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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/01/31

白衣観音図1


京都の住友泉屋博古館で16年秋に開催された「高麗仏画展」では、白いヴェールを被った菩薩、特に観音菩薩像が印象的だった。それらは「水月観音像」と呼ばれていて、同展図録は、水月観音の名は、すでに9世紀の敦煌仏画のかたわらに「月観音」という表記が見られるという。
水月観音図についてはこちら
しかしながら、岩陰に佇む観音といえば、白衣観音が思い浮かぶ。 日本では禅宗仏画として水墨画で白衣観音図が描かれてきた。若い頃は私もそのつもりで見てきたので、高麗仏画の華麗に彩色されたたくさんの水月観音図に「高麗仏画 香りたつ装飾美展」で出会って、まずは驚いた。

『日本の美術69初期水墨画』は、禅宗仏画の中では白衣観音図が最も多く、楊柳観音・如意輪観音などがこれにつぐ。しかし通常の白衣観音の姿は儀軌には説かれておらず、おそらく唐代以降の像容であろう。一方楊柳観音も右手に楊柳の枝をもつ古い姿はみられずに、楊柳瓶をかたわらに置くものの全体の相としては白衣観音図に近い。同様に如意輪観音も通常の六臂には描かれずやはり似た姿になる。また三十三観音の中に滝見観音という相があるが、この要素も白衣観音の図容に含まれる場合が多い。これらのことを総合して考えると禅宗では儀軌は問題にせず、観音菩薩のもつ慈悲と力を白衣観音の姿に包括して表したものと解した方がよかろう。そこで像容の近い観音図を年代順に並べて一覧すると次のようになるという。
なんと、いつものように図版を年代を遡るあるいは順に並べるという手間をかけずに済んでしまった。

如意輪観音図 1300年ごろ 絹本着色 鏡堂覚円賛 岡崎市大樹寺蔵
同書は、金泥で壮厳された豪華な宝冠、身にまとう薄衣も褐色と緑青の彩色に細かい波形文などの金泥が施される。肉身の輪郭線には朱線が重ねられるなどほぼ伝統的な仏画の手法によっている。しかし岩の描写は上面を表地のまま残し、稜線を明確に引いて立面に濃墨で彩る手法は水墨画的な技法といえる。鏡堂覚円(1244-1306)は子学祖元とともに来日した高僧で建仁寺16世。
むしろ旧来の仏画の範囲にはいる像容と金泥彩色をもつがわずかに当たりのある墨線と薄墨の隈を用いる像と墨だけで描かれた岩石は、単に宋元画を学んだ仏画という以上に水墨画的趣致が観取される。しかも岩石の皴と墨暈の技法は一山賛の達磨図のそれに近似しており、時代の近さを表しているという。
こちらは白衣観音と水月観音の中間のような描き方で、日本の仏画とは雰囲気が異なる。鏡堂覚円が来日した時に画僧も連れてきていたのかも、その画僧が日本の僧か画工に描き方を伝授して描かれた作品かも、と想像させる。
 
白衣観音図 1317年以前 絹本墨画彩色  一山一寧賛 京都光明寺蔵
同書は、彩色を伴う図で、観音の姿も小さく穏和で、樹石の表現にもさほど水墨画的趣致はみられない。左上方に濃墨で枯木を描き、胡粉で彩色された小鳥が描かれるのが珍しい。
図上方に枯木と一羽の小禽を描くのが新味といえようか。しかし像の表現はまだ線的ではないという。
破損箇所が多いので、白い小鳥と傷が見分けられない。もっとも、記載された文献が古いので、現在では修復されてよくわかる可能性はある。
この観音は大きな円光に包まれていないのでは?しかし、下の弧線は見えているような。
 
白衣観音図 1320年以前 絹本墨画 約翁徳倹賛 奈良国立博物館蔵
同書は、細身の観音が淡泊な線描で表され美しい。左端に滝を落とし、右上方に雲烟のなかに竹叢を描いて巧みに調和を保つ。墨の濃淡を主にした岩や竹、地塗りによって円光部を浮かびあがらせる描法はきわめて水墨画的なものといえよう。約翁徳倹(1244-1320)は蘭渓道隆の高弟で建仁・建長・南禅に住したという。
白衣観音図を取り巻く自然や童子など、高麗仏画の水月観音図と共通するものがほぼ網羅されて描かれている。

白衣観音図 1329-42年 絹本墨画 黙庵筆 平石如砥賛
同書は、遙か前方に一条の落瀑を見る懸崖の下、岩上に白衣の観音がゆったりと描かれる。簡単な描線のなかにかくされる観音が軽やかで、これに呼応するように岩や崖が柔らかい潤いのある筆致で描かれるのが好ましい。岩の下方に墨色が薄れるように潑墨の技法が用いられることなど、元画に負うところが多い。平石如砥は無準師範の法系に属し、わが国にも名が聞こえ、天童山で黙庵が学んだ僧であるという。
滝は残っているが、童子も、水瓶も消えてしまった。滝を見ながら頬杖をついて、観音さん、和み過ぎ!
 
白衣観音図 1344年以前 黙庵筆 了庵清欲賛
同書は、上図とほぼ同じ形の図である。少し観音の姿が近くなり、滝の替りに遠山が配される。像の筆致はさらに柔らかで丸味をおび、岩と崖は水気の多い筆で没骨風に描かれる。ここでも遠山が図の奥行きを深めていて、景観的な表現を行なっているのが黙庵の観音図の特色になっている。了庵(南堂)清欲は古林清茂の法を嗣いだ元僧で、本覚寺に住した時に黙庵が参禅しているという。
滝もなくなり、寝そべった観音の目の先には何があるのだろう。同時代の白衣観音図と違っている。
同書は、黙庵画の特徴はさらに像の扱いを景観的にして、瀟洒な図に仕上げていることである。黙庵の作品は総て彼地で描かれたものであり、そのために少し古様な可翁画などとは違って当世風の元画に近くこの意味では日本の初期水墨画の系列に入れると実際年代よりは新しい感覚で描いたような印象を与えるという。
そういうことだったのか。それにしても、この幅は、横線はあるものの、上図のような縦線が見られない。絹本ではなく、紙本だったのだろうか。
 
