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2016/09/23
始皇帝と大兵馬俑展6 馬の鞍
『始皇帝と大兵馬俑展』では、軍馬の俑も展示されていた。
軍馬 陶製 高172.0長203.0㎝ 秦時代(前3世紀) 始皇帝陵2号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物館蔵
同展図録は、騎馬兵とともに並べ置かれていた。背中に騎乗のための鞍があり、それが二重構造である点は北ユーラシアに展開する騎馬文化と相通じるものであるという。
この時期には、鞍はあっても鐙というものはまだなかった。
二重構造の鞍
平たい鞍なので、列点状の凹みのあるものが鞍だと思っていたが、そう言われると、その下に四角い布のようなものがのぞいている。その布は馬の肩あたりで付け足されて、前肢の付け根あたりまで短冊状の布きれが出ている。
たてがみは前端を左右に分けているほかは短く刈り揃え、左側では一束だけ垂らしている。実戦馬という視点から見ればこれは飾りなどではなく、実用的な用途があると想像される。兵馬俑坑においては、戦車を牽く馬にはこの種の垂らしたたてがみを見ないことから、たとえば疾駆する際に騎乗者が身の安全をはかねための手がかりにしたとも考えられるという。
ある乗馬の達人に聞くと、馬が耳を前に向けているのは機嫌のいい時なのだそう。
この馬を見ていて、一束のたてがみを掴んで馬に乗っていたと想像したのたが、疾駆する際に掴んでいたとは。
そういうと、もう10年以上前のことになるが、兵馬俑坑を見学した時に、軍馬と騎乗者を撮影していた(フィルム時代)。人物と比べると馬は小さいので、乗るときに一束のたてがみを掴む必要はなかっただろう。
同展には、もっと古い戦国時代の秦の墓からも、兵馬の「陶俑」が出土している。
騎馬俑 兵馬俑の先駆け
陶製、彩色 総高220.長18.4幅7.4㎝ 戦国時代(前4-3世紀) 咸陽市塔児坡28057号墓出土 咸陽市文物考古研究所蔵
同展図録は、馬と人物とを別作りとする騎馬俑。人物は丸襟で右衽の衣を着ている。左手で手綱を引き、右手には武器を持っているのだろうか、いずれも軽くこぶしを握っている。頭髪は後頭部でこぶ状にまとめており、その上に赤い頭巾のようなものをかぶっている。馬は表面を丁寧に磨き上げており、光をあてれば光沢がでるほどである。また、馬の頭や背には面繋などを表現する朱彩がよく残るが、馬全体にも茶系の彩色を施していたとおぼしき痕跡がある。始皇帝時代の陶工の伝統をさかのぼれば、本品のような咸陽地区における戦国時代の秦の最古段階の俑へといきつくのだろうという。
乗馬の達人は、モンゴルでは、手綱は左手で持ち、右手で鞭をふるっていたという。この像もそんな風に見える。
朱で面繋などを描いているが、鞍らしきものは見当たらない。鞍は描き分かれただけか、それとも付ける習慣がなかったのか。
筒袖の長衣を帯で留めている。秦の騎兵が中国伝統の袖の長い服で、それをたくし上げているのに、それ以前にすでに胡服と呼ばれる騎馬遊牧民の服装も採り入れていたのだ。
始皇帝陵の軍馬には二重の鞍が取り付けられていた。そっくりな鞍が戦国時代の秦の領土からはるか西の墓から出土している。
馬具 前4-3世紀 新疆ウイグル自治区スバシ1号墓地11号墓出土
『スキタイと匈奴』は、スバシの1号墓地11号墓からは、鞍がほぼ完全な状態で発見された。この鞍は、中にあんこの入った枕のような革製品を2つ並べて縫い合わせて作られている。座布団かクッションのように軟らかい素材で作られているので、軟式鞍と称することができよう。
前部(図版で左側)から中央やや後方にかけて幅が広くなり、後部に向かってまたやや狭くなる。3-4列の革紐の縫い目が見られるが、中のあんこが偏らないようにするための工夫であろう。これは、始皇帝陵の兵馬俑に見られる鞍とまったく同じ作りである。胸繋の革紐が鞍の前部の断面から出ている点も同じであるという。
ということは、当時この地で暮らしていた騎馬遊牧民とも交流があったということかな。
『始皇帝と大兵馬俑展図録』は、戦国時代の国々が遊牧民「匈奴」から取り入れた代表的なものに、騎兵とその装備をあげることができる。筒袖の上着を革帯で留め、ズボンを履く騎兵の服装は「胡服」と呼ばれ、従来の中国で定着していた、袖と裾の長く垂れた服装よりも、はるかに乗馬に適したものであった。秦もまた匈奴から騎兵の知識や良質な馬を取り込み、自軍の強化に努めた。始皇帝の頃には、騎兵が秦軍のなかで部隊を組めるほど定着していたことが、出土した兵馬俑によって知られるという。
スバシ1号墓地は匈奴の墓地だったのだ。
『スキタイと匈奴』は、これらの鞍の原型にあたると思われる鞍が、パジリクで発見されている。これも枕のようなクッションを2つ並べて縫い合わせて作られており、前部から中央やや後方にかけて幅が広くなり、中のあんこが偏らない工夫が施されている。ただしパジリクでは胸繋が鞍の前部からではなく、腹帯の上部から出ていた。これでは位置が低くてずんぐり落ちてしまうため、胸繋の中ほどから馬の首の後ろを通る革紐を1本伸ばして引き上げていた。同じような革紐の存在は、ピョートル・コレクションの金製帯飾板にも見られるという。
樹下戦士文飾り板 スキタイ・シベリア(前4世紀) ピョートル・コレクション エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、馬はたてがみを一部刈り込んで飾られ、尾はおそらく布か紐で巻き束ねているようであるという。
馬の鞍には横方向に数本の筋が見られるが、これは中の詰め物が片寄らないようにするための刺子縫いであろう。この鞍の構造や、胸繋を腹帯に結び付けていること、尻繋に篦状装飾がつけられていることは、パジリク出土の馬具と完全に一致するという。
匈奴の鞍と似た「軟式鞍」は、東方ユーラシアでは共通していたのかも。
鞍と馬の体の間には、やはり別の布のようなものがありそう。
『スキタイと匈奴』は、このような軟式鞍の胸繋がずり落ちる欠点が改良されてスバシ出土の軟式鞍が登場し、それを趙の武霊王が採用して、さらに秦の始皇帝の時代にも伝わったのであろうという。
戦国時代の秦では、まだ「軟式鞍」はなかったのだ。
始皇帝と大兵馬俑展5 銅車馬と壁画の馬←
→ 始皇帝と大兵馬俑展7 繭形壺
関連項目
鐙はどこで、何のために発明されたのか?
中国最古騎馬像は
始皇帝と大兵馬俑展8 陶鍑
始皇帝と大兵馬俑展4 銅車馬と文様
始皇帝と大兵馬俑展3 銅車馬
始皇帝と大兵馬俑展2 青銅器で秦の発展を知る
始皇帝と大兵馬俑展1 満を持した展覧会
※参考文献
「始皇帝と大兵馬俑展図録」 2015年 NHK・朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」 林俊雄 2007年 講談社