お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/10/31

サーサーン朝 帝王の猪狩り図と鹿狩り図


ターキ・ブスタン大洞はイーワーン式洞窟のファサード、奥壁の上下に高浮彫の図像がある。
詳細についてはこちら
そして、左右側壁下半分には国王の猪狩りと鹿狩りの浮彫がある。

左壁 猪狩り図
『世界美術大全集東洋編16』は、長方形の枠の中に幔幕を巡らし、そこで大がかりな狩りを行う帝王を描写している。この狩りが湿地で行われていることは多数の葦の存在によって明白であるが、ターキ・ブスタンには今も清水が湧き出る泉があるから、その水が潤す遺跡周辺は当時、湿地帯となっていたのであろう。また、周辺には狩り場の囲みを想起せしめる土塁の跡がある。それゆえ、この狩りはこの地域で行われた蓋然性が高いという。
斜めから部分的にしか写せていないが、象に乗って猪を追う者たち、舟に乗る者もいて、追い詰められた猪の群れが逃げ惑う場面が、壁面を覆い尽くしている。
全体図
弓矢を構える国王は、現状では雨水の浸入で白く変色した部分に辺り、見ていても判別できなかった。だから洞窟内で撮影された『世界美術大全集東洋編16』の図版は非常に助かる。
同書は、狩りの概要はまず、画面左端のインド象に乗った勢子たちが猪の群れを追い立てることから始まる。多くの猪が重層法(上下遠近法)で描写されている。その猪を帝王たちが待ち構えて射るのである。殺された猪は従者たちが集め、それらをインド象に乗せて幔幕の外に運び出す。そして、その後に宴会が催されたのであろうという。
同書は、画面の中央には小舟に乗った帝王が合弓を引き絞って猪を射殺しようとしているが、すでに殺された獲物が2頭大きく描写されているという。
王の前で斜め下に向かっている大きく表された2頭の猪は、すでに殺されたものだった。
この帝王の向かって右方には同じく小舟に乗り、合弓と矢を持つ王侯が描写されている。その外観は帝王とほぼほぼ同一であるが、円形頭光で荘厳されている点が異なる。これは帝王のフラワシ(霊魂のようなもの)ど、春分の日近くになると天上から降下するといわれる
ので、春の豊饒祈願祭(ファルヴァルディーガーン祭)に帝王と一緒に、農民の敵たる猪を殺害する儀式に参加していることを表していよう。この狩りは帝王の栄光を称えるためのものであるから、狩りは帝王とそのフラワシだけで行われ、他の人々はそれを許されてはいない。楽士が小舟から奏楽し、他の臣下か帝王たちの「偉業」を賛美しているという。
2隻の小舟に乗っているのは竪琴を引いている楽士たち。

帝王猪狩り図 7世紀 ストゥッコ 84X142㎝ チャハル・タルカーン・エシュカバード出土 フィラデルフィア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、テヘランの南ライからほぼ30㎞の地点には先史以来イスラーム時代に至る遺跡が点在しているが、そのなかにササン朝末期の城塞遺跡があり、アメリカの調査団によってその一部が発掘され、宮殿などの壁画を飾っていたストゥッコ装飾が断片ではあるが大量に発見された。ストゥッコはササン朝時代において、テシフォンやキシュの宮殿建築の装飾や塑像の素材として早くから使用されていた。この作品はその一部で、帝王の猪狩りを描写したものである。画面の周囲にはさまざまな植物文や動物文が配されているが、これらはササン朝の美術ですでに用いられていたものである。繰り返しの多い文様はすべて型押しで制作されているという。
同書は、中央の狩猟文はターキ・ブスタン大洞左壁の狩猟図を簡略化したものと考えればよかろう。帝王の名は特定できないが、おそらくホスロー2世などの王冠形式をモデルとしているのであろう。画面上段の連珠文の中の猪頭は軍神ウルスラグナの化身で吉祥、戦勝や大地の豊饒をもたらすと考えられていた。下段の有翼人物胸像はしばしば、ササン朝のスタンプ印章の図柄にも用いられているが、おそらく、同種の牡牛羊文と同じく、若者に変身したウルスラグナ神の化身であろうという。