白衣観音図 1345年以前 絹本墨画 可翁筆
同書は、約翁本と図容・画風が非常に近い。童子が描かれず、竹叢が崖と枯木に代わっている。岩の線描が少し強調され、点苔がふえることと雲烟が希薄になって透明度がふえる点に水墨画的な発展をみることがてきようか。観音を非常に近くにおいて描き、明確にその姿を表そうとしているのは牧谿画などにも通じる趣があり、可翁の比較的早年の作であろうという。
波頭なども丁寧に表されている。あの寒山図を描いた人物の作品とは思えないが、水墨画を学び始めた頃に、手本を忠実に写したものと思えば納得できる。
  
白衣観音図 1352年 絹本墨画 徹翁義亨賛 大徳寺真珠庵蔵
同書は、端正な顔の描写と細かい毛描き、反転しながら流れる白衣のうちにすぐれた肉体描写がみられるが、景物の表現は疎い。岩や滝、樹木など景感に乏しく、骨法に欠ける点は、技法的には旧来の仏画師による作であろう。徹翁義亨(1295-1369)は大燈国師をついだ大徳寺第2世。
正平7年という時点での墨画としては旧来の仏画的要素を残した作品で、煩瑣な曲線が目立つという。
上方の岩や滝と、下方の天衣の長々と垂れる雰囲気とが合わない。
 
観音図 1361年ごろ 絹本墨画・金泥 良全筆 東京国立博物館蔵
同書は、宝冠と瓔珞に金泥の色どりがみられるほかは墨一色であるが、焦墨主体の墨色に、潤い、表情がみられない。像容も旧来の観音図そのままでけっして禅宗仏画としての特徴を示しているとはいえない。その意味では騎獅文殊図などとおなじ趣向をもつ仏画的な図といえよう。
そして小さい滝と背後に山と本格的な松樹が描かれる点は、大樹寺本と50年ばかりの間の展開と方向を如実に物語っている。
像には当たりの強い細線を用い、背景の没骨風の描写は山水図の趣致をもつ。像容ともに白衣観音図のバリエーションの一つであるという。
観音は古様な作風で、下の岩の怪異さとが目立って、蓮華座に坐しているのに気付かなかった。
 
白衣観音図 1361年以前 絹本墨画 良全筆 乾峰士曇賛 一宮市妙興寺蔵
同書は、上図に比べてこの図はまったく水墨画的な要素をもつ。像の輪郭線、柔らかい顔の描線、リズミカルな波、濃淡であらわされる岩の量感などは同一筆者によるものとは思えないほどの差がある。しかし像そのものの正面向きの端正な姿はやはり旧来の仏画に通じるものである。良全の技法のさえと幅の広さを物語るすぐれた作品であるという。
これまで見てきた作品では、観音は突き出た岩に坐っていたが、本図ではその岩の先端に右肘をつき、奥の低い岩に坐している。これではみずしぶきがかかるのではと心配。

だが、観音は左手に茶碗をのせ、右手で茶筅を振っている。着物が濡れることは構わずに、無心に抹茶を点てているのだ。しかし、その小振りな茶碗は天目形ではない。しかし、肘を台につけてお茶を点てるのは難しいと思うが・・・

白衣観音図 1364年以前 絹本墨画 古源邵元賛 正木美術館蔵
同書は、肘かけのような岩によりかかる、図容的には新しい図で、像には当たりの強い線を用い、背景は面的に墨色を生かす対比をみせる技巧性をもつ。線と面の意識が明確に持たれているのは新しい展開といえよう。古源邵元(1294-1364)は双峰宗源の法嗣で東福寺25世という。
1361年に良全が描いた上図と同じく、後方の低い岩に坐り、前方の岩に両手をついて寄りかかっている。その寛いだ姿勢は、1344年以前に、黙庵が中国で描いた観音に似ている。黙庵は帰国を果たさずに没したというが、その新しい様式が入ってきた頃の作品だろう。
でも、これは白衣とは思えないのだが。

白衣観音図 1370年ごろ 絹本墨画 愚渓筆 大和文華館蔵
同書は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
そして水甁ではなく、鉢が置かれている。お茶を点てるには大きすぎるなと思って拡大してみると、一枝の楊柳が無造作にのせてあるのだった。

ところで、白衣観音図といえば牧谿の「観音猿鶴図」の中幅である。

観音図 南宋末元初(13世紀) 絹本墨画 京都大徳寺蔵
同書は、東洋の水墨画の極点ともいえる。完璧な構図、豊かさ、墨を重ねて表わす質量感、わが国の水墨画がつねにめざしたのがこの図のもつ形であり技法であり、内奥に極める精神性であった。牧谿は中国の画史にほとんど名をみせず、元の夏文彦が粗放にして古法なしと評したが、わが国ではとくに室町朝以降牧谿を単に和尚の絵と称するほど愛好したが、遺作をみる限りこの評価は間違っていない。そしてこの時代の黙庵や可翁が牧谿を学んだことはさらに見識があったといえよう。
深い山中の流れに臨む岩上に静かに結跏する観音の姿は華麗な線描と潤いのある淡墨を幾重にも重ねて表わす物量感によって、見事に安坐する。極端に軽やかな体軀を思わせる白衣の描写はともかく、構図的には完璧に近い安定感をもち、岩や崖や樹枝の背景描写も全く過不足がみられないという。
『世界美術大全集東洋編6』は、三連幅が牧谿によりいつごろ、どんな目的によって描かれたものか明らかではないが、率意に(心に任せて)描かれたものではなく、どこかの寺院の公的な使用のために描かれたことが想像される。落款に「謹製」とみずから記したように、仕上げもきわめて綿密であるという。
水面の描写は、絹地の緯糸ではないかと見紛うばかりに穏やか。
この観音も円形の敷物の上に坐している。一見、ゆったりとした着衣に惑わされるが、観音の髪、宝冠、螺旋状の耳飾り、首飾り、下着らしい布が、赤いという僧衣の下からのぞく様子、そして僧衣の円文などが精密に描き込まれている。
あの浄瓶は注口が後方に向けられているのか、それともないタイプのものだろうか。この浄瓶が定窯の白磁であってほしいな。

