ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/03/29
マルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?
トルクメニスタンのマリという街に、メルヴやマルグシュの遺跡の出土品が展観されていた。
その中で鍑好きの私の目を惹いた土器がある。しかも、鍑は青銅製なのに、トゴロク遺跡で発見されたものは土器だった。
祭祀用容器 前3-2千年紀中頃 トゴロク1号神殿出土
分厚い器体の広い口縁部には動物が乗っている。
マルグシュ遺跡でヴィクトールさんが見せてくれた図面には、人物や動物が口縁部に取り付けられた容器の図版が幾つかあり、その上に英文の解説があった。それを適当に訳すと、
原則的に壺は無文で、特殊な場合にのみ波状の刻文や出っ張った注ぎ口の装飾がある。もっと希に見られるのは口縁部に立体的な像が付けられたものだ。その場合はどれも同じ形式で、1本の木の両側に1対の山羊を象っている。これは明らかにシリア-アナトリア系で、マルギアナの土器では山羊が後ろ肢で立っていることがある。
北ゴヌールの拝火神殿で、木に留まる鳥が刻まれた土器が見つかった。儀式用の土器の一つに中央の木の両側に1対の山羊が立ち、木の枝には2羽の鳥が留まっていたという。
北ゴヌールの拝火神殿から出土したものは見つけることはではなかったが、トゴロク1号神殿から出土した容器は展示されていた。
この容器の口縁部には左側には3頭、右側には2頭の動物が取り付けられているが、樹木はない。紐状のものは何だろう。
『シルクロードの古代都市』には異なった方向から写した図版があり、また底はすぼまっていることもわかる。
タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館には、やはり口縁部に動物が取り付けられた青銅製の鍑が展示されていた。大きな容器を青銅でつくるようになってからも、祭祀用のものには動物が取り付けられたものを使用することが受け継がれてきたのだろうか。
サカの青銅製大鍋 前6-4世紀 フェルガーナ渓谷出土
リング状の把手が4つ、その間にオオツノヒツジが1頭ずつ配される。見込みは平たい。
細い足が3本か4本だが、寸胴な点が共通する。
近くには似た形の土器もあった。
土器 前7-5世紀 出土地不明
やはり分厚い器体で、動物はいないが、鳥にも見えるものが黒で描かれている。土器は祭祀用ほど重要でない場合に使われたのかな。
トゴロク21号神殿 平面図
『シルクロードの古代都市』は、「要塞」の外側、東側の隅に、平面図では大小2つの円が見えるが、ここが火の祭壇であった。小さい円の部分には聖火を燃やした後の聖灰が積もっていたという。
同書は、大きな円の内部は構造が複雑であった。まず深さ3m、幅7mの穴を掘り、その穴底を焚火で焼いて清めた後、その上に十字形に日干煉瓦の壁を積み上げて空間を4セクションに分け、それぞれにフーム(大きな甕)を5個逆さに高さ1m以上にして埋め込み、土をかけて平らにし、その上に50㎝の半円形に煉瓦を積み、真ん中を炉にした。これが祭壇であったという。
伏せて置かれたフームは、トゴロク1号出土の祭祀用容器に似た圏足である。口縁部に向かって開いたベルのような形のものはチャンかも知れないが、寸胴形容器もある。
もし祭祀用で、トゴロク1号出土の土器のように動物が口縁部に付属しているとしたら、それをわざわざ下に向けて埋める意味がわからない。あるいは、以前は祭祀に用いられたが、動物などが破損したために、下向きに埋められたのかも。
同書は、この祭壇の「要塞」をはさんで反対側に鎖のように長くのびた5つの四角形の部屋があり、その壁が炎でひどく焦げていた。この部屋とならんで、低い壁に囲まれた天井のない2つの台があった。この壁もひどく焦げていたので、ここには常時火があった可能性がある。時空を越えて、現代のゾロアスター教徒の儀礼もほぼ同じであるという。
常に火のある台から煙が立ち昇っている様子が想像復元図に描かれている。
同書は、サリアニディほか多くの研究者は、トゴロク21号の宗教がゾロアスター教の源流、つまりツァラトゥストラによって改革される前の原(プロト)ゾロアスター教だと考えているという。