ターキ・ブスタン大洞右壁
『世界美術大全集東洋編16』は、帝王鹿狩り図は、帝王が秋(秋分の日)に行う公式の行事(ミスラカーナ祭=豊饒感謝祭)を表すという。
なるほど、大きな角の鹿が列をなして疾駆している。
とはいえ、実写では外から斜めに見るしかないので、わかりにくい。やはり『世界美術大全集東洋編16』の図版が頼り。
国王の右の人物群像をはじめ、浮彫がおわっていないものが目につく。完成を見ない内に王朝が滅んでしまったのかも。
最下段の角のない鹿だけが首にリボンを巻いている。そしてこの鹿は枠外にもう一度登場していて、その下の人物は横向きになって立っているが、これは何を表しているのだろう。


サーサーン朝末期ともなると、王を含め人物像はずんぐりとしてしまうみたい。

            →ターキ・ブスタン大洞に見られるシームルグ文

関連項目
ターキブスタン サーサーン朝の王たちの浮彫
銀製皿に動物を狩る王の図
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
現地で買った絵葉書

2017/10/24

敵の死体を踏みつける戦勝図の起源


サーサーン朝の王権神授図や戦勝図には、王の乗る馬の足元に敵が踏みつけられていることが多い。
それについてはこちら

また、アケメネス朝では王墓には敵が登場しないため、そのような表現は見られないが、唯一の例かと思われるダリウス1世の戦勝記念碑浮彫にも、敵を踏みつける王が表されているらしいが、目視することはできない。
説明板は、前520-519年、 18X7.8m
王位簒奪者ガウマタと9名の反逆者に対する勝利を表した浮彫の周囲に、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の碑文がある。両手を上げて降伏を示したガウマタは王の足元に横たわり、捕虜たちは王向かい合っている。アフラマズダのシンボルである有翼日輪は、ダリウス1世に力の輪を授けようとし、王は右手を挙げて恭順を示しているという。
しかし、実際には足場があるため、王の足元は見えない。
現地で買った絵葉書で見ると、両手を上げて降伏したガウマタは・・・足場がなくてもよくわからないかも。
やっとガウマタがわかった。ダリウス1世の後ろに出ているのは、ガウマタの足だった。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫には、「ダリウス一世に踏みつけられるガウマータ」として、両手を上に上げ、腹部にダリウス1世の左足がのせられた姿で描写されている。

『世界美術大全集東洋編16』は、このような形式はメソポタミアのアッカド王朝のナラム・シーン王の戦勝図やイラン北西部サリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図(前23世紀)などに由来する。ダリウス1世の右上にはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーが表され、正当かつ正統な王位を象徴する環を同王に授与しようとしている(王権神授)。これもメソポタミア美術の王権神授図に伝統的な「環と棒」に由来するという。
同書にはサリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図は図版がないが、幸い、大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトサレ・ポレ・ゾハーブで詳しく知ることができた。
同サイトは、ケルマーンシャー市から西へ100㎞ばかり行くと、サレ・ポレ・ゾハーブという町に着く。イラク国境から20㎞の地点に位置している。 その市内に5つの浮彫があり、町に入る手前にアケメネス朝期とサーサーン朝期の遺跡がある。市内に5つある浮彫のうち4つは紀元前三千年紀後半から二千年紀前半にかけてのものとされ、イランではもっとも古い浮彫である。
古代のエクバタナからビーセトゥーンの山麓を通ってバビロンに通じる「アジアの道」に面している。ビーセトゥーンからは150㎞ほど西にあたる。町を流れる小さい川の手前の右側、小学校の裏庭にこの浮彫が位置している。同じ崖の下にはパルティア時代の浮彫が刻まれている。付属するアッカド語碑文によれば、ルッルビ国のアヌバニニ王が戦勝を記念して破った敵将を引き具してイシュタル女神の前に立っている図である。下部にはアッカド語の碑文が刻まれている。描かれた時代は紀元前三千年紀後半とも二千年紀前半ともいわれている。とりわけ、ビーセトゥーン浮彫のモデルと考えられているが、確証はない
という。