牧谿以前の白衣観音図を一幅。

白衣観音像軸 南宋時代(12世紀中頃) 絹本着色 直径41.2㎝
『世界美術大全集東洋編6南宋・金』は、円相内に描かれた観音の全身は宝髻の上から全身を白衣で包まれ、蓮華座上に結跏扶坐している。画風の点では類例に乏しいものの、円相の白衣観音図は本図のほかに元時代(1271-1368)の平石如砥(1268-1357)賛「観音図軸(東京国立博物館)などがある。これらはともに北宋時代(960-1127)末の文人画家、李公麟(1049?-1106)によって描かれた白描画の白衣観音像を意識したものである。李公麟は自在観音を描き、破坐ではなく結跏扶坐に自在の精神の境地があると主張している(南宋・鄧椿『画継』巻3)。
両図は肥痩のない細墨線を駆使することで。着色画ながら白描画のような印象が強調されている。とくに絹本の本図は、施された賦彩は全体に淡彩で裏彩色が用いられており、衣文線にはそれと同様に細い白線を沿わせている。蓮華座の蓮弁の描写は、同時代の本格的な着色花鳥画のそれに通じるもので、画家の技量のたしかさと時代性を示している。つまり、本図の前提には南宋時代(1127-1279)前期の士大夫らの趣向の反映が顕著に見られ、禅余画僧とも職業画工とも異なる高い技量と洗練された感性があったとみなせようという。
蓮華座に結跏扶坐しているが、淡い背景には、観音の背後に樹木、前方に竹を思わせるものが描かれていて、他の白衣観音図と同様に自然の中で坐しているらしい。





関連項目
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール

※参考文献
「水墨美術体系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館 

2017/01/27

伝貫休筆羅漢図


禅月大師貫休という文字を久しぶりに目にして、あの怪異な顔貌の羅漢図を見たくなってた。
『水墨美術体系第三巻牧谿・玉澗』(以下『水墨美術体系第三巻』)は、今日、禅月大師貫休に関係づける羅漢画には、2つの系統のものがある。一は御物として伝わる信州懐玉山羅漢といわれるもの、二は本図はじめ諸家に分蔵される水墨画の羅漢である。それら現存のものはいずれももとづくところがあるものであるが、現在、主として貫休画として考えられるものは、後者の一群である。彼の画いた羅漢は、ふつう胡貌梵相といわれ、中国人の風貌と異なった怪奇な容貌が特色とされるが、その奇怪さは面相にとどまらず、粗放逸格な画風にも関連していたようである。中唐頃には山水画を舞台にはじまる逸格な水墨画は、五代になると人物画の領域にひろがる。
五代蜀の詩画僧禅月大師貫休といわれる「羅漢図」には龐眉大目、胡貌梵相といわれる奇怪な風貌と、粗放な水墨画法になる一群の作品が今日伝わっている。それらは、李龍眠様といわれる温和な風貌と、着色になる羅漢画と対照的に禅月様と称されているが、北宋以前にさかのぼる古いものはなく、現存遺品は禅月様羅漢としてパターン化された職人画工の作品であるという。

羅漢図第五尊者諾距羅(なくら) 南宋時代 伝貫休筆 絹本墨画 縦112.0横52.4㎝ 掛幅 東京根津美術館蔵
同書は、本図も「二祖調心図」同様、真筆ではなく、南宋頃の制作になるものと思われるが、この枯木や衣文にみられる筆墨は、原初の荒荒しさを失ってはいるが、容貌の怪異さとともに、禅月羅漢の面影を伝えるものと思われるという。
禅月様羅漢図は、顔の怪異さが印象に残っているが、樹木の表現も強烈である。

十六羅漢図(三幅のうち) 南宋時代 伝貫休筆 絹本墨画 縦109.1横50.2㎝ 掛幅 大阪藤田美術館蔵
同書は、本図もそうしたものの一つである。図の衣文や背景の樹木の描写には、写しくずれたと思える意味不明の部分や、本来自然な筆墨の動きが作り出す墨のひろがり、かすれなどの偶然的な要素を、意識的に再現しようとしているふしがみえる。いわば、禅月様羅漢を一つのタイプとして再現しようとした作品と考えられる。なお根津本と本図とは、描写技法からみて同一セットのものとする可能性が強いという。 
羅漢図、三幅のうち 南宋時代 伝貫休筆 絹本墨画 縦109.1横50.2㎝ 掛幅 大阪藤田美術館蔵
同一セットとは、同じ画家が描いた作品が16巻日本に将来されたものということ。確かに着衣や樹木の筆遣いには共通するものがある。それでも、怪異な顔貌は、それぞれに特徴がある。私の脳裡に刻印されている、伝貫休筆の羅漢さんは、どの顔だったのだろう。

『世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏』は、奇怪な容貌の羅漢に自画像とされる温顔のそれを配する典型的な(伝)貫休「十六羅漢図」のほか、線描の区分法にかかわりのない特異なものに、「羅漢図」などに代表される、禅月様水墨羅漢と称される一群の羅漢図がある。石恪「二祖調心図」(東京国立博物館)と同様に、四川において頂点をきわめた、いわゆる逸恪人物画を継承し、面貌の精緻な墨線と衣紋の粗放な墨面とを対比させ、線か面かの絵画性を端的に呈示するこれらの作品群は、面貌の墨線が精緻であればあるほど、墨画の粗放さが際立つ一方、視覚的な連想なより衣紋の表現であることがわかるという。

『水墨美術体系第三巻』は、禅月大師貫休の作品と称する遺品は、むしろ数の多さによって我々をとまどわせる。何故このように伝禅月羅漢図が多いかということがまず問題になるが、その答えは先学の研究によってすでに与えられている。小林市太郎氏によれば、禅月の羅漢図は宋時代を通して雨を祈るために用いられたものである。従って、この用途のための模本が、すでにかなり世に流布していた。現在のこるこのような作品のうち原本は禅月の真作であろうと考えられるのが、御物の禅月筆十六羅漢である。この御物本十六羅漢は古く鎌倉末より金沢文庫に伝わったが、明治時代に高橋是清の所有するところとなり、さらに献上されて御物となったという来歴をもつという。
模本の模本ではなく、真作の模本ということか。