それならば、後世に青銅でつくられるようになった鍑もまた、ゾロアスター教の祭儀に使われたものだったのだろうか。
尚、タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館には青銅製の鍑が幾つか展示されていた。それについては後日
マルグシュ遺跡2 青銅製印章←
→マルグシュ遺跡の出土物4 モザイクの聖櫃
関連項目
マルグシュ遺跡の出土物5 女神像
マルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)
マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り
マルグシュ遺跡2 王宮
積石塚は盗掘され易い
フン以前の鍑(ふく)はサルマタイとスキタイ
フン族に特徴的なものは鍑(ふく)らしい
※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
2016/03/25
マルグシュ遺跡の出土物2 青銅製印章
マリの博物館で、マルグシュ遺跡の出土物で一番たくさん展示されていたのは、こんな小さなもの。
衣服に付ける飾りかと思ったら、青銅製印章だった。
左手前には二羽の鳥。
同じケースの反対側から見ると、
花を表したものが多いが、5点星もすでにある。
全体にみて円形のものが多い。
左のものは三日月が4つあるようにも見えるし、右のものはギラギラ照りつける太陽のようでもある
四角形もあったりする。これを粘土に当てると印影は四菱になりそう。
博物館で買ったのか、それとも現地ガイドさんがくれたのか、よく覚えていないが『Marguş』という冊子が手元にある。そこには青銅製の印章の表側の図版が掲載されており、数は少ないものの、一目で何を表したものかがわかるし、線刻による細かい表現も施されている。
獣(ライオン?)に乗る有翼の神(女神)像
2匹の蛇に噛まれる猛禽または2匹の蛇を従えて空に舞う猛禽
玉座で杯を手にする王?
これは印章と印影だが、印影には細かな表現はない。おそらく、このように粘土に刻印した後、篦などで目や口、着衣の文様などを線刻したのだろう。
かなりの数の青銅製印章が出土しているが、少ないとはいえ石製のスタンプ印章もあった。
左上などはカエデの葉を表したようにも見えるが、石製のものはあまり優れた出来栄えとは言い難いのは、持つ人の身分の差なのだろう。
印影も展示されていた。
吠える犬?
印影があっても、何を表しているのかほとんどわからない。
円筒印章もあったが・・・
しかしながら、これらが全てマルグシュ遺跡で製作されたものなのだろうか。
というのも、『アフガニスタン悠久の歴史展』でも似たような印章が展示されていたからだ。
鷲文印章 前2000-前1900年頃 バクトリア出土 銅 直径7.5㎝ 個人蔵
同書は、鷲は好まれたモティーフのひとつで、表現例は多いという。
両足が左右斜めに出て、周囲の組紐文を掴んで空を飛んでいるようだ。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、このような美術を生み出せる社会は、どのような条件で成立したのであろうか。
考古学の立場からすれば、それは食糧を中心とする生産力の増加率と人口増加率とのバランスにあると考えられる。まったく新しい環境を開発し、あるいは新しい生産様式を確立し、人口増加を上回る食糧生産が可能となった場合、生活水準は向上し、人間はある程度の余裕をもって暮らすことができる。そのような背景のもとに生まれる美術は率直な写実的なものが多く、時代を超えて共感できる普遍的なものとなりうるだろう。
しかし、歴史的に長い視点でみれば、このような生産力の伸びはかならずそれを上回る人口増加によって阻害されるのである。バクトリア青銅器文化の場合も、もっとも輝かしい美術作品を残したのはその前期(前2200-1800年頃)であり、その後はほとんど見るべきものはなくなっていく。社会の不安定要因が増大し、環境の破壊や生活の困窮が進行しつつあったのであろうという。
マルグシュ遺跡のあるマルギアナとバクトリアについて『シルクロードの古代都市』は、マルギアナは古代において、西方でパルティア、北東でソグド、東でバクトリア、南でアレイアと接していた。