その図はイシュタル女神と向かい合うアヌバニニ王の足元に、敵がしっかり踏みつけられている。
サレ・ポレ・ゾハーブ(Sarpol Zahab)は、イラク、キルクークの南東170㎞辺りの町。

そして、ナラム・シーンの戦勝記念碑 アッカド王朝時代、前23世紀 高約2幅1.2m 赤色砂岩 スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、この戦勝記念碑はスーサから発見された。碑面には2種類の銘文が刻み込まれている。碑面上方の中央部付近にはかなり欠損してはいるもののアッカド王朝時代の銘が残っており、この記念碑がサルゴン1世の孫にあたるナラム・シーン(前2254-2218頃)がザグロス山中に住むルルビ族に勝利を収めたことを記念して作られたことを物語っている。その右手、山をかたどった上に刻み込まれているのは、前12世紀のエラム王シュトルク・ナッフンテのもので、彼がバビロニアに侵入した際、他の多くの戦利品とともにこの碑をシッパルの町から奪ってきたことを記している。これまでの浮彫りに見られた碑面を水平方向に何段にも仕切る線は姿を消し、斜め上方に向かう動きが、構図のなかに見事に組み込まれている。碑面頂部には神々のシンボルである天体が現れているが、そこに向かって全体が集約し、ダイナミックで堂々とした作品に仕上げられている。
この作品もまた、スーサに運ばれたナッフンテ王の略奪品だった。王は足下に敵兵の屍を踏み付けながら、誇らしげに武器を携えて軍の先頭を切って進んでいる。その姿は堂々としており、しかも写実的に表現されている。肩の部分は正面から見た格好をそのまま写しているが、その他の身体の各部分の描写には、側面または斜め前方から見た格好を取り入れている。目を側面から描出した浮彫りは、知られている限りではこの作品が最古であるという。
スーサに運ばれた略奪品についてはこちら
同書は、ナラム・シーンの姿は碑面中央にねひときわ大きく表されている。彼がかぶっている兜についた角飾りは一般には神のみがつけるものであるため、ここでは王に一種の神性を付与することとなったという。
敵兵の2名の遺体は、地面に横たわるのではなく、頭部と胴体がX字形に交差して宙に浮いてしいて、王の左足を置くためのもののようで、これもまた、王の神性の現れの表現とも思える。

アッカド王朝時代の浮彫り断片 前23世紀 イラク、ラガッシュ(テッロー)出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、王の名前は欠損してはいるものの、サルゴン1世の後継者であるリムシュ(在位前2278-70頃)ではないかと思われている。碑には表裏両面にわたって戦闘の場面が繰り広げられている。人物の動きはさらに多様化し、動作は軽快で、人体表現に写実的傾向が強まってきているという。
ここでは箙を背負い、矢を引く人物が王ではなさそうだが、その下元に敵兵が倒れている。

エアンナトゥムの戦勝記念碑(禿鷲の碑)部分 初期王朝時代3期、前2500年頃 イラク、ラガッシュ出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、ラガッシュの君主であったエアンナトゥムの戦勝を記念する浮彫りと、彼の事蹟を物語る碑文とが、表裏両面にわたって刻み付けられているこの大型の石碑は、一名「禿鷲の碑」とも呼ばれているという。
同書は、エアンナトゥムは兜をかぶり毛皮を身に着け、右手に武器を持って立ち、その後方には武装した歩兵の集団が続いている。兵士たちは一様に兜をかぶり盾と槍で身を固めているが、それぞれの頭、足、盾や槍を持つ手を引き出し、観念的に組み合わせた表現がなされている点が注目される。
歩兵の足下には蹴散らされている敵兵の姿が見られるという。
ひじょうに断片的だが、積み上げられた兵士の屍が埋葬されようとする場面と思われる。君主がこの場面にも登場していることが、わずかに残っている足先から判明するという。
王自身の足下にも敵兵の遺骸が2体横たわっている。