十六羅漢図第十一尊者囉怙羅(らこら) 原本・五代(10世紀) 絹本着色 縦92.2幅45.4㎝ 御物、宮内庁蔵
同書は、御物本の十一尊者は、他の各幅が奇怪で現実ばなれした容貌の羅漢を描いているのに対し、短軀で肥満していたといわれる禅月その人の面影を伝えるかのように実在のモデルに拠ったとしか考えられぬ生々しさをもち、特に青々とした濃い口髭のあたりの描写は印象的であるという。
確かに、上の3点とは全く異なる図である。
十六羅漢図第十四尊者伐那婆斯 原本・五代 絹本着色 縦92.2幅45.4㎝ 御物、宮内庁蔵
こちらは、上の3点とも、御物の十一尊者図とも異なる描き方だ。

『世界美術大全集東洋編5』は、このような逸品画風は、人物画としては、あくまで傍流にとどまるものの、南宋に入って再興され、梁楷「李白吟行図」(東京国立博物館)などに結実を見るほか、禅宗絵画で盛行する。上記の羅漢図なども、その時期の模本か、模古作と解されるという。

二祖調心図 南宋時代(13世紀) 伝石恪筆 掛幅 紙本墨画 各縦35.4幅64.2㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第三巻』は、画中には、多くの館蔵印と、制作年代を明記した作者の落款がある。しかし、これら印章や落款の適否、制作年代の矛盾の問題、画題内容と画中人物との関係などは、不明な点が多く、いずれの解答も想像の範囲をでないが、もとの原状が画巻であったとする点は、多くの人人が一致している。
作者石恪は、字は子専、蜀の人で、蜀滅亡後宋都にきて、壁画制作に従い、両院の職を授けられたが奉職せず、蜀に帰ったという。その画は筆墨が粗放でも面部や手足のみに画法を用い、衣文は粗筆をもって作るといわれた。本図にみる描写形式は、その記述とひとしい。中唐にはじまる逸恪水墨画は山水画を舞台にしていたが、五代宋初には人物画の領域にひろがった。本図の衣文描写にみる荒々しい筆墨は、成立当初の水墨画の粗野な荒々しさをよく伝えているという。
後蜀が滅亡したのが965年なので、石恪は10世紀の画家。
着衣を表す「荒々しい筆墨」や「粗野な荒々しさ」という言葉の方が、この作品に対して荒々しいように思う。こんな素早い描き方で、衣や人体の膨らみがよく表現されていると、ただただ感心するのみ。

李白吟行図 南宋時代(13世紀) 梁楷筆 掛幅 紙本墨画 縦80.8幅30.4㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第四巻梁楷・因陀羅』は、この図は梁楷減筆体のうちでもっとも徹底した作であって、「罔両画を核とする新しい絵画的ヴィジョンと、宮廷画家としてのオーソドックスな技倆の接点に位置する傑作」(第三巻「牧谿序説」)である。遠くを望み見ながら緩歩吟詠する唐の詩人李白を、きわめて僅かな筆致で真横向きにとらえている。潤いに富み濃淡の滲みの効果を駆使した水墨画的技法と、焦墨と渴筆を用いた鋭い筆法とが照応合体し、微風をはらむひろやかな衣服をあらわす曲線的な筆づかいと、顔面頭部の直線的筆致とが対照の妙を見せ、三角形の鼻と、そとぐまで画かれた衣服前面中ほどの突出とが両者をつなぐ。裾のあたりのやや模索するような筆の運びに着目して、この図を比較的早期の作と見ることもできようという。
これが禅月様羅漢図のような逸恪水墨画の系統から出てきたものだとは。

          →白衣観音図

関連項目
高麗仏画展4 13世紀の仏画

※参考文献
「水墨美術体系第三巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術体系第四巻 梁楷・因陀羅」 川上涇・戸田禎佑・海老根聰郎 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館 

2017/01/24

裏彩色は中国から


『日本の美術401古代絵画の技術』(以下『古代絵画の技術』)は、絹地の表裏を使うということはどういうことかというと絹絵の裏からも彩色を加え、その絹表への現れ方を生かし、その上に線描きや彩色を加えて完成させるのである。この裏から賦彩された彩色を裏彩色という。
裏彩色は絹表の織物の特色である織目を生かすように賦彩し、彩色表現を完成させるのである。中国絵画の技術観では表からの彩色を薄くすることによって色料の発色を良好にし、重厚さと色料の鮮明さを兼ね備えた彩色表現が可能となると考えている。わが国の場合、表からの賦彩も厚く、裏彩色の効果が見え難い作品も往々見受けられるが、技術的原則は共通していると思う。このような彩色表現を行う場合、当然、裏彩色の色は表からの彩色を支えるためのものとして同系色で施工されることが普通である。
何故裏彩色のような複雑な手順をとって作画するのかということになるが、裏彩色は相当の量、即ち厚く層を成すように施される。裏彩色はその色が絹表に滲出しては絹表からの彩色に不都合である。裏彩色はこの裏彩色の表への滲出を防ぐ意味からも色料は濃い方がよいのである。勿論、裏彩色の表への滲出が色料を濃くするだけで防げると見るのは少々楽観的であり、おそらく更に別途防水加工が必要であったと考えるという。

出山釈迦図 絹本着色 南宋時代(13世紀初) 縦119.0横52.0㎝ 梁楷筆 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第四巻梁楷・因陀羅』(以下『水墨美術体系第四巻』)は、山林で苦行した釈迦が、劈開した岩の間から歩み出るさまを画く。面やつれし、頭髪もひげものびるにまかせて、沈痛な表情を的確にとらえ、枯枝のとげとげしい描写は、酷烈な苦行を象徴する。鋭く粘りのある筆致は、凛烈な印象を与え、図全体を岩山の面によって斜に切る放胆な構図の妙は、画面に動きと奥行きを生むという。
絹地が経年変化で変色しているのか、着色なのか、よく分からない箇所もあるが、遙か昔、水墨画に興味があった頃は、折角の水墨画なのに、何故着衣だけ赤く着彩しているのだろうと疑問だった。
『古代絵画の技術』は、色彩は用いられているが、その使用は限定されている。釈迦は髭茫々、着衣はぼろぼろである。着衣は赤であるのは仏教の規則に準った賦彩である。赤は朱で絹地の裏から施し、表には朱は一切施さず、墨線で衣の皺を描き、人物表現を完成させている。全体の表現は水墨の効果を以て行うために、衣の赤は裏彩色の朱が織目を通して現れる色のみとしているのである。薄く彩色しているかのような印象を受けるが、朱を薄く表に賦彩することではこの赤の効果は出せないであろう。量感のある賦彩を軽淡にみせることで赤衣の表現性を高めているのである。裏彩色の画法が最も高度な表現上の設計として用いられている例といえるであろうという。
着衣の赤だけでなく、肌にも色を着けている。やっぱり裏彩色だろう。
裏彩色し、表からは墨線で描くというのは、『一遍上人絵』の海の表現と同じだ。

