姿(説明板より)
外にはおった円領の胡服は、折り返した襟の内側に金彩による飾りが施されており、豪華な仕上がりとなっている。当時、こうした円領の胡服は女性たちが着用することも多く、こうした金の縁飾りは女性用の一種のおしゃれであったかもしれないという。
金箔は彩色された花文の地に貼り付けられているようだ。
加彩胡人俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、厚くたくましい眉毛と切れ長の目、そして鼻筋が通り、ややふっくらとした頬で小ぶりの愛らしい唇をもった精悍な美男子の趣を見せている。黒目の中央部分は丸く彫り込んで立体感を与えており、これは穆泰墓出土の他の俑にもみられる手法である。頭には幞頭をかぶり、円領の胡服を着る。胡服は胸前で右衽(右前)としており、中には朱色の内衣がうかがえる。前の裾の部分はたくし上げて、左右それぞれ背中の部分のベルトに挟み込んでおり、より動きやすい機能的な着方といえる。右肘を突き出すように「く」の字状にまげ、左手も上げ、両手を握り締めて綱のようなものを牽く姿をしており、これも牽馬俑の類と考えられる。その優しげな表情と柔らかな顔立ちから、あるいは女性なのかもしれないという。
この俑も男性だと思って見ていた。そして深目高鼻の胡人には見えないと。
胡服は茶褐色のような色合いで、白色の六弁の花柄文様があしらわれており、一際目を引くという。
この六弁の花文という文様はあまり見たことがないような。クチナシかテッセン(鉄線)の花をデザイン化したのかも。
加彩女俑 唐、開元18年(730) 高41.2㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、頭には黒い幞頭をかぶり、黒いベルトを締めた服装などから、一見男性のようにも見えるが、額には朱の「花鈿」が見られることから、女性であると考えられる。服装の着こなし方はやや複雑であり、重ね着と折り返しなどを巧みに駆使している。一番外側には黒色の円領の胡服を着るが、左肩を脱いでおり、中に着た黒地に朱と白の円形文様が施された服をのぞかせている。そして、胸前に挙げた左腕には朱色で深いドレープを効果的に見せた袖口の大きな寛袖を垂らしており、これは円形文様のある上衣の内側に着た服の袖のようであるという。
そのドレープの規則的な襞は、丸みを帯びず鋭角なのが意外。鏝(こて)でしっかりとプリーツを付けているのだろう。
左脚も裾をたくし上げて、それぞれ異なる文様の重ね着を少しずつ見せるという凝りよう。
その後ろ姿(説明板より)。
胡服の左袖を脱いでいることが、線刻で表現されている。
穆泰は、夫人にいろんなおしゃれをさせて、それを描かせていた。それを元にそれぞれの俑をつくらせたのかも。
俑は人物や荷役の動物に留まらない。
何故穆泰の墓と特定できたかというと、中国では墓誌を副葬するからだ。
穆泰墓誌 唐、開元18年(730) 高10.0幅36.0奥行36.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、灰陶質の方形の蓋と身からなる盒子状の墓誌で、それぞれ角が面取されている。蓋表には白の加彩(白粉)により大きな宝相華のような花文が一つ描かれており、蓋と身の側面にも花文のようなものが描かれているという。
墓誌銘(パネルより)は蓋の内面に、刻線によって仕切られた縦15行にわたってやはり白い加彩により記されている。第1行目には「唐故游撃将軍上柱國前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘」とあり、墓誌銘からは、穆泰は隴西天水(現在の甘粛省天水市)の人で、唐開元17年(729)に70歳でなくなり、翌開元18年に慶州城北5里(約2.5㎞)のところに埋葬されたことが分かる。穆泰の家系については、北魏時期に改姓した鮮卑貴族(漢化した鮮卑人)ではないかとの説もある。穆泰の身分階級は游撃将軍で従五品下となり、決して高くはない。しかし、出土した胡人俑などの加彩俑は、唐代の数ある陶俑の中でも極めて優れた出来栄えと芸術性を見せており、穆泰の名を一層高めることになったという。
木簡が並んでいるようだった。
この特別展は、穆泰墓出土に特化しているため、出品数としては60という限られたものだが、その図録は大きさも図版も凄い!