このように、王が直接敵を踏み付けているのではないが、兵士が踏み付けたり、王の足下に敵の屍が横たわっていたりする戦勝記念碑というのは、メソポタミアでは古くからみられるものだが、王自身が敵の遺体を踏むというのは、アケメネス朝のダリウス1世の戦勝記念図が最初かも。
そして、それがサーサーン朝の戦勝図へと受け継がれていったのだった。

関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫
スーサの出土品2 エラム時代の略奪品

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫サレ・ポレ・ゾハーブ

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

2017/10/17

ブルジュルドのマスジェデ・イマームとマスジェデ・ジャーメ


マスジェデ・ジャーメだと思って行ったマスジェデ・イマームで、若い女性建築家が、マスジェデ・ジャーメはもっと向こうにあると言っていたのが気になって、ホテルに戻って『GANJNAMEH6』と『GANJNAMEH7』を開いてみた。
それで、見学したのは、マスジェデ・イマームの方だったことがわかった。
マスジェデ・イマームは『GANJNAMEH6』に、マスジェデ・ジャーメは『GANJNAMEH7』に記載されていた。
Google Earthより

見学したマスジェデ・イマームについて『GANJNAMEH6』は、西イーワーンの銘文に1209年と記されていて、それがこのモスクで最も古い記録の残る年である。カジャール朝期のこの町の統治者の1248年の署名があるという。
それぞれ西暦で1795年と1833年。古くは見えないタイルも、修復だろうと思って見ていた。

中庭から西イーワーンと、出入りした北イーワーン。
主礼拝室と東側礼拝室
同書は、マスジェデ・イマームの紀年銘はカジャール朝期だが、様々な時代に修復が行われているという。
小さいながら、昔から町として存続してきたので、カジャール朝以前からモスクはあったはず。修復によって紀年銘が消えたり、元々なかったりすることもあるのだろう。


平面図
東側礼拝室は、中央に並ぶ3本の円柱と、両壁から少し出ている程度の付け柱とで3つのドーミカル・ヴォールトが架かっている。
3本の円柱の内、奥の1本は焼成レンガで補強されている。
この円柱は珍しく石でできているので、転用材かもとも思ったが、本来はムカルナスを持ち送って迫り出していいるはずの柱頭が、ムカルナスらしさは失われているので、あまり古くはないかも。
イルハーン朝(14世紀前半)のドーミカル・ヴォールト。青タイルが、十字に組み合わせられていたりして、まだ色タイルが貴重な時代のようにも思える。
主礼拝室のドームはそれほど古くはなさそう。
頂部の明かり取りは、黒と青のタイルでリブを装飾したアーチ・ネット。
同書の図版
正方形の床から四隅の2面の壁面が、上部でその頂点に向かって、2枚のムカルナスの曲面となってせり出している。そうしてできた8つの尖頭アーチの上に円形を導き、ドームを架けている。
これは、サファヴィー朝のアッバース1世が建立した、イスファハーンのマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの主礼拝室の移行部がやや崩れた時代のもののようだ。
三次元投影図
チャハール・イーワーン形式で、北門と西門から出入りできる。