梁楷の作品としては、こちらの方が好き。

雪景山水図 南宋時代(13世紀初) 絹本着色 縦111.0横50.0㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第四巻』は、雪に閉ざされた北辺の国境地帯を騎馬の旅人の進み行くところを画く。近景水辺の土坡に老樹2株、枯枝には凍りついた雪が見える。雪原をへだてた左の山の、雪に荒れた急斜面の山肌には渇筆が使われ、頂に灌木のしがみつくように生えるさまを菊花点で画く。右にはさらに高い山が、雪空の淡墨のそとぐまであらわされ、両方の山あいに関門の建物があり、その右に小さく一列の過雁が行く。この図はしかし実景に即して北地の風物を描いたものではなく、画家の構想力によって形成された作品であって、前景の低い樹の交叉と、左右から下る山の斜の線との対立緊張による画面の構成、雪景特有の明暗を鋭くつかんだ墨調の濃淡などにより、山谷の前後の重なり、距離の遠近、全景の奥深さがみごとに画きあらわされ、辺境の寒気と哀愁、さらに自然の限りない大きさ、荘重で厳粛な静けさが表現されているという。
関門は山間の奥山の下に、思ったよりも大きく描かれている。敦煌莫高窟の275窟(北涼)の闕形龕にも表された、中国伝統の闕門のように見える。
その門の大きさから、雪の中を二人の旅人たちがそこに行き着くまでは、この図を見て感じた程には時間はかからないだろうことが分かり、安堵する。こんな気持ちも、寒い時期に見たからこそなのかも。
それにしても地の経緯の絹糸が一際目立つ作品である。これを見ると、絹地が透けているというのが納得できる。
2人の旅人についての説明はないが、旅人の羽織る白い布や馬の体には賦彩されている。これも裏彩色ということになるのだろう。

『古代絵画の技術』は、絹地は透けるというところを長所として表裏の彩色を、或いは描写を一体とするところに裏彩色画法の特色と面白さがあるのだが、これを行うためにはここに一つの技術が介在することになる。裏彩色が表に滲み出ることがあってはいけないわけであり、滲み止めの技術が必要なのである。絵画は目でそれと認識できないところに技術が働いているのである。このことは絹絵に限らず麻布や綿布を素地とする場合も、また紙を素地とする場合も同様である。
裏彩色という画法名はわが国の画法の源流である。中国にはこれを指示する明確な用語が無いが、或いは元時代の𩜙自然の論著とするとする『十二忌』の中の粉儭がこれに該当する可能性がなくもない。
・・略・・ 重き者は山に石の青と緑を用い、並びに樹石を綴り、人物のためには粉儭を用いる。 ・・略・・ 人物楼閣は粉儭を用いるといえど赤須く清淡なり。
粉儭の粉は胡粉の粉であり、粉彩の粉。儭にはほどこす、たすける、内なるものをあらわすなどの意味がある。粉儭は胡粉を下塗のように、或は上塗の助けになるように施すの意味になるようである。
裏彩色、粉儭に関連して併せて検討しておくべき資料は北宋の文人、米芾の著『画史』の古画の弁別にかんする記述である。
古画は唐初に至るまで皆生絹、呉生(呉道子)、周昉、韓幹に至り、後来皆熱湯で半ば熟し、粉を入れ、槌うつこと銀板の如し、故に人物を作るに精彩入筆。
この記事は絹地の織目に粉を入れ、槌で打つことで銀板の如くにし、そうすることによって賦彩が滞りなく行えることを述べ、これが素地の時代的な特徴であることを指摘しているのである。とはいえ中国の絵画で素地がこのような状態にある作品を見た経験は無い。ただわが国の平安時代の仏画である『両界曼荼羅(敷曼荼羅)』(東寺)の絹地のように一面に白の色料(おそらくは白土)で塗布しているという例がある。粉を入れて銀板の如くするということはさておき、粉襯が織目を塞ぐために工夫された画法であるとすれば、米芾の言は画法の在り方を正しく見ていることになるという。
絹に賦彩するための先人達の工夫がよく分かる文である。ひょっとすると、壁画を描く際に漆喰を塗ることからヒントを得たのかも。
東寺の「両界曼荼羅」についてはこちら

米芾は文人で、絵画も伝わっているが、あいにく手持ちの図版がない。
幸い台北の国立故宮博物院のホームページに、米芾の春山瑞松図があった。

           日本の裏彩色

関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色

参考文献
「日本の美術401 古代絵画の技術」 渡邊明義 1999年 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「「太陽仏像部分シリーズⅡ 京都」 井上正監修 1978年 平凡社
「水墨美術体系第四巻 梁楷・因陀羅」 川上涇・戸田禎佑・海老根聰郎 1978年 講談社

2017/01/20

日本の裏彩色


『日本の美術401古代絵画の技術』(以下『古代絵画の技術』)は、我々は絵画を鑑賞する時、何がどのように描かれているのかを見るが、通常我々の判断は表に現れている、或いは示されている色彩や線を頼りに行っている。これは当然のことで、何の不思議もないが、表現が様々な材料と技術が積み重なった構造体であってみれぱ絵の表だけ注意していてはその作品の工夫のあるところを見逃してしまう危険がある。絹絵の場合、その裏に表現上の重要な作画上の工作が施されていることが多いからである。そこに絹絵の紙絵や壁面との根本的違いがある。絹絵の裏のことは誰もが見得るということではないが、そういうこともあることを知ることで作品に対する接し方も変わり、楽しみ方も増すというものである。
絹絵はその織目が透けているのが特徴であるが、絹絵には絹地の表のみを使うものと、絹地の透ける性質を前提に絹地の表裏を用いるものとがある。表のみを使った代表的な事例が『応徳涅槃図』であるという。
絵絹が透けている?そう言われると、夏物の紗や絽、あるいは羅などは確かに透けているし、地の変色した古い絹本の絵を見ると、織られている経緯の糸が分かるものがある。今まで思ったこともなかったが、絹本はかなり粗い布地だったのだ。

