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2014/06/20
中国の仏像でギザギザの衣文は
ギリシアのアルカイック期に始まったジグザグの衣文線は、まだ釈迦が像として表されない頃にすでに伝播し、クシャーン朝期には仏教の像として表されるようになった。
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菩薩立像 後2-3世紀 パキスタン、シャーハバーズ=ガリー出土 片岩 高さ120㎝ ギメ美術館蔵
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、菩薩像はインドの王侯貴族をモデルとしている。写実的な顔、筋肉の描写、襞の表現はギリシア美術に由来する。立像の場合は、ギリシアの神像の立脚遊脚の原理を導入して、身体に微妙な動勢を与えているという。
裙は広い布を巻き着けているためか、大きくギザギザに垂れ、そこに襞の端がギザギザの衣文で表される。
その表現は日本の仏像でも見られるものだが、まず、中国に伝わっていった痕跡を辿ってみると、
双菩薩立像 3世紀末~4世紀中葉(キジル石窟の草創期) 新疆ウイグル自治区クチャ郊外、キジル石窟92窟主室ヴォールト天井右側
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、草創期の人物表現は外来のものが顕著である。壁画の中でも、天人の形象はガンダーラの3世紀における菩薩彫像に近い。
菩薩の裙の上に鈎勒捧の褐色線で衣文が描かれる。黄色の暈繝で質感が強く表されるという。
説明の通り、ギリシアの壺絵にも見られなかったような隈取りで、ただの線ではなく、衣の厚みが感じられる。
中国でも、このジグザグの衣文線に名称はないようだ。
金銅菩薩立像 西晋~五胡十六国時代(4世紀初め) 高33.6㎝ 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰館蔵
『中国の金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り、宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近く(陝西省三原県)と伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
体のバランスはかなり違うが、上のガンダーラの菩薩立像とよく似た仏像で、顔も東アジアっぽくない。当時中央アジアで暮らしていたイラン系の民族によってつくられたものだろう。
裙も短めだが、その衣がジグザグに垂れたり、襞の端がジグザグに表されたりと、ガンダーラの影響を強く受けている。ただ、ジグザグの衣文線は様式化され、天衣の端にはびっしりと並んでいる。
仏像や仏画の制作は、技術の高い工人を現地に呼び寄せて造らせたりするが、このような持ち運びできる像は、もたらされた場所でコピーをつくることができるという点で、伝播に貢献している。
金銅菩薩立像 五胡十六国時代(4世紀) 高8.4㎝ 個人蔵
同書は、小像ながら、頭部の形式や、胸飾り、腕釧、左手の小瓶、天衣の掛け方、背面の衣褶など諸点が形式を共にする点で貴重であるという。
将来像を真似て鋳造を重ね、オリジナルからかけ離れてしまったようだ。それでも目鼻立ちがはっきりしていて、西域系の住民がつくったことを感じさせる。
ギザギザの衣文線は残っている。
思惟菩薩像 4世紀中葉-5世紀末(キジル石窟の発展期) キジル石窟38窟主室前壁
左手に絡んだ天衣の端に、白線でジグザグの衣文線が見られる。
飛天図 高昌郡ないし高昌国期(327-640年) 新疆ウイグル自治区、トルファン郊外火焔山中、吐峪溝石窟20窟後壁北端上層
曲線的だが、左右対称にギザギザの衣文線が表されている。
仏立像 西秦(385-431年) 甘粛省蘭州郊外、永靖炳霊寺第169窟北壁後部
炳霊寺石窟は西秦時代という、かなり早い時代に開鑿された石窟で、しかも開創期の仏像が残っている。
『北魏仏教造像史の研究』は、甘粛省の祁連山脈北側の山々に囲まれた長さ1000㎞に及ぶいわゆる「河西回廊」は、インドから西域を経て敦煌、長安へと通じる仏教の幹線路であった。西秦が都を置いた金城、苑川、枹罕は当時仏教が盛んであった長安と姑臧の中間に位置し、東西に行き交う求法僧の通過地であったため、国内外の高僧が集まったという。
左手の下に垂れた長衣や、右手でつまんだ衣の端がギザギザになっている。
これをギザギザと決めつけるのは強引かも知れないが、このような体に密着した衣や、薄い衣を通して体の線がわかる表現は、5世紀のインド、グプタ朝の仏像の特徴でもある。