マスジェデ・ジャーメについて『GANJNAMEH7』は、サファヴィー朝アッバース2世の時代に建立された。西入口の上に1022年の銘文があるという。
この文を読んで1022年という数字だけが目に着いた。かなり古そうなので、行ってみたいと思ったのだが、英語版なのでヒジュラ暦だとは思いもしなかった。西暦1613年のことだった。他にも1092(西暦1682)年や1209年(西暦1795)年などの銘があるようだ。
こちらは、マスジェデ・イマームのようなチャハール・イーワーン形式(中庭に4つのイーワーンのあるタイプ)ではなく、簡素な造りである。金曜に人々が集まる町で最も格式のある会衆モスク Congregational Mosque なのに。


三次元投影図とは向きが反対だが、ずんぐりした一対のミナレットと、膨らみのないドームという素朴な外観。
同書は、記録と調査によって、このモスクの最も古い部分はドームで、後の修復で覆われている。焼成レンガの取り替えや補修が、9-17世紀に断続的に行われたことが判明した。モスクの最盛期はセルジューク朝時代(11-12世紀)である。主礼拝室の床下230㎝にある層が、イスラームの最初の世紀(西暦7世紀)の建物の痕跡の存在を示している。現在は焼成レンガの支柱と日干レンガのヴォールトで建てられている。主礼拝室と両側の副礼拝室は同じ地上レベルなので、同時期に建立されたことがわかる。西礼拝室の851(西暦1472)年と853(西暦1474)年のコインの発見は、礼拝室が9世紀(西暦15世紀)後半に建立されたことを裏付けるものだという。 
このドームやミナレットが後世の改築であるとしても、創建はアッバース朝時代に遡るほど古いものだった。
やはり創建がアッバース朝時代に遡る、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメを纏めた記事マスジェデ・ジャーメの変遷を参考にすると、ドームが出来るのはセルジューク朝時代前半(11-12世紀)で、ドーミカル・ヴォールトが架けられるセルジューク朝後期はまでは、礼拝室は平屋根(陸屋根)だったはずだ。
素朴な雰囲気だが、古いまま残っているのではない。
まさにこの図版のドーム架構を見てみたいと思ったのだった。おそらくセルジューク朝(11-12世紀)にドームが架けられたのだろう。
正方形の上に尖頭のスキンチアーチで八角形を導き、更に上にもスキンチアーチを用いて小さな尖頭アーチを16個とし、円形に近づけてドームを載せている。この移行部の造りの緻密さは一見の価値がある。
そして、焼成レンガの組み合わせで壁面を装飾している点も見逃せない。
主礼拝室の東側礼拝室はイルハーン朝かも。




関連項目
ブルジュルド(Boroujerd)のイマーム・モスク
マスジェデ・ジャーメの変遷

※参考文献
「GANJNAMEH7 CONGREGATIONAL MOSQUES」 1999年
「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年

2017/10/10

マーシュランドの葦の家


チョガ・ザンビールの遺跡に到着し、駐車場からジッグラトへと向かう途中に、チグリス河、ユーフラテス河の下流域マーシュランドに見られる葦の家のようなものが2つ並んでいた。
一家で住めそうな大きさだ。
側面は粗く風通しが良さそう。このような家屋は、これまで旅して日干レンガや焼成レンガの建物ばかり見てきた目には新鮮で、また、マーシュランドで見てみたいと思っていたものが、イランで見られて驚いた。
ガイドのレザーさんによると、この辺りはアラブ人が多く住んでいるのだという。

葦の家については、2000年頃にNHKで放映された「世界四大文明」シリーズの番組で知った。メソポタミア文明の時代から住居となっていた葦の家に、現在も人々が暮らしているという。内部には部屋の仕切りはなかったように記憶している。