せっかくなので、応徳涅槃図から、

涅槃図 応徳3年(1086) 和歌山金剛峯寺
『日本の美術268涅槃図』は、日本に現存する涅槃図の最古の作品。釈迦は光背をつけず、両手を体側につけ、仰向けに横たわる。唐画をもとにしたのであろうが、その優美な姿は和様化の極地を示し、それに荘重な風韻が加わる。会衆の総数39、動物はシシ1頭のみ。沙羅双樹は4双8本。画面全体に清澄な趣が漂うという。
裏彩色がなくても、赤や白の彩色が多いせいか、描かれているものははっきりとわかるのだが。

『古代絵画の技術』は、絹地の表裏を使うということはどういうことかというと絹絵の裏からも彩色を加え、その絹表への現れ方を生かし、その上に線描きや彩色を加えて完成させるのである。この裏から賦彩された彩色を裏彩色という。
何故裏彩色のような複雑な手順をとって作画するのかということになるが、裏彩色は相当の量、即ち厚く層を成すように施される。裏彩色はその色が絹表に滲出しては絹表からの彩色に不都合である。裏彩色はこの裏彩色の表への滲出を防ぐ意味からも色料は濃い方がよいのである。勿論、裏彩色の表への滲出が色料を濃くするだけで防げると見るのは少々楽観的であり、おそらく更に別途防水加工が必要であったと考えるが、このことは別に触れることにする。
裏彩色は絹表の織物の特色である織目を生かすように賦彩し、彩色表現を完成させるのである。中国絵画の技術観では表からの彩色を薄くすることによって色料の発色を良好にし、重厚さと色料の鮮明さを兼ね備えた彩色表現が可能となると考えている。わが国の場合、表からの賦彩も厚く、裏彩色の効果が見え難い作品も往々見受けられるが、技術的原則は共通していると思う。このような彩色表現を行う場合、当然、裏彩色の色は表からの彩色を支えるためのものとして同系色で施工されることが普通であるという。

11世紀後半に制作された応徳涅槃図には裏彩色はなかったが、おなじ11世紀に描かれた図像には裏彩色の施されているものも見受けられる。

慈恩大師像 平安時代(11世紀) 絹本着色 縦161.5横128.4㎝ 奈良薬師寺蔵
『国宝大事典1絵画』は、慈恩大師(632-682)は、諱を窺基、号を洪道といい、17歳で玄奘三蔵(600-682)の弟子となり、長安の大慈恩寺で仏典の漢訳と注釈につとめ、百本疏主と称された唐時代の中国僧。わが国では、南都六宗の法相宗の開祖として、奈良の薬師寺、興福寺を中心に非常に崇拝され、その画像も多い。
大師は少年のときから眉が秀で目は朗らかで、長じても堂々として生気に満ちていたと伝えられているが、本図はそうした特徴をよく表現している。
裏彩色という、画絹の背面にも補助的に彩色をほどこす技法を使い、暖かくて明るく澄んだ色彩を、鉄線描という、太さの一定した描線を1本の無駄もなくもちいて、張りきった形態におさめている。藤原時代の最高の絵画技術をうかがうことができる。康平4年(1061)に始められた薬師寺の慈恩会に近い時期に制作されたものであろうという。
顔には照隈が施され、首の三道と共に、着衣の襞も盛り上がって、非常に活力のある祖師の図像である。
『古代絵画の技術』は、肖像の目の瞳の茶は時代によって顔料が異なり、平安時代の肖像では目の茶は朱と墨で色を作っている。恩大師像がその例である。小さな部分にも色彩表現の時代性や画家の個性が現れることがあるのであるという。
肖像の瞳は黒だと思いこんでいて、注視してこなかった。確かに茶色い。
どうやら袈裟は部分的に絵絹が剥落してしまっているようだ。ということは、袈裟のうっすらとした色合いの文様には赤い色の裏彩色があったりするのかな。

十六羅漢像うち第十二尊像 平安時代中期(11世紀後半) 縦95.7横52.1㎝ 滋賀聖衆来迎寺旧蔵、東京国立博物館蔵
『国宝大事典一絵画』は、十六羅漢とは、釈迦の入滅後に各地方にとどまって仏法を護り伝えた16人の羅漢をいう。十六羅漢に対する信仰は、唐時代に玄奘が『法住記』を漢訳して後に盛んになり、それを描くことは唐時代に始まった。次の五代から北宋にかけては禅月大師貫休が描いた羅漢像の形式(禅月様という)が好まれた。禅月大師の真筆は伝わらないが、禅月様の十六羅漢は敦煌莫高窟の壁画に五代頃の例がある。
第十二尊者は1200人の羅漢と共に半度波山にいる那伽犀那尊者である。
本図は柔らかい描線と華やかで澄んだ色調により11世紀後半の制作と考えられているという。
どちらかと言えば十六羅漢像というのは、仏画の中では地味な方だと思っていた。このようなやまと絵のような自然の中に羅漢が坐しているものもあるのだ。
禅月大師貫休、懐かしい名前とともに、その異様な風貌の羅漢図が目に浮かんできた。
それについては後日
禅月様羅漢図が敦煌莫高窟にもあるとは。しかし、「中国石窟 敦煌莫高窟5」で調べても、その図版はなかった。 
『古代絵画の技術』は、平安時代、12世紀の作。色彩は大変鮮やかで、彩色は厚目である。この羅漢図の裏には、表に彩色のあるところは全てに彩色が施されているといってよいほどであるという。
11世紀か12世紀かという点では、いつもは発行年の新しい文献の方を選ぶことにしているが、東京国立博物館でも、e国宝のページでも、11世紀とされているので、11世紀としておく。