1969年にはソ連・アフガン共同考古学調査団が編成され、青銅器時代の遺跡サパリテパ、ジャルクタン、アムダリヤ中流部左岸(アフガン領)ティリャ・テペ、ダシュリ1号と3号などが発掘調査され。マルグシュとの遺跡の比較が可能になった。その結果サリアニディは1976年、「バクトリア-マルギアナ考古学複合」(BMAC)という仮説を提起したという。
マルグシュ遺跡でもバクトリアと似たようなものが作られたとしても不思議ではないのかも。
青銅製の印章は、バクトリアよりも南方、モヘンジョダロよりも北にあるムンディガク遺跡からも出土している。
印章 ムンディガク出土 前2800年頃 青銅 2.7X4.2、2.6X3㎝ ギメ国立東洋美術館蔵
『アフガニスタン悠久の歴史展図録』は、ムンディガク(カンダハルの北西55㎞)の発掘による出土品。ムンディガクの第4期、すなわち前3000-前2500年の層から発見されたものである。この時代は、この町の広がりが50haにも達しようとしていた絶頂期にあたる。町は日干レンガで築かれた城壁に囲まれ、方形の稜堡を備えていた。城内には、半円柱に飾られた階段のついたプラットホームや、カザルが神殿と考えた三角稜堡を備えた2重壁の巨大建造物など、記念碑的な建造物が複数あったという。
同じ時代に石製の印章も作られていた。
印章 ムンディガク出土 前2800年頃 クロライト 5.5X3㎝ ギメ国立東洋美術館蔵
同書は、印章は所有権を明示するためや封泥に押すものであるが、中央アジアでは装身具に用いたり、土器に文様をつけるための道具として使われた。波線や交叉を組み合わせて巧みに模様を創り出しているという。
装身具というのは、服地に文様を染めたということではなく、印章そのものを衣装に付けたということかな。
マルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)←
→マルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?
関連項目
マルグシュ遺跡の出土物5 女神像
マルグシュ遺跡の出土物4 モザイクの聖櫃
マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り
マルグシュ遺跡2 王宮
※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「アフガニスタン 悠久の歴史展図録」 前田たつひこ監修 2002年 NHK・東京藝術大学
「Marguş」 Marysyyahat
2016/03/22
マルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)
トルクメニスタンの青銅器時代の広大なマルグシュ遺跡では、都城址のゴヌール1号遺跡を見学し、また、出土物をマリの博物館で見学した。
王族の墓のうち第3900号墓では、馬の骨と共に青銅製車輪の箍が副葬された墓坑があった。四輪馬車だったらしいが、荷車として用いられたのか、それとも墓主が乗り回した戦車だったのだろうか。
ぐにゃりと曲がったものが青銅の輪っか。当時他の遺跡では見られないものだそう。
車輪にしては幅が狭いような・・・
マリの博物館では、その復元品が展示されていた。前3ー2千年紀の初頭とされている。
右には錫杖が3本あるが、青銅青銅製は一番下の杖の握り部分のみ。
この場所からは青銅製の壺も出土している。
マリの博物館では、発掘されたものが展示され、現地ではレプリカが置かれていた。
そしてスコップの先もあった。外では発掘作業が続いており、そこに置かれた現在のスコップとあまり変わらない形をしていた。
博物館で見たもの
剣は先が折りたたまれたものもあり、非常に薄い。実用品ではなく、副葬品では。
剣先が写っていないが、これは実用品かな。いや、武器としての剣はもっと分厚いはず。
釘
装飾的なものも
化粧道具も青銅製
鏡も
そして、腕輪らしいもの(左下)や、
指輪に篦の類も。
→マルグシュ遺跡の出土物2 青銅製印章
関連項目
マルグシュ遺跡の出土物5 女神像
マルグシュ遺跡の出土物4 モザイクの聖櫃
マルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?
マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り
マルグシュ遺跡2 王宮
※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
2016/03/18
ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風
ニサ遺跡には円形平面にドームを架構したとされる⑨円形の広間がある。
実際にはこのような遺構があるだけだが、
想像復元図ではパンテオンまーのようなドームになっている。
旧ニサの円形神殿復元図 前2-後1世紀
『0LD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、ゾロアスター教時代の典型的な建物だった。円形の広間は二階建てで、下階はくぼみのない壁面、上階は円柱の間の各壁龕に彩色された神々の塑像があったという。
これは復元想像図だ。これまで見てきた建物から考えて、この時代の円形の建物に、当時ローマのパンテオン(後118-128年)のような格間があって、半球ドームが架けられたとは考えにくい。きっと円錐ドームだっただろう。
パンテオンのドームができるまではこちら
『世界美術大全集東洋編15』は、 135
そして、ドームの下では等間隔でコリント式風柱頭ののった円柱がドームを支え、柱間にある半円アーチの壁龕に人物の彫像が置かれている。
女性立像 前2世紀 大理石製(右像の下半身は別の石材) 高さ、左51.0右:60.0㎝ 王の宝物庫出土
おそらくこのような彫像を元に復元図が描かれたものと思われるが、その姿態はヘレニズム風である。
『埋もれたシルクロード』は、この地において、青銅器時代にはプロト都市的タイプの大集落が形成されたのである。その後衰退と荒廃の時期を経て、鉄器時代にはいってからはこの地に内城のある中心地エリケン・デペが出現した。
前6-4世紀、パルティアはアケメネス帝国の領内にはいった。われわれは当時の摩崖碑文によって、パルティアが一時、古代史に明白な痕跡を残しているダレイオスの父ヒュスタスペスの治下にあったことを知ることができる。「ダレイオスの遺産」をめざして困難な東方遠征に向かったアレクサンドロス大王は、この地に長く止まらずに、以前の支配者=サトラプを確認しただけであった。事実、果てしない砂漠の端にある貧しい国は、虚栄心の強い征服者にとってとるにたりないものであったかも知れない。ストラボンもその『地理』の中で書いている。「パルティアはあまり大きくない・・・。その土地が狭い上に、一面樹木におおわれ、山がちで貧しいために、大王はその軍勢を率いて、大へん急いでこの地を通過した」という。
アレクサンドロスはバビロンで急死、広大な支配地はその部将たちによって分割された。パルティアはセレウコスの支配下におかれた。
同書は、しかしパルティアの住民は、自らの国が異国の支配者の玩具になることを欲しなかった。 ・・略・・ したがって、セレウコス朝弱体化の最初の最初の兆候が現れるやいなや、パルティアを含むその東部サトラペイアが脱落し、独立を宣した。まもなくパルティアに遊牧種族が進入したが、これはかつてセレウコス朝国家からの分離をうながしたのと同じ勢力であったと思われる。遊牧民の首長は新王朝を創始したが、これは創始者の名前によってアルサケス朝とよばれているという。
という訳で、衰退していたためにアレクサンドロスに蹂躙されずに済んだニサの地にも、ヘレニズム文化は伝播し、このような彫像が造られることとなった。
右像について『世界美術大全集東洋編15』は、ミトラダテス1世(在位前171-138年)が西アジアのセレウコス朝の都市を攻略したときに持ち帰った略奪品だった可能性もあるという。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ヘレニズム美術が着実にこの地域に伝播し たことはイラン系のアルサケス朝パルティア(前3-後3世紀前半)の時代に制作されたさまざまな作品が物語っている。アルサケス朝の宮廷美術は、その初期 の首都であった現トルクメニスタンの旧ニサの宮殿や神殿から発掘された若干の彫刻以外、ほとんど現存していないという。