何故メソポタミア時代に、葦の家に住んでいたことが分かるのかというと、浮彫に残っているからだ。

神殿奉納用の飼い葉桶 前3000-2800年 アラバスター 高16.3長103幅38㎝ イラク、ワルカ(ウルク)出土 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、ウルク出土のこの「飼い葉桶」は、この町の女神でシュメール世界でもっとも人気の高かったイナンナの神殿に奉納されたものと考えられている。表面に施された浅浮彫りの図柄は、中央に蘆葦類を束ねて作った小屋を、その左右に山羊、羊を、左右対称となるように配している。ここに見られるような小屋は、現在でもイラク最南部の沼沢地域で見られるものであり、前3000年ころからずっと人々の住居として、また家畜小屋として利用されてきた。小屋の屋根から左右に突き出し、また浮彫り面右端にも見られる吹き流し状のものは、女神イナンナの象徴と考えられており、この時期のいくつかの浮彫り、円筒印章などにも見られる。左右の側面もこの吹き流しが姿を見せており、それと羊、ロゼット文様が、背中合わせに左右対称に配されているという。
側面には8弁の開花した花を、まだ完成されてはいないが文様として表していて、ロゼット文という文様の古さを知る手掛かりとなる。
また浮彫の葦の家は、人々の住まうためのものではなく、神殿なので、吹き流しというものが立てられているのだろうか。
あるいは、現在の葦の家の長い円柱状のものは、古い時代の吹き流し状のものが、簡略化されたものなのかも。
でも、葦の家から子羊が出てきて母羊を迎えているようでもあり、これは家畜小屋を表したものとも思える。

葦の家が表されている円筒印章の印影も見たことがあるはずだが、探しても見つからなかった。見つかればこの記事に貼り付けます。

    スーサの出土品2 エラム時代の略奪品

関連項目
チョガ・ザンビール(Tchoga-Zanbil)1 中壁東隅の神殿群

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 西アジア」 1999年 小学館

2017/10/03

スーサの出土品2 エラム時代の略奪品


『メソポタミア文明展図録』は、北西セム語族アムル人は前2100年頃から徐々に南メソポタミアの都市に侵入しつづけていたが、シュメール人、アッカド人に替わってついにラルサ王国、さらにはバビロン第1王朝を築くことになる。
カッシート王朝の終末、前1150年頃、エラムの王シュトルク・ナフンテ1世のメソポタミア侵入によって、各都市が破壊され、多くの神像やモニュメント等の戦利品がスーサに持ち去られた。その中にハンムラビ法典、ナラム・シンの戦勝碑などもあった。これがその後の1901-02年フランスのJ・ド・モルガン等のスーサの発掘調査によって再び発見されたという。

ハンムラビ王の法典 バビロン第1王朝第6代ハンムラビ王期(前1792-50年) スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、ハンムラビ王は先ず国内の治水工事や灌漑用水路などの拡充、神殿の建設や修復などに力を注ぎ、そしてメソポタミアのエシュヌンナ、エラム、マリ、ラルサなどを制圧し、統一を成し遂げた。前1763年のことである。そしてその数年後、前1760年ころにハンムラビ法典を制定した。
石碑の上部には左側にハンムラビ自身が恭しく右手を挙げて神を拝しており、右側には正義の神である太陽神シャムシュが神のシンボルである4段の角の冠を被って、王座に座っている。そしてシャムシュの右手は支配と主権を表す輪と杖をハンムラビに授けようとしている。
ハンムラビ王によってメソポタミアの統一し、公正で弱者を守るという正義を掲げたバビロン王朝であったが、ヒッタイト王国のムルシリ1世の突然の攻撃によって、前1595年、首都バビロンは破壊されたという。
太陽神は肩から光または炎を出して、左手は拳を握り、右手だけで小さな環と短い杖をハンムラビに差し出している。
ハンムラビは左腕を折り、その上に右腕を置いて掌を立てる。これが神を拝む形。
ゾロアスター教のサーサーン朝では、杖とリボンの付いたディアデムが王権神授図には必ず登場する。それは、このメソポタミアの伝統が継承されたからだろう。