阿弥陀聖衆来迎図 平安時代後期(12世紀) 中央幅210.8X210.6㎝ 高野山有志八幡講十八箇院蔵
『古代絵画の技術』は、阿弥陀如来の光背は裏箔の方法を最も大部に用いた例であり、光背と一体として見た場合の阿弥陀如来像の色彩表現は時代の新しい動きを示すものとして注目されるという。
光背の外縁には、表側から金粉をグラデーションにして付けている。それが阿弥陀如来だけをほんのりと浮かび上がらせて、平安仏画の上品な仕上がりとなっている。
『絵は語る3阿弥陀聖衆来迎図』は、中央に大きく描かれた阿弥陀仏ただ一体だけが体も衣裳も金色にあらわされている。一見宗教偶像なら何でもない表現に思えるが、実はほとけを絵に描くときに体も衣もすべて金色にあらわすことは日本では鎌倉時代以後にようやく一般的になったのである。現存する仏教絵画ではこの絵が最も早い例であるという。
仏像全体を金色で描いたものを皆金色という。あまりにも金ピカすぎて好きではないが、この阿弥陀如来がそれほど派手ではないのは、裏箔という手法を用いたからだろう。
裏箔であることを知らなかったので、金泥か金箔の上に、金色がくすむような彩色を施しているのだと思っていた。

涅槃図 鎌倉時代(1192-1224) 和歌山浄教寺蔵 日本の美術涅槃図
同書は、涅槃図の場面は『応徳涅槃図』の系統を引いているが、涅槃の座を天蓋で飾ったり、かなり賑やかな構成をとっている図として著名な図である。表の彩色はかなり厚みがあるが、裏彩色もかなり厚い。色は青と赤が目立っている。
裏箔は絹地が透けるという性質を使った典型的方法であり、平安時代や鎌倉時代の仏画の中に多数その事例を見ることが出来るという。
釈迦如来の枕辺に在る摩耶夫人、天部の各尊の宝冠や武器は金箔を貼り付けている。いわゆる裏箔という方法であり、金色が表に透けるので、表から細部に線描きを加えればその部分の表現は完了するという。
摩耶夫人は枕元ではなく、沙羅の木の背後から、花を持った籠を捧げ持っている。
その頭部には高い宝冠を被っているが、裏箔のせいかキラキラはしていない。菩薩の頭光の内側や白毫などにも金色も裏箔かな。
涅槃の座の赤は羅漢の肉身の赤の朱とは異なった色であり、表の顔料とは材料的には格を一つ下げているような趣きがある。高価な色料を節約することが出来るのも裏彩色の効果であるという。
確かに涅槃の寝台の赤も、釈迦の来ている袈裟の赤も綺麗な赤だが、寝台の手前で頭部を反らせて嘆き悲しんでいる比丘の着衣の赤には濁りが認められる。

五大尊像うち金剛夜叉像 鎌倉時代 京都醍醐寺
同書は、尊像の金色の装身具に裏箔の事例を見ることが出来るという。
裏箔のため装身具の金色は控えめで、炎の色を損ねることはない。
五大尊像は臂釧、腕釧、冠など多くの装身具をつけていて、金剛杵や弓矢などの武器も複数の手に持っているので、それらの金泥や金箔とは異なる輝きをたくさん目にすることができる。

一遍聖絵 鎌倉時代正安元年(1299) 絹本着色 12巻のうち巻11 円伊筆 神奈川清浄光寺蔵
『水墨美術体系1白描画から水墨画へ』は、絵巻物としては珍しく絹地の上に、謹直な筆法で丁寧に描き、濃彩を施している。一遍の廻った全国の社寺や名所など山水自然の景が、この絵巻中随所にあらわされ、しかもその山水描写には、新渡の宋元画の影響がきわめて濃厚にみられるという。
『古代絵画の技術』は、裏彩色に表からは墨線で部分的な表現を完結させている例に、鎌倉時代の『一遍聖絵』(清浄光寺)の海の表現があるという。
裏から賦彩した海の色に、表側に波を墨で表しているという。やって来た舟を曳く人々の中には藍色の着物を着た者もいる。表から彩色した着物の色と、裏から塗った海の色が同じだったとしても、見た目にはこれだけ違って見えるということかな。

裏彩色にあたるかどうかわからなが、絹地に着彩するために、古くから工夫はされてきたようだ。

両界曼荼羅、胎蔵界中央部 平安時代前期(9世紀) 絹本着色 東寺蔵
『古代絵画の技術』は、平安時代の仏画である『両界曼荼羅(敷曼荼羅)』(東寺)の絹地のように一面に白の色料(おそらくは白土)で塗布しているという例がある。粉を入れて銀板の如くするということはさておき、粉襯が織目を塞ぐために工夫された画法であるとすれば、米芾の言は画法の在り方を正しく見ていることになるという。
米芾の言については次回
『太陽仏像仏画シリーズⅡ京都』は、諸尊は眼が大きく表情が豊かで、腰はしぼるが全体としては肥満感が強い。肉身の隈取りが濃く、彩色は絢爛、描線は奔放に近い。いかにも西域画法をとり入れた唐代仏画の作風を生々しく伝えているという。

ただ残念なことは、裏箔は絹地との接着に難があり、浮き上りを作り易く、また、往昔の修理では技術上の未熟さの故に、『阿弥陀三尊像』(シカゴ美術館)のように旧い裏打と共に失われてしまっていることが多いという。
今後、修復の機会が巡ってきた時に、裏彩色についての新たなことが分かることを期待している。

                            →裏彩色は中国から

関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色
来迎図4 正面向来迎図

参考文献
「日本の美術401 古代絵画の技術」 渡邊明義 1999年 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 京都」 井上正監修 1978年 平凡社
「大絵巻展図録」 編集京都国立博物館 2006年 読売新聞社・NHKほか
「水墨美術体系第1巻 白描画から水墨画へ」 田中一松・米澤嘉圃 1978年 講談社

2017/01/17

高麗仏画展6 仏画の裏彩色


泉屋博古館で2016年11月3日-12月4日に開催された「高麗仏画展」では、多くの仏画や高麗時代の経典、工芸品などの展観と、修復を終えた泉屋博古館蔵水月観音像、そして以前の状態などを、近赤外線撮影した画像を白い布に印刷して、展示室奥の結界のように垂らされていた。その間から出入りするのは、ちょっとときめく瞬間だった。