表紙はインド系胡人俑
裏表紙
彼は豹皮のズボンを穿き、左腰に黒い鞶嚢を提げている。鞶嚢は右だったりするが、像としてのバランスで左右を決めるのか、それとも利き腕によって左に提げる人、右に提げる人がいたことを示しているのだろうか。
図録のあるページには、このインド系胡人の顔が大写しになっていたり、
いろんな方向から写した図版がこれでもかというほどに収まっている。
もちろん、他の胡人俑も大画面で。
それほどまでに、穆泰墓出土の俑は、一つひとつが個性的で、表情も細かく描写されているのだった。
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった← →東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史
関連項目
中国の唐時代の三彩と各地で模倣された三彩
第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある
唐では袋物の形で身分を表した
唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か
帯に下げる小物入れは中国や新羅にも
騎馬時の服装は
鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白っぽい陶磁
参考文献
「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢展図録」 2018年 大阪市東洋陶磁美術館
「宮廷の栄華 唐の女帝・則天武后とその時代展図録」 1998年 東京国立博物館・NHK
「大唐王朝 女性の美展図録」 2004年 中日新聞社
「図説中国文明史6 隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 劉煒編 2006年 創元社
2018/04/24
乾山作の梅文は蓋物だった
以前に大阪市立東洋陶磁美術館で購入した赤いハンカチは梅文だと思っていたが、それは四角い容器の絵から採ったデザインだと思っていた。
ところが、今回同館の常設展示にあったものは緑地に椿文を散らした向付で、確かにこの文様が元になっていることは分かった。
それはMIHO MUSEUMで2016年に開催された「うましうるはし 乾山 四季彩菜展」で見た向付の文様と同じだった。
色絵椿文向付 5客 18世紀 MIHO MUSEUM蔵
同展図録は、蓋付の食器は、いわゆる蓋付碗と呼ばれるものがほとんどで、その原型は漆器の塗碗に求めることができ、乾山はそれをやきものに写したといえます。
一方、白化粧の下地を白い椿花とし緑の上絵付けを施す意匠は、輪花向付や四方鉢、手付鉢など乾山焼の製品にしばしば見られるものです。蕊は黄で描き込んでいます。これは染織技法の応用で、すでに梅波図蓋物に梅文を施す手法で見せていますという。
大阪市立東洋陶磁美術館のものは口縁部が8つの輪花となって向付らしい形だが、こちらは蓋付きで汁椀のよう。
この解説にあるように、何時か何処かで椿文の四方鉢を見ていたかも知れないなどと思ったりする。
銹絵染付梅波文蓋物 1合 MIHO MUSEUM蔵
同展図録は、本作は蓋表と身の外側に型紙を使って白泥で梅花を散らし、その上から銹絵と染付で梅花を重ね摺りして絵付けしています。全体に透明釉が掛けられ、高火度焼成されていますが、口縁と底は土見せとなっています。
乾山の蓋物は、竹や籐などで編んだ蓋物にその原型があるといわれていますという。
この四方鉢の文様を緑の椿文と勘違いしていたのかも。
内側には全面白化粧の下地を施した上に染付で流水文を描いています。
蓋を開けた時に意表をつく意匠配置はここにも見出され、これぞまさに玉手箱といえるでしょうという。
流水文にも見えるが、玉手箱から出てきた煙にも見える。
おまけ
色絵阿蘭陀写市松文様猪口 10口 MIHO MUSEUM蔵