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しかし、ギザギザの衣文線は同窟内の菩薩像に残っている。
菩薩半跏像 西秦 同第169窟西壁下部 塑造
右膝にのせた左脚から垂れる裙が、左右対称の曲線的なギザギザの衣文線となっている。藤井有鄰館蔵菩薩立像の衣文線に似ている。
菩薩交脚像 北涼(5世紀前半) 甘粛省敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、莫高窟は前秦・建元2年(366)、僧楽僔によって開創されたという。しかし、開創期にさかのぼる洞窟は現存していないという。
裙は両脚にぴったりと貼り付くような薄い衣で、襞は凸線でほぼ平行に表されるが、裙の中央部には、褪色した青色でと細い刻線で、ギザギザの衣端が表されている。
また、両肩に掛けた披巾の衣端は外側に反り返り、青い色のギザギザと、その外側に模様のある布の端が、やや丸みのあるギザギザで表現されている。
そして裙にもギザギザの衣文線がある。前中央部で、左右の布が合わさっているところが、襟のように折り返しになっているし、実際にはそんなことがあり得るのかどうかわからないのだが、ふくらはぎの上側にも同様の衣端がかかっている。
如来坐像 北魏(5世紀後半) 山西省大同市雲崗石窟第20窟正壁 石造
同書は、文成帝の和平(460-465)の間に曇曜が、帝都平城(現、大同市)の西、武州塞において、山の石壁を彫って石窟を5か所開き、各窟に仏像を1体ずつ彫り出すことを奏上したと伝え、これが現在の雲岡石窟のことと考えられるという。
涼州式偏袒右肩の着衣は、左肩から腹部中央へと向かう袈裟の衣端と、右肩に掛かった衣の端に、ギザギザの衣文線が刻まれている。
涼州式偏袒右肩について『北魏仏教造像史の研究』は、本来の偏袒右肩では、袈裟は背面を左肩から斜めに横切って右腋下へ回るのであるが、背面側の衣の縁を引っ張り上げて、右肩に懸けているのである。
このような変則的な偏袒右肩は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と命名したように、涼州一帯で早く出現したように見える。ただし、ガンダーラの塑像やギリシャ・ローマ彫刻の中には、これと近似する着衣表現が認められ、直接的ではないにせよ、関連があった可能性も否定できないという。
涼州式偏袒右肩は河西回廊で生まれたものと思っていた。
その後もギザギザの衣文線は続いていく。
如来三尊像うち両脇侍 北魏正始2年(505)以前 龍門石窟古陽洞正壁右側
曲線的なギザギザの衣文線が裙の裾にある。
裳懸座にもギザギザの衣文が並ぶ。
仏三尊像うち二尊 北魏時代後半(494-534年) 甘粛省天水県麦積山石窟第133窟第3号龕
北魏時代は、孝文帝が洛陽遷都後推し進めた漢化政策によって、人民だけでなく、仏像も双領下垂式の中国式服制となり、重く分厚い服装をしている。
主尊の両手から下がる大衣の衣端は、ギザギザの線を描きながら台座にまで長く垂れている。
本来は下半身に裙を着け、上半身は裸の菩薩も中国式の服装となり、天衣の端にギザギザに折りたたまれた衣文が見えている。
菩薩立像(蝉の菩薩) 北魏-東魏(6世紀) 石灰石・彩色 像高97.2cm 博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 山東省蔵
膝あたりから、裙の中央に左右対称のギザギザの衣文線が2段見られる。今は失われた両足にかかる衣端は曲線的に折れ曲がり、ギザギザの衣文線が装飾的に変化している。
金銅菩薩立像 高65.0㎝ 北周(557-581) 東京藝術大学美術館蔵
蝉の菩薩よりも裙が短くなり、中央から左右にギザギザの衣文線が繋がっていく。天衣の衣端もギザギザの衣文線があり、裙の傍に添って左右に広がる。
アルカイック期の衣文が仏像の衣文に←
→ギザギザの衣文線は半島経由で日本にも
関連項目
身体にそった着衣はインドから?
※参考文献
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟美術研究所 1998年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 中国壁画全集編集委員会編 1995年 新華書店天津発行所
「中国新疆壁画全集6 吐峪溝・伯孜克里克」 中国壁画全集編集委員会編 1995年 遼寧省新華書店
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国・山東省の仏像 飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「金銅仏-東アジア仏教美術の精華展図録」 2002年 泉屋博古館