兵士の頭部 前2世紀 ニサ、⑮方形の建物に付属する部屋出土 粘土、目は貴石の象嵌 高45.0㎝ アシュハバード、トルクメニスタン科学アカデミー蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、塑像は輸入品とは考えられないので、この地にギリシア美術(ヘレニズム美術)の技術を身につけたギリシア系の工芸家が存在したことが判明する。粘土で成形し、表面にストゥッコ(化粧漆喰)を塗って着色しているが、その顔貌表現は写実的である。人体の細部を詳細克明に再現する様式はパルティア美術の特色の一つであるから、のちの1-3世紀に西アジアで開花したパルティア美術の萌芽が見られるという。
ギリシアの工芸家が、写実的には東方アーリア系(イラン系)の人々を表現したということだろう。
上の女性像とはかなり雰囲気が異なる。
コイン
アルサケス王(在位前247-211年)は若く、ミトラダテス王(1世?)は老人に表されている。
リュトン 前2世紀 象牙 右は高さ43.5㎝ 王の宝物庫出土 アシュガバード、トルクメニスタン国立歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、リュトンは葡萄酒を飲む酒宴に用いられた古代の代表的な酒器で、アケメネス朝ペルシア、アルサケス朝パルティア、ギリシア、ローマなどでも銀や金製のリュトンが愛用された。
しかしながら、象牙製のリュトンがこれほど大量に一度に出土した例は知られていない。角形の本体の湾曲度、その長さから判断すると、このリュトンの形はヘレニズム時代に属する。これらのリュトンがどこで制作されたのか明らかではないが、少なくとも旧ニサではないようである。その制作地としては、インドの象牙を入手しやすかった東方のバクトリアのギリシア人都市が有力視されている。しかしこのリュトンは元来セレウコス朝の宮廷が所有していたもので、パルティア人がそれを略奪したものであるから、制作地はメソポタミアで、ギリシア系工芸家によって作られたという説もあるという。
こういう風に見ていくと、数少ない旧ニサ出土の美術品でさえ、旧ニサで制作されたものは少ない。
その点建築部材や壁画は、パルティア人の仕事だったかどうかは不明だが、確かに旧ニサで造られたものである。
ライオン頭部浮彫 テラコッタ製 メトープの一部
メトープは、エンタブラチュア(日本風に言えば鴨居)の上に、トリグリフ(束石)と交互に嵌め込まれた装飾のある板である。
そのアルカイック期の例はこちら
ギリシアのメトープと比べると幅が狭いが、
パルティア美術とされるコンマゲネ王国のアンティオコス1世の墓がその山頂に築かれたネムルート山の西のテラスにあったライオンの彫像と比べると、ヘレニズム色の濃い表現となっている。
腰羽目板 石製 ⑫赤い建物出土
赤や橙色の縦溝の並ぶ上には卵鏃文様のようなものを横に並べる。
これはエピダウロス遺跡に併設された博物館で見た、軒飾りにあるモティーフが伝播したのだろう。クラシック期からヘレニズム期と幅が広いが、アンテミオンの表現からクラシック期のように思われる。
若者頭部 前2世紀 ニサ出土 壁画断片 高12.0㎝ アシュハバード、トルクメニスタン科学アカデミー蔵
アルファベットらしき文字も書かれている。
顔や首筋、鼻の脇はほのかに濃く、隈取りが施されているように感じられる。
壁画断片
右は馬に乗る人物、左下には後ろ向きの馬の頭部、その左には青い馬に乗って弓を引く人物の左手、その向こうにも馬に乗る人物の背中が見えている。パルティア人の遠征を描いたものだろうか。
右の馬の首には確かに濃淡があり、立体感を出して描かれている。
ニサ遺跡からの出土物は、ほとんどが首都アシガバードにある国立博物館に収められているが、ちょうど休館日で見学できなかったのは残念だった。
関連項目
隈取りの起源は?
ニサ遺跡、円形の広間のドーム
円形平面から円錐ドームを架ける
ネムルート山の浮彫石板
参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「0LD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「埋もれたシルクロード」 V.マッソン著 加藤九祚訳 1970年 岩波書店(新書)
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