同展図録は、薄い粘土板を貼り合わせて成形し、白泥と藍彩で碁盤目状に交互に塗り分けた、いわゆる市松文様と呼ばれる意匠が施されています。単純ですが普遍的な図柄で、古さを微塵も感じさせません。しかも見込みは碁盤目を45度傾けて施文しているデザイン力はさすがで、単純なパターンに変化をもたせ、意外性を呼び起こす効果をもたせています。外側には口縁際に黄の線を一条巡らし、全面白化粧下地の底には銹絵で乾山銘と爾印花押が記されています。
箱蓋表には「延享2年」と書かれており、延享2年(1745)は、乾山が歿して2年経た年にあたります。底に記された爾印花押の乾山銘は猪八のものと似通うことから、乾山江戸下向後の京都で引き続き猪八によって操業されていたであろう聖護院窯で焼かれた製品と考えられます。
いずれにしろ、細部にまで神経を使って繊細かつ丁寧に仕上げられたこの猪口は、目に鮮やかなデルフト・ブルーと呼ばれる青色が美しく、しかも口縁部の黄色い線描が全体を引き締めている市松文の小粋なデザインは、いつまでも新しさを失わない、乾山永遠の作といえるのではないでしょうかという。
乾山工房の作だったが、乾山のデザインした作品、あるいはデザイン帳にあったのかも。
その上、この藍色釉の特色なのか、輪郭が滲んでいる。
それが、あるお宅の絣の市松文様に似ているのに気付いて驚いたものだが、今回猪口の滲みに気付いて二度びっくり。
同展図録は、この文様を小粋なデザインとしているが、そんな猪口にそれぞれの料理を盛り付けるなんて、もっと洒落ている。
こんな料理を京都の美しい庭を見ながら食べることができたら、それはもう至福としかいいようがないだろう。
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった←
参考文献
「うましうるはし 乾山 四季彩菜展図録」 2016年 MIHO MUSEUM
2018/04/20
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった
以前に大阪市立東洋陶磁美術館のミュージアムショップで購入したハンカチ。地が緑色のと赤とがあったが、梅の花だと思ったので、赤い方にした。
「乾山」の銘の右に小さな鳥のような文様があるのを「乾山にはこんな印はない」という人がいた。これはハンカチを製作している工房のサインではないかな。
大阪市立東洋陶磁美術館の日本陶磁室では、乾山の向付が五客並んでいた。ハンカチのデザインのオリジナルである。
色絵 椿文 輪花向付 江戸時代・18世紀 尾形乾山(乾山焼)
説明は、仁清から陶法を学んだ尾形乾山(1663-1743)は、元禄12年(1699)洛西鳴滝に開窯しました。正徳3年(1712)、市中の二条丁子屋町に移ると、意匠性に優れた乾山のやきものは新興町人層の人気を得ました。文様と器形を椿花のモチーフで統一した乾山らしいセンス溢れる作品です。底部に見られる白化粧上に銹釉による「乾山」銘は、書体から三つのタイプに分けられ、こうした「乾山」銘が乾山工房のブランド名のようなものであったことをうかがわせますという。
何故か梅の花だと思って使っていたこの花の正体は、椿だった。よく見ると五弁でもなかった。
見込みには前中央の向付にだけ椿文が描かれているように見えるのだが、ほかの器にも描かれているのかどうか、背が低いのでこれ以上見えない。
花びら描かれた椿は八弁で、向付も八弁の切れ込みがある。
八弁の白花の椿。筒咲きの花を真上から見た斬新なデザイン。
探してみると、椿は種類が多く、五弁という少ないものさえもある。乾山がこの器を制作した時代には、今ほど椿の種類は多くはなかっただろう。
斜め上からのぞき込んで、見込に椿文が描かれているのは1客だけだとわかった。
説明パネルの写真で内側が判明。この1客だけ、中央に一つ、周囲に6つの椿を描いて七曜文になっている。
高台には「乾山」の大きなサイン。
緑色のハンカチもほしいとミュージアムショップで探したが、もう置いていなかった。
→乾山作の梅文は蓋物だった
関連項目
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白っぽい陶磁
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁
東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史