『高麗仏画香りたつ装飾美展図録』は、白く輝くヴェールをまとい岩場に坐して善財童子の礼拝を受ける観音。高麗時代に隆盛した水月観音図像の典型でもある「水月観音像」(重要文化財 指定名称「楊柳観音像」 泉屋博古館)は、絹本着色で縦166.3㎝、横101.3㎝と類品中でも大作に属し、かつ端正な趣で知られるが、その芸術性のみならず、宮廷画家徐九方により1323年に制作されたことが明確な点でも資料的価値が高く、高麗仏画の基準作と考えられている。しかしながら、経年劣化により画面に大きな折れ、亀裂、裏打ちの剥離などが多数発生し、展示には危険な状態となっていたため、2012年春から2年をかけて全面的な解体修理を行うこととなった。
絹本絵画は制作過程において、裏彩色など裏面からの処理が作品の仕上がりに少なからぬ影響を与えるが、完成後それを見ることはできないという。
修復の時にしか見ることができないので、解説文には裏彩色についての記述がなかった、またはあっても目に留まらなかったのか、裏彩色については、伊藤若冲の作品に見られると以前講座で聞いたことがある程度だったので、新鮮な驚きだった。

表面と裏面(裏面画像はすべて反転されている)
同展図録は、東アジア絵画の伝統として、絹絵には表面だけでなく、裏面からの裏彩色が行われてきたが、それはひとつには絵具を画絹によく定着させるため、いまひとつは裏面から彩色層を透かすことで得られる視覚効果のためである。
他の少なからぬ事例と同様、泉屋本の裏彩色は過去の修理によりほとんど失われていたことである。唯一、明らかに観察できる裏彩色は、左足の甲の部分であり、薄桃色の顔料が分厚く盛りあがっていた。より子細に観察していくと、裏彩色の痕跡が随所に見られ、おおよそ制作当初の状況が浮かび上がってきた。まず裏彩色が行われていたのは観音と善財童子、踏割蓮華や珊瑚、宝珠であり、円光、岩、竹、水面では痕跡が確認されなかった。
観音の身につけるもので唯一裏彩色がないのがヴェールで、この部分は表面からのみ白色顔料(鉛白)でごく細い文様を描き入れ、さらにグラデーションをつけて刷くことで、光を包み込むような透明感を表出したという。
表に観音像の着彩の上にヴェールを描いていたということだろう。
裏彩色が残っていた左足を表面から見ると、より密度が高く重厚な趣があり、当初は全身がそのような質感だったことが推察される。そして、裏彩色のない部分との対比で主要モティーフがより際立つという。
薄桃色の顔料が分厚く盛りあげられているということだが、それを表側から見て、密度の高さとして感じられるとは。
蓮華座でさえ裏彩色はされていない。
浄瓶をのせるガラスの承盤の金縁のみには鉛白の裏彩色が。細部にいたる意識的な描き分けが個々のモティーフの質感を際立たせているという。
金を際立たせるためには裏にも金泥で描いくのかと思ったら、白色を裏地に賦彩することで、表の金色が際立つのだ。

水月観音像 至大3年(忠宣王、1310) 絹本着色 縦419.5横254.2㎝ 李(季)桂・林順・宋連他筆 佐賀鏡神社蔵
『日本の美術401古代絵画の技術』は、高麗仏画は伝統性が強く、唐時代風を継承していると見られ、画法の伝統を見る上でも注目される存在である。観音は肉身は金泥、衣は赤、おそらく朱で彩色し、細かな文様をつけている。天衣のような薄物は胡粉で線描で精緻に描いている。この図の裏は観音の肉身には赤、衣には白を賦彩している。赤は朱とするには色が重く、白は白土のような質感であった。髪には青を施している。この青は植物染料の藍であり、青黛或いは靛花を用いているのであろう。裏彩色としても地味な色料ばかりが用いられているが、裏彩色は表の彩色表現を助ける意味のものであり、用いる色料に表の色料と同質の高貴性を求める必要はないわけであるという。
金色の肉身の裏には赤の彩色、朱色の裙の裏には白色を賦彩しているという。
泉屋博古館本の水甁の承盤では、ガラス器の縁の金色を際立たせるために、裏彩色は白だったが。画師によって裏彩色の色は異なっていたのかも。
日本でも彩色には顔料だけでなく、染料も使われている。
宝函の化仏
同書には説明がないのだが、左右反転していることや細部の描き分けがないことから、裏彩色と思われる。折角の貴重な画像なのに、これでは色がわからないのは、『日本の美術』シリーズの残念なところ。菩薩の肉身と同様に白色だろう。
裙の裾文様
こういう大きな唐草文を見ていると、絵画のような平面的なものではなく、透彫を描いたように感じる。
そしてまてた、絵絹は意外と粗い織物だとわかる画像でもある。絹といえば着物地を思い起こすため、透けるということが実感できなかったが、このような粗い布ならば透けるだろう。絹本は裏打ちされていために、透けた布を使っているとは思わなかったせいもあるのだが。

裏彩色を検索してみると、日本画家の森山知己氏のホームページに、絹本制作と裏彩色 その2という頁があった。その頁のおかげで、絹地というものが透けていること、絹枠に絹を張って描くと、裏側も見えて、裏彩色も行えることを知った。ただ、仏画のような大画面でも、同じ方法で行われたかどうかは不明。

また、京都大学 工学研究科教授 井手亜里氏の韓国三大寺院 通度寺所蔵「八相図」デジタルコンテンツ化プロジェクトでは、釜山通度寺の大画面の「八相図」を、京都大学で開発した超高画像度大型平面入力スキャナで調査している画像があり、「八相図」は木枠らしきものに、おそらく張られている。
 
    高麗仏画展5 着衣の文様さまざま←   →日本の裏彩色
 
関連項目
裏彩色は中国から
高麗仏画展4 13世紀の仏画
高麗仏画展3 浄瓶の形
高麗仏画展2 観音の浄瓶は青磁
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール
 
※参考サイト
京都大学 工学研究科教授 井手亜里氏の韓国三大寺院 通度寺所蔵「八相図」デジタルコンテンツ化プロジェクト

森山知己氏のホームページより絹本制作と裏彩色 その2

※参考文献
「高麗仏画 香りたつ装飾美展図録」 編集 泉屋博古館 実方葉子、 根津美術館 白原由紀子 2016年 泉屋博古館・根津美術館
「日本の美術401 古代絵画の技術」 渡邊明義 1999年 至文堂