アルダシール1世(初代、在位224-241年)
王権神授図(騎馬叙任式図) 縦4.28横6.75m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、画面構成は左右対称的で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同じく騎馬のアフラ・マズダー神を描写している。帝王は王位の標章たるディアデム(リボンのついた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙の象徴)を戴いている。神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(ゾロアスター教の聖枝)を持ち、右手には正当・正統な王位の標識たるディアデムを持ち、帝王に授けようとしている。帝王と神の服装はほぼ同一で、長袖の上着を着、眺めのパンタロンをはいている。その襞は自然らしさに欠け、装飾的である。帝王の背後には払子を持つ小姓が立っているという。
メソポタミアのものとの違いは、環(ディアデム)に長いリボンが付いたこと、杖は神が左手に持っていて、王に授けるのは環だけ。その後もサーサーン朝の王権神授図には、アフラマズダ神がリボンの付いたディアデムを王に授ける場面が表される。
とはいえ、サーサーン朝に先行するアケメネス朝やエラム時代の王権神授図は、文献でさえ見たことがない。浮彫などに表されてはいないが、儀式としては、王朝を超えて受け継がれてきたのだろうか。
同書は、前12世紀、エラム王たちの略奪した他のモニュメントとともに、クドゥルがいくつかスーサに運ばれたという。

ナジマルタシュのクドゥル カッシート王朝(バビロン第3王朝)1328-1298年頃 石灰岩 高36㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
左の面に登場するのは、カウナケスを身に付け、玉座に坐る4段の角の冠を被る女神で、その上に太陽、三日月、星が大きく表されている。

王メリシバク2世の大クドゥル(部分) カッシート王朝、メリシバク2世期(在位前1185-71年) 黒い石灰石 全体高83幅42㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、カッシート人の導入したクドゥルは、王の土地贈与を証明するものであり、不規則な形の石、通常は光沢のある黒い石灰石をカットしたものに記載された。これらクドゥルは公文書であり、クドゥルによりカッシート王たちは近親者や宮廷高官に土地を授与し、彼らの歓心を買った。土地贈与を公認する神々は、大半はカッシート王朝の採用したメソポタミアの神々だが、たいてい各神の象徴が石の上に描かれた。クドゥルは、大部分神殿内部で発見された。おそらく王の定めた土地区画に沿って設置した境界石の複製であろう。それらはメソポタミア南部では前7世紀まで使用されたという。
同書は、刻まれた文書は、メリシバク2世の娘への土地贈与と用水路の修復を伝える。平面上では、1場面が低浮彫で描かれ、この不動産取引を認証する神を介在させる。口の前にかざした手で敬虔な祈りを表しながら、王は腕をとった自分の娘を、迎えの仕草をするナナらしい女神の傍に導く。星の三大神の象徴が場面の上方に張り出している。すなわちイシュタルの星、シンの三日月、シャムシュの日輪であるという。
太陽はシャムシュ、三日月はシン、星はイシュタルの神の象徴だった。
王は左手で娘の手を引いているので、右腕だけを折って、掌を立てている。
ナナ神と王の間に香炉が置かれている。
蛇足だが、ナナ女神の座る玉座の下の台は獣足になっている。

王メリシバク2世のクドゥル 前1185-71年頃 黒い石灰石 高65幅30㎝ スーサ、アクロポリス出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、石の面の一つに刻まれたアッカド語の長い文書は、王メリシバク2世が息子たちに土地を譲渡したことに関する条文である。他の面には5段に、この行為の保証者である神々の象徴や属性が描かれている。
最上段には、メソポタミアの主要な神々が認められる。左から右に、まず神々の父で天の神アヌとその息子で「風の主」エンリルが、2人とも台の上の角付き冠で表され、次にもう1人の息子で知恵と深淵の神エアが、雄牛の頭部で表される。彼の脇にはおそらく「山の女王」母女神ニンフルサグがいる。頂部には星の三神の象徴が鎮座する。すなわち月神シンの三日月、愛と戦いの女神イシュタルの星、太陽神シャムシュの日輪である。
クドゥルの最下段には地下の冥府の神々に結びつく角のある蛇と蠍が描かれているという。
このクドゥルにも星の三神の象徴が表されている。