東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展
2018/04/17
山桜が散る頃
近くの里山は山桜が多く、まだ落葉樹の葉が出ない頃に満開を迎える。
しばらくすると、残りの木々が芽吹いてくる。その新芽の色が黄緑だったり、赤いものだったりと、樹木の種類によって様々で、里山は一番華やいで、にぎわいのある時期となる。それが私が春爛漫を感じる景色である。
ところが、そんな里山を眺めるのはいつも運転している時のため、それを写すことができなくて残念に思う。今年こそはとカメラを準備していたが、やはり果たせなかった。
知り合いの家に背の高い山桜の木がある。その木は30年程前に、以前に住んでいた家の樋に発芽したものだそうで、それが今では家の中にいると咲いているに気付かないくらい高く育ってしまったのだそうだ。気付くのは花びらが風で舞い落ちる頃なのだとか。
今年も例年に漏れず、散り始めて気がついらしいが、
庭に花びらではなく花が落ちていたので、テーブルに置かれていた盃に入れてみた。
サクラが花びらではなく、こんなふうに花がそのまま落ちるのは珍しい。
東京のどこかの桜の名所では、ソメイヨシノの花が落とされる被害が近年目立つようになったという。くちばしが細長い小鳥が花の中にくちばしを差し込んで蜜を吸うのを見て、甘い蜜があることを知った雀が犯人だった。雀はくちばしが短く花の中に入れられないので、外から蜜のある場所をついばみ、花を落としてしまうのだとか。
でもこれは茎がちぎれて落ちたものだ。強風で茎ごと散ることもあるのだろうか。
床の間にはイカリソウが白い花入に。
これで4枚の花弁の花
キバナイカリソウの花が咲かなくなってしまったと聞いて庭?へ。
葉は立派なのに・・・
しゃがみこんで花を発見。これ以上かがめないので、イカリらしい花の形は撮影できなかったが、花が咲いていたことは確認できた。
日陰を好むホウチャクソウはたくさん咲いていた。
シラユキゲシもちらほらと。
この種類には、いい塩梅の日陰かも。
やっとピントが合った。
ちょっといじけたヒトリシズカ。
日陰過ぎると不満がたまっているのかも・・・
そしてスミレ。
山の斜面のイノシシがタケノコを食べるために掘った穴だらけのところには、赤紫のスミレが咲くが、やはりスミレは紫のものが好き。
上を見上げるとムシカリが驚くほどたくさん花を付けていた。
花も良いが、葉が出る時は、まるで枯れたような感じなのも面白い。
垣根には背の高いバイモが咲いていた。
斜面に出ているバイモは今年は花を付けていないという。山の木々で光が遮られて咲かなくなってしまったらしい。
日陰で咲く花も、あまりにも日が当たらないとダメらしい。
で、私の目当てはタケノコ。
毎年掘りにきているが、イノシシに先を越されている。今年もイノシシの掘った穴があったが、これは小さなタケノコだったみたい。
その近くに大きなタケノコが2つ並んでいた。
今年の春は雨が少ないので、まだ出ていないだろうと予想していたが、こんなに立派なタケノコが出ているとは。
この山はタケノコを採るために、土を盛ったりはしていない、ただの裏山なので、石だらけである。この2本のタケノコの周りも石だらけ。根っこを好むイノシシは、土なら深く掘るが、石の間から顔を出したタケノコは敬遠したのだろう。
シーズン初めで鍬を使うコツが蘇らないので、石を取り除きながら悪戦苦闘。
そして収穫。
地盤が固いため、表面で芽を出すここのタケノコは、見た目よりは柔らかい。
では何故根まで掘って採るのかというと、竹かタケノコかというほど硬いタケノコが好みだから。
ごりごり美味しく戴きました。残りは天ぷらに。亭主は柔らかくなったと喜んでいましたが。
おまけはピンボケ気味ですが、ナナフシの子供。
妙な虫が鹿除けの網の上を動いているなと見つめると、珍しいナナフシだった。
そしてこの記事を作成した時にはすでに山桜の花は終わり、新緑の山はふわふわと膨らんでいる。
→彼岸花の前に咲くキツネノカミソリ
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