エラム人の王が略奪した石碑頂部 前12世紀 玄武岩 高64.5長さ41㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、神による権力の印の委譲というこのテーマは、前3千年紀末以来メソポタミアではよく知られており、バビロニアのハンムラビ法典のものが殊に有名である。この石碑では、神の印である角付き冠を被った神が、手にもった権力の象徴である環と棒を手にし、王の即位を承認する行為としてこれを王に差し出す。日輪と三日月が場面の上部に張り出す。彫刻の全く宗教的な作風は前12世紀のカッシートのバビロニアでの制作を思わせる。
しかしエラム人の王たちは、メソポタミア史の証拠をスーサに集めるだけでは満足せず、自分たちのために利用しようとした。これによく似た作品(ルーヴル美術館蔵)では、神の前で祈るメソポタミアの王はエラムの王の姿に彫り直している。この石碑では置換作業は完了しておらず、まだ元のメソポタミア風の輪郭が、かろうじて素描された新たな輪郭の下に認められるという。
カッシートから様々なものを略奪してきたシュトルク・ナフンテ王、あるいはその後のエラム中王国時代の王は、境界石に表されたカッシートの王の姿を自分の姿に替えるということを行った。この時点で、エラムに王権神授図というものが成立したのだろう。
また、この図では、星の三神の象徴が一つずつ表されるのではなく、三日月の上に太陽がのり、太陽の中に星が表されている。

クセルクセス1世(前486-465年)の摩崖墓 ナクシェ・ロスタム
王権神授の場面右上に、うっすらと丸いものが浮彫されている。
厚い三日月の上に薄い満月が出ているようで、星の三神の象徴ではなくなっている。それは、アフラマズダ神が有翼日輪から姿を表しているからだろう。
そして、アフラマズダ神は左手に環を持つだけで、杖は持っていない。

アルタクセルクセス3世(在位前358-38年)の墓
『GUIDE』は、上翼に宗教的な場面が表される。「ペルシア風」服装の王は3段の台に立ち、やはり3段の台に置かれた高い祭壇の上で燃え盛る王家の火と向かい合う。各王は戴冠式で火を付けた。それは統治のシンボルで、王が亡くなった時にのみ消された。王は弓(イランの国家的な武器)を片手に持ち、讃美の所作でもう一方の手を開いて聖なる火に伸ばしている。
その上に王家の栄光(有翼の王の胸像)が浮かび、片手で輪(統治の象徴)を持ち、祝福のしるしでもう一方の手を開いて王に向けている。右上方に、新たに昇った月、分厚い三日月と薄い満月で表しているという。
やはり、アケメネス朝の摩崖王墓には、太陽はない。『GUIDE』は、王家の栄光(有翼の王の胸像)としているが、ゾロアスター教の最高神アフラマズダが、有翼日輪、つまり太陽から姿を現しているからだろう。
アフラマズダは環だけを持っているが、左で立つアケメネス朝の王は、左手で弓を杖代わりにし、右手は神を礼拝する仕草というよりも、環を受け取るために、アフラマズダの方に伸ばしている。
有翼日輪の起源についてはこちら
以前、アケメネス朝美術について、アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成という記事を作ったが、今回もまた王権神授図が西アジアに由来するものであることがわかった。
しかし、アケメネス朝の浮彫にはなかった杖が、サーサーン朝の初代の王アルダシール1世の王権神授図にのみ描かれているのは何故だろう。


     フーゼスタン州のパルティア美術

関連項目
スーサ3 博物館
スーサの出土品1 釘頭状壁面装飾はエラム
スーサ2 エラム時代の宮殿まで
サーサーン朝の王たちの浮彫
アケメネス朝の王墓
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成

※参考文献
「世界四大文明